表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第5章 改竄要求の踏み絵

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/50

第27話  誓約執行まで日没

 日没まで、あと2時間もない。


 神殿の回廊に踏み込んだ瞬間、わたくしはその空気の冷たさに息を止めた。石の床が夕陽を吸い込んで沈黙していて、夏だというのに指先が白くなっていく。ロイドが半歩後ろで足音を殺しているのが分かった。


「台帳係が待っております、セレスティーヌ様」


 静かな声だった。蜂蜜茶を持ってくるときと変わらない温度で言うから、なおさら怖かった。


 台帳係の部屋は回廊の一番奥にある。扉に手をかける前に、わたくしは廊下の壁に掛けられた燭台の炎を数えた。6本。整然と並んで揺れている。揺らしているのは、わたくし自身の足音だ。


 扉が開いた。


 台帳係は白髪の老人で、眼鏡の奥の目がひどく丁寧に細められた。机の上には開かれた帳面。そこに刻まれた誓約印の名前が、夕陽の色に沈んでいる。


「印が……少々、濁りを帯びております」


 老人の声は責めるものではなかった。それがかえって、胸の奥に静かに刺さった。


「誓約違反の手続きが申請されております。日没時刻をもって、一時的使用制限の通知が——」


「承知いたしました」


 自分の声が、思ったより落ち着いていた。驚いた。心臓は耳の奥で鳴っているのに、唇だけがきちんと動く。これは訓練なのか、それとも凪になりすぎた結果なのか、もう自分でも分からない。


 廊下に出たとき、ロイドが何か言おうとして止まった。わたくしはそれを横目に見ながら、歩き続けた。


 案内された小部屋は、窓が小さくて夕陽がほとんど入らなかった。椅子に腰を下ろして、両手を膝の上に置いたとき、はじめて指が震えているのに気がついた。


――怖い。


 単純にそう思った。きれいに整理された怖さではなく、もっと古い、子供の頃の種類の怖さだった。奪われるとか、消えるとか、そういうことではなく、ただ、どうにもならない場所に立たされている感じ。


 部屋の隅に、古い本棚がある。わたくしの視線はそれに吸い寄せられた。一番手前の背表紙に手が伸びそうになって、指先が宙で止まった。


 撫でたら、落ち着く。分かっている。でも今日は、自分の手で止めた。


 代わりに、膝の上で指を組んだ。組んだまま、呼吸を数えた。1、2、3。


 扉が開いた。


「探した」


 レオンハルト様だった。声が低くて、いつもより短かった。ロイドを連れずに一人で来た理由は聞かなかった。聞く必要がなかった。


「誓約罰の手続きが、申請されております」


「知っている」


「日没までに署名しなければ、使用制限が——」


「知っている」と、もう一度繰り返した。今度は声がもう少し落ち着いていた。扉を閉めて、壁に背を預ける。夕陽が小さな窓から斜めに差し込んで、彼の表情の半分を橙に染めた。


 しばらく沈黙があった。わたくしが先に口を開いた。


「折れません。……でも、怖いんです」


 言ってしまってから、少し驚いた。こんなに真直ぐに言うつもりではなかった。でも出てきた言葉がそれだったから、もうどうしようもない。


 レオンハルト様が顔を上げた。橙の中の紺の瞳が、まっすぐこちらを向いた。


「折らせない。——日没までに、手順で勝つ」


 低くて短くて、なのに確かな言葉だった。


 わたくしは少しの間、その言葉の意味を整理した。手順で勝つ。命令でも感情でも庇護でもなく、手順。


「……条文の話ですか」


「ああ。誓約罰の申請書に、根拠条文が引用されている。あの文書、末尾が欠けていた」


 思い出した。第4章で確認した、あの「除く」の一文。


「除く、の部分ですね」


「何を除くかが、明記されていない。不完全な条文を根拠に、執行が通るか——そこを突く」


 わたくしは立ち上がった。震えはまだあった。でも今度は、足の向きが決まっていた。


「書庫に戻ります。索引に、原本の所在が記録されているはずです」


「一緒に行く」


「……」


「文句があるか」


「ありません」


 あった。でも、今は言わなかった。


 神殿の回廊を戻るとき、夕陽がずいぶん傾いていた。石の床に落ちる影が長くなっている。1時間を切っている。


 城の書庫に飛び込んで、わたくしはまず索引棚の前に立った。指が棚板を滑る。分類は感情で動かさない。頭で動かす。それがわたくしの仕事の仕方だ。


「F系の列、番号が抜けている箇所があります」


「F03か」


「はい。でも逆に、抜けた場所が何かあった証拠になります。前後の番号から、本来そこにあるべきものが逆算できる」


 レオンハルト様が静かに隣に立った。背が高いから、わたくしの肩越しに棚を見ている。外套の古書の匂いが混じって、少し落ち着いた。


 その瞬間、ロイドが書庫の入り口から顔を出した。


「日没まで、蜂蜜の補給も最短で——」


「今は甘さじゃなくて」


「承知しました」とロイドは言った。それでも棚の端に、静かにカップを一つ置いていった。


 夕陽が窓から消えていく。わたくしは索引を繰りながら、欠けた番号の前後を追い始めた。逆算する。欠けた「除く」の前後に、何があるか。


 指が止まった。


 F03の前に置かれた参照番号の束の中に、見慣れない引用符があった。「除く」ではない。その前の文言に、見覚えがある。


 これは、誓約条文そのものではない。もっと古い文書から引かれている。


「……レオンハルト様」


 声が、少し変わっていた。自分でも分かった。怖い声ではなく、仕事の声になっていた。


「索引の参照先が、盟約の類似条文を指しています。誓約罰の根拠が——もしこの文書と競合しているなら、手続きは止まる。止められる」


 沈黙があった。


 レオンハルト様が棚の前に膝をついて、わたくしが指差した束を覗き込んだ。外套の裾が埃を払って、背表紙が一列、揺れた。


 日没まで、あと何分あるか分からない。でも今、わたくしの中でなにかが静かに確定した。


 欠けた一文の前後を、索引から逆算する。


 その答えが、この棚の奥にある。


読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
★ ▼3/19より新作短編公開中 ★

↓タイトル押すと作品サイトに飛びます↓
『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ