第27話 誓約執行まで日没
日没まで、あと2時間もない。
神殿の回廊に踏み込んだ瞬間、わたくしはその空気の冷たさに息を止めた。石の床が夕陽を吸い込んで沈黙していて、夏だというのに指先が白くなっていく。ロイドが半歩後ろで足音を殺しているのが分かった。
「台帳係が待っております、セレスティーヌ様」
静かな声だった。蜂蜜茶を持ってくるときと変わらない温度で言うから、なおさら怖かった。
台帳係の部屋は回廊の一番奥にある。扉に手をかける前に、わたくしは廊下の壁に掛けられた燭台の炎を数えた。6本。整然と並んで揺れている。揺らしているのは、わたくし自身の足音だ。
扉が開いた。
台帳係は白髪の老人で、眼鏡の奥の目がひどく丁寧に細められた。机の上には開かれた帳面。そこに刻まれた誓約印の名前が、夕陽の色に沈んでいる。
「印が……少々、濁りを帯びております」
老人の声は責めるものではなかった。それがかえって、胸の奥に静かに刺さった。
「誓約違反の手続きが申請されております。日没時刻をもって、一時的使用制限の通知が——」
「承知いたしました」
自分の声が、思ったより落ち着いていた。驚いた。心臓は耳の奥で鳴っているのに、唇だけがきちんと動く。これは訓練なのか、それとも凪になりすぎた結果なのか、もう自分でも分からない。
廊下に出たとき、ロイドが何か言おうとして止まった。わたくしはそれを横目に見ながら、歩き続けた。
案内された小部屋は、窓が小さくて夕陽がほとんど入らなかった。椅子に腰を下ろして、両手を膝の上に置いたとき、はじめて指が震えているのに気がついた。
――怖い。
単純にそう思った。きれいに整理された怖さではなく、もっと古い、子供の頃の種類の怖さだった。奪われるとか、消えるとか、そういうことではなく、ただ、どうにもならない場所に立たされている感じ。
部屋の隅に、古い本棚がある。わたくしの視線はそれに吸い寄せられた。一番手前の背表紙に手が伸びそうになって、指先が宙で止まった。
撫でたら、落ち着く。分かっている。でも今日は、自分の手で止めた。
代わりに、膝の上で指を組んだ。組んだまま、呼吸を数えた。1、2、3。
扉が開いた。
「探した」
レオンハルト様だった。声が低くて、いつもより短かった。ロイドを連れずに一人で来た理由は聞かなかった。聞く必要がなかった。
「誓約罰の手続きが、申請されております」
「知っている」
「日没までに署名しなければ、使用制限が——」
「知っている」と、もう一度繰り返した。今度は声がもう少し落ち着いていた。扉を閉めて、壁に背を預ける。夕陽が小さな窓から斜めに差し込んで、彼の表情の半分を橙に染めた。
しばらく沈黙があった。わたくしが先に口を開いた。
「折れません。……でも、怖いんです」
言ってしまってから、少し驚いた。こんなに真直ぐに言うつもりではなかった。でも出てきた言葉がそれだったから、もうどうしようもない。
レオンハルト様が顔を上げた。橙の中の紺の瞳が、まっすぐこちらを向いた。
「折らせない。——日没までに、手順で勝つ」
低くて短くて、なのに確かな言葉だった。
わたくしは少しの間、その言葉の意味を整理した。手順で勝つ。命令でも感情でも庇護でもなく、手順。
「……条文の話ですか」
「ああ。誓約罰の申請書に、根拠条文が引用されている。あの文書、末尾が欠けていた」
思い出した。第4章で確認した、あの「除く」の一文。
「除く、の部分ですね」
「何を除くかが、明記されていない。不完全な条文を根拠に、執行が通るか——そこを突く」
わたくしは立ち上がった。震えはまだあった。でも今度は、足の向きが決まっていた。
「書庫に戻ります。索引に、原本の所在が記録されているはずです」
「一緒に行く」
「……」
「文句があるか」
「ありません」
あった。でも、今は言わなかった。
神殿の回廊を戻るとき、夕陽がずいぶん傾いていた。石の床に落ちる影が長くなっている。1時間を切っている。
城の書庫に飛び込んで、わたくしはまず索引棚の前に立った。指が棚板を滑る。分類は感情で動かさない。頭で動かす。それがわたくしの仕事の仕方だ。
「F系の列、番号が抜けている箇所があります」
「F03か」
「はい。でも逆に、抜けた場所が何かあった証拠になります。前後の番号から、本来そこにあるべきものが逆算できる」
レオンハルト様が静かに隣に立った。背が高いから、わたくしの肩越しに棚を見ている。外套の古書の匂いが混じって、少し落ち着いた。
その瞬間、ロイドが書庫の入り口から顔を出した。
「日没まで、蜂蜜の補給も最短で——」
「今は甘さじゃなくて」
「承知しました」とロイドは言った。それでも棚の端に、静かにカップを一つ置いていった。
夕陽が窓から消えていく。わたくしは索引を繰りながら、欠けた番号の前後を追い始めた。逆算する。欠けた「除く」の前後に、何があるか。
指が止まった。
F03の前に置かれた参照番号の束の中に、見慣れない引用符があった。「除く」ではない。その前の文言に、見覚えがある。
これは、誓約条文そのものではない。もっと古い文書から引かれている。
「……レオンハルト様」
声が、少し変わっていた。自分でも分かった。怖い声ではなく、仕事の声になっていた。
「索引の参照先が、盟約の類似条文を指しています。誓約罰の根拠が——もしこの文書と競合しているなら、手続きは止まる。止められる」
沈黙があった。
レオンハルト様が棚の前に膝をついて、わたくしが指差した束を覗き込んだ。外套の裾が埃を払って、背表紙が一列、揺れた。
日没まで、あと何分あるか分からない。でも今、わたくしの中でなにかが静かに確定した。
欠けた一文の前後を、索引から逆算する。
その答えが、この棚の奥にある。
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