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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第5章 改竄要求の踏み絵

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第28話 怒声の裏の本音

 応接室の空気が、昨日より1段、冷えていた。


 使者ベルトランは椅子に深く腰を据え、羊皮紙の端を指先で叩いていた。音は規則的で、待つことに慣れた人間の音だ。その横でロイドが封書を控え、封蝋の割れた縁を無言でなぞっている。彼の指の動きが、いつもより遅かった。


「整える、というだけのことです。国庫台帳の数字を——見やすく、順番を整えていただければ」


 穏やかな声だった。丁寧すぎる声だった。

 昨日の「記録を寄越せ」より、今日の「整えるだけ」の方がずっと怖かった。


「整える、の範囲をお聞かせいただいてよろしいですか」


 自分の声が、思ったより静かに出た。


「……範囲、とは」

「数字を並び替えるのか、参照のない金額を書き加えるのか、削除するのか。整えるという言葉は広うございますから、承知しかねます」


 一瞬の間があった。

 ベルトランの指が、止まった。

 その止まり方が、答えだった。


 わたくしは続けた。声を落とさずに。


「国庫台帳に存在しない金額を書き加えることを、整えると呼ぶのであれば——それは記録ではなく、改竄です。わたくしの【記録】は、そのようには使えません」

「記録係ふぜいが」


 声は変わらず穏やかだった。ただ、言葉の芯だけが固くなった。


「誓約罰の手続きはすでに申請しております。本日中に署名がなければ、魔法の使用制限が確定します。あなたの記録魔法は、期限切れになる」


 胸の中で、何かが冷たく落ちた。

 腕が、わずかに強張った。


 怖い。怖いのに、右手が棚の方へ動きかけた。背表紙に触れようとした。いつもの癖だ。でも、ここは書庫じゃない。わたくしは手を止めた。膝の上で、指先だけが動いた。


「……それが、王家からの回答でしょうか」

「要請です。今のところは」


 今のところ、という言葉が、応接室の天井に貼りついた。


 ロイドが小さく咳払いをした。足音は聞こえていなかった。だからその声が扉のそばから聞こえた時、わたくしは一瞬だけ心臓が跳ねた。


「失礼します」


 低い声が、部屋に入ってきた。

 扉の前にレオンハルト様が立っていた。




 閣下が来たのは執務室の傍を通りかかったからではないと、後で聞いた。でもその時は、どこか遠くのことのように感じた。


「ベルトラン殿。これ以上の話はわたしが受ける」


 声は静かだった。最初の一言は。


「閣下、これはあくまで記録係への——」

「記録係ではない」


 声が、変わった。


 わたくしは聞いたことがなかった。この方がそういう声を出すのを。石の壁に打ちつけたような声だった。怒鳴る、というより、積み重なったものが一枚、底から剥がれるような音だった。


「彼女はこの領の人間だ。そして、記録は彼女自身だ。国庫の帳簿を曲げろと言うのは、彼女に骨を折れと言っているのと同じだ。……君を道具にするなら、王家でも敵だ」


 室内が、静止した。


 ベルトランの指が、完全に止まった。ロイドは封書を胸元で押さえたまま、目だけを動かした。

 わたくしは、閣下の横顔をただ見ていた。




 廊下に出た後、閣下の歩みが遅くなった。


 わたくしが並んでいると気づいた時、ほんの少しだけ視線が逸れた。


「……言い過ぎた」


 ぽつりと、こぼれた。


「いいえ」

「王家でも敵だ、は、あの場では過剰だった。ベルトランに言ったところで権限の外だ。意味がない」

「意味がなくはありません」


 声が、わたくしの胸の中で揺れていた。

 嬉しいのに、怖い。

 どちらかだけなら、もっと簡単だった。


 嬉しいのは——誰かがわたくしの骨を守ろうとした声だったから。

 怖いのは——その声が、この人の代償になるかもしれないから。


 守られる、ということが、どういう結末を呼ぶか、わたくしはもう一度だけ考えた。王都にいた5年間、守られなかった。だから守られることが、今でも怖い。いつか、また、いなくなる準備として「守る」と言う人を、見てきた気がした。


 でも、この人は違う。

 違う、とわたくしは思っていた。思いたかった、のかもしれない。


「……閣下」


 立ち止まって、閣下を見上げた。


「わたくしは、折れません。でも——今日は少しだけ怖かったです」


 閣下が、わたくしをまっすぐ見た。何かを言おうとした。口が、わずかに開いた。


 でも、言葉は来なかった。

 代わりに、閣下の手がわたくしの背後の壁の近くに伸びて——何でもない素振りで止まった。


「……夜、書庫に来てくれ。索引の続きを見たい」


 それだけだった。




 夜の書庫は、いつもよりずっと静かだった。


 閣下が隣の棚の束を引き出し、わたくしが索引の参照先を読み上げた。ロイドがカップを2つ置いて下がった。蜂蜜の湯気が、古書の匂いに混ざった。


「この参照番号は、F系列の第3群だ。昨日の封書にも同じ欠落が——」


 閣下が言いかけて、止まった。


 わたくしも止まった。同じ欠落、ではなく、同じ「欠けさせ方」だと思った。意図がある。では、誰が。


 閣下が机の隅を見た。ロイドが先ほど何気なく置いていった封書の欠片——王家の紋と辺境の紋が重なった封蝋の残片が、燭台の明かりを反射していた。閣下はそれを、少しの間、見ていた。


 わたくしは棚の索引に視線を戻した。


 何かが引っかかった。

 昨日まで確かに埃をかぶっていた棚の一列が、今夜は——なぜか、埃が薄い。


 誰かが触った。

 今日、ここに来た者がいる。


 閣下の手がカップの位置を直した。1度、2度——3度。気づいているかどうか、閣下本人には分からなかっただろう。


 わたくしには分かった。

 照れているのか、気にしているのか、それとも今夜の自分の言葉をまだ引きずっているのか——この方は、言葉にする前に手が正直になる。


 そのことを、今夜だけはそっとしておこうと思った。


 それより。


 棚の奥が、静かすぎる。


読んでいただき、ありがとうございます。


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