第28話 怒声の裏の本音
応接室の空気が、昨日より1段、冷えていた。
使者ベルトランは椅子に深く腰を据え、羊皮紙の端を指先で叩いていた。音は規則的で、待つことに慣れた人間の音だ。その横でロイドが封書を控え、封蝋の割れた縁を無言でなぞっている。彼の指の動きが、いつもより遅かった。
「整える、というだけのことです。国庫台帳の数字を——見やすく、順番を整えていただければ」
穏やかな声だった。丁寧すぎる声だった。
昨日の「記録を寄越せ」より、今日の「整えるだけ」の方がずっと怖かった。
「整える、の範囲をお聞かせいただいてよろしいですか」
自分の声が、思ったより静かに出た。
「……範囲、とは」
「数字を並び替えるのか、参照のない金額を書き加えるのか、削除するのか。整えるという言葉は広うございますから、承知しかねます」
一瞬の間があった。
ベルトランの指が、止まった。
その止まり方が、答えだった。
わたくしは続けた。声を落とさずに。
「国庫台帳に存在しない金額を書き加えることを、整えると呼ぶのであれば——それは記録ではなく、改竄です。わたくしの【記録】は、そのようには使えません」
「記録係ふぜいが」
声は変わらず穏やかだった。ただ、言葉の芯だけが固くなった。
「誓約罰の手続きはすでに申請しております。本日中に署名がなければ、魔法の使用制限が確定します。あなたの記録魔法は、期限切れになる」
胸の中で、何かが冷たく落ちた。
腕が、わずかに強張った。
怖い。怖いのに、右手が棚の方へ動きかけた。背表紙に触れようとした。いつもの癖だ。でも、ここは書庫じゃない。わたくしは手を止めた。膝の上で、指先だけが動いた。
「……それが、王家からの回答でしょうか」
「要請です。今のところは」
今のところ、という言葉が、応接室の天井に貼りついた。
ロイドが小さく咳払いをした。足音は聞こえていなかった。だからその声が扉のそばから聞こえた時、わたくしは一瞬だけ心臓が跳ねた。
「失礼します」
低い声が、部屋に入ってきた。
扉の前にレオンハルト様が立っていた。
閣下が来たのは執務室の傍を通りかかったからではないと、後で聞いた。でもその時は、どこか遠くのことのように感じた。
「ベルトラン殿。これ以上の話はわたしが受ける」
声は静かだった。最初の一言は。
「閣下、これはあくまで記録係への——」
「記録係ではない」
声が、変わった。
わたくしは聞いたことがなかった。この方がそういう声を出すのを。石の壁に打ちつけたような声だった。怒鳴る、というより、積み重なったものが一枚、底から剥がれるような音だった。
「彼女はこの領の人間だ。そして、記録は彼女自身だ。国庫の帳簿を曲げろと言うのは、彼女に骨を折れと言っているのと同じだ。……君を道具にするなら、王家でも敵だ」
室内が、静止した。
ベルトランの指が、完全に止まった。ロイドは封書を胸元で押さえたまま、目だけを動かした。
わたくしは、閣下の横顔をただ見ていた。
廊下に出た後、閣下の歩みが遅くなった。
わたくしが並んでいると気づいた時、ほんの少しだけ視線が逸れた。
「……言い過ぎた」
ぽつりと、こぼれた。
「いいえ」
「王家でも敵だ、は、あの場では過剰だった。ベルトランに言ったところで権限の外だ。意味がない」
「意味がなくはありません」
声が、わたくしの胸の中で揺れていた。
嬉しいのに、怖い。
どちらかだけなら、もっと簡単だった。
嬉しいのは——誰かがわたくしの骨を守ろうとした声だったから。
怖いのは——その声が、この人の代償になるかもしれないから。
守られる、ということが、どういう結末を呼ぶか、わたくしはもう一度だけ考えた。王都にいた5年間、守られなかった。だから守られることが、今でも怖い。いつか、また、いなくなる準備として「守る」と言う人を、見てきた気がした。
でも、この人は違う。
違う、とわたくしは思っていた。思いたかった、のかもしれない。
「……閣下」
立ち止まって、閣下を見上げた。
「わたくしは、折れません。でも——今日は少しだけ怖かったです」
閣下が、わたくしをまっすぐ見た。何かを言おうとした。口が、わずかに開いた。
でも、言葉は来なかった。
代わりに、閣下の手がわたくしの背後の壁の近くに伸びて——何でもない素振りで止まった。
「……夜、書庫に来てくれ。索引の続きを見たい」
それだけだった。
夜の書庫は、いつもよりずっと静かだった。
閣下が隣の棚の束を引き出し、わたくしが索引の参照先を読み上げた。ロイドがカップを2つ置いて下がった。蜂蜜の湯気が、古書の匂いに混ざった。
「この参照番号は、F系列の第3群だ。昨日の封書にも同じ欠落が——」
閣下が言いかけて、止まった。
わたくしも止まった。同じ欠落、ではなく、同じ「欠けさせ方」だと思った。意図がある。では、誰が。
閣下が机の隅を見た。ロイドが先ほど何気なく置いていった封書の欠片——王家の紋と辺境の紋が重なった封蝋の残片が、燭台の明かりを反射していた。閣下はそれを、少しの間、見ていた。
わたくしは棚の索引に視線を戻した。
何かが引っかかった。
昨日まで確かに埃をかぶっていた棚の一列が、今夜は——なぜか、埃が薄い。
誰かが触った。
今日、ここに来た者がいる。
閣下の手がカップの位置を直した。1度、2度——3度。気づいているかどうか、閣下本人には分からなかっただろう。
わたくしには分かった。
照れているのか、気にしているのか、それとも今夜の自分の言葉をまだ引きずっているのか——この方は、言葉にする前に手が正直になる。
そのことを、今夜だけはそっとしておこうと思った。
それより。
棚の奥が、静かすぎる。
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