第29話 飾りの忠誠/骨の記録
夜明け前の書庫は、静かすぎた。
窓の外がまだ藍色をしているうちに、わたくしは机の前に座っていた。封書のひとつを手に取り、参照番号の欄を眺める。7桁あるべき番号の3桁目が、また白紙だった。
欠けた索引札。
これが抜かれたのは偶然ではない。誰かが、意図的に跡を消した。そしてその誰かは、消した場所を知っている。
ならば、逆に当てられる。
「……セレスティーヌ様」
声が落ちてきた。振り向くと、ロイドが燭台を一本持って立っていた。手袋は、右手が白、左手がわずかに象牙色だった。微妙に色が違う。彼はそのことに、まったく気づいていない様子で真顔だった。
「夜明けまで、あと1時間ございます。蜂蜜茶をお持ちしました。最適温度でございます」
「……ありがとうございます」
わたくしはカップを受け取りながら、手袋について何も言わないことにした。今それを指摘してしまったら、なぜだか笑ってしまいそうで、怖かった。まだ笑える場所に立っていないと思っていたのに、案外、笑える場所はすぐそこにあった。
それが少しだけ、恐ろしかった。
「索引の逆算は、終わりましたか」
後ろから別の声がした。レオンハルトだった。外套を羽織ったまま、いつ来たのか、棚の入り口に立っている。古書の匂いが、かすかにした。
「8番棚と12番棚の間に、1段だけ登録が飛んでいる区間があります。そこに、欠けた番号が集まっているはずです」
レオンハルトは何も言わなかった。ただ、「……そうか」とだけ言って、燭台をひとつ持ち、先を歩いた。
わたくしは索引帳を抱えて、後を追った。
8番棚と12番棚の間の通路は、思ったよりも狭かった。棚の背がわたくしの頭より高く、両脇から押してくるような圧迫感がある。燭台の炎が揺れるたびに、背表紙の文字が影で伸び縮みした。
並んでいるのは、ほとんどが誓約文書と儀礼記録だった。豪奢な革装丁、金で押された文字。「王家への忠誠を誓う」「領地の奉納を承認する」「世代に渡り、王都の方針に従う」。言葉が、きれいに並んでいた。
「飾りの忠誠、ですね」
思わず、声に出してしまった。
「……君が言うと、重い」
レオンハルトが、静かに返した。
重い。そう言われて初めて、自分の言葉の重さに気づいた。わたくしにとってそれはただの観察だったのに、彼にとっては、どこかへの刺さり方をしていたらしい。
並んだ背表紙の中に、一か所だけ埃が厚い区間があった。革装丁ではなく、麻張りの実務台帳が、まるで誰かに積み上げられて忘れられたように突っ込まれていた。
これだ、と思った。
手を伸ばしかけて、止まった。背表紙の端を指が触れた瞬間、いつもなら撫でていたはずの動作が、途中で止まった。怖い、というより、違った。今日は怖いから触れているのではなかった。
「棚番が、合います」
声が震えなかった。自分で少し、驚いた。
麻張りの束を引き出すと、台帳の間から一通の封書が滑り出た。封蝋が2枚重なっていた。印章が二重になっている。外側が公爵印で、内側がそれより古い印章だった。わたくしはすぐにそれを認識した。
以前、机の隅に残っていた封蝋の欠片。あの割れた破片の印と、形が重なる。
「……同じ重なり、です」
小声で言った。レオンハルトが燭台を近づけた。炎が二重の封蝋を照らし、影が棚の天井まで伸びた。
「開けますか」
ロイドが間髪入れずに言った。
「まず書誌情報を確認します」
わたくしは封書を受け取り、外側だけを読んだ。書かれていたのは日付と参照番号、それから「除く」という一単語だった。文の続きは、封の中にある。
「除く」。
その言葉を見た瞬間、胸の中で何かが整った。探していたものの輪郭が、ここにある。
「……手袋を」
ロイドに向かって言った。彼は一瞬だけ自分の手袋を見て、何事もなかったように封書用の白手袋を鞄から取り出した。今度は、左右が揃っていた。
「正式手順で開封いたします」
「ええ」
レオンハルトがわたくしの隣に立った。外套の裾が肩の横で静止した。押しつけがましくなく、ただ、そこにいた。
わたくしは手袋をはめた手で、封書の縁を指でなぞった。破かないように。記録が傷まないように。
文書を広げると、最初の行に見えたのは条文だった。
読んだ。
読んで、止まった。
もう一度、最初から読んだ。
文章は古く、言い回しが難解だったけれど、意味は明確だった。この領域において、王家の直接命令権は「以下の条件を除く」と書かれており、その「除く」の続きには、領主の合意を必要とする案件が列挙されていた。書庫。記録。人事。通商。
4つが並んでいた。
「レオンハルト様」
わたくしは声を出した。
「これは」
言葉が続かなかった。ではなく、続けなかった。言葉にすると、この紙が現実になる。現実にしてもいいと判断するのに、2秒だけかかった。
「盟約書です。——王家の命令権を、制限する条文が入っています」
ロイドが息を呑む音がした。
レオンハルトは、しばらく沈黙していた。それから、一度だけ長く息を吐いた。
「……そうか」
その声は、いつもより低かった。静かだった。いつもの「……そうか」と同じ言葉なのに、重さが違った。
わたくしは文書を机の上に置いた。開封して広げた状態のまま、手袋をはめた指でもう一度だけ条文の最初の行をなぞった。
飾りの忠誠は、燃やせる。
でも骨は、燃え残る。
わたくしが王都を出た日から、この書庫はずっと、この一冊を待っていたのかもしれなかった。いや違う。待っていたのはわたくしで、この書庫がわたくしを呼び込んだのかもしれなかった。
どちらが先だったかは、もう関係なかった。
盟約書が、見つかった。
——王家の命令権を「制限する」条文が、確かにある。
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