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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第5章 改竄要求の踏み絵

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第26話 「整える」とは、どこまで

 依頼文は、たった3行だった。


 封蝋を剥がしたロイドが差し出した紙を、わたくしは読み返した。1回。2回。3回。


 ——国庫台帳の整備にご協力を。記録の精度向上を目的とし、写しの照合をお願いしたい。


 どこにも、改竄という字はない。どこにも、消せという言葉もない。それなのに、紙の上が妙に白く見えた。「整える」という動詞が、他の文字より太く浮いて見える気がして、わたくしは視線を上げた。


「参照番号が……欠けています」


 ロイドが小首を傾けた。


「ご指摘の通りです。F03の照会欄が、今回も空白でございます」


 今回も。その2文字が、胃の底に小さな石を落とした。


 使者——ベルトランと名乗った男は、応接室の椅子に収まったまま、羽根ペンの先でテーブルを軽く叩いている。音は柔らかい。声も柔らかい。けれど目が、どこか遠い場所を見ていた。


「難しいご依頼ではないはずです。書庫の方なら、照合など日常業務でしょう」


 日常業務。


 わたくしは依頼文をそっと折った。紙の音が、妙に大きく聞こえた。




 執務室に戻ると、レオンハルト様はすでに書面に目を落としていた。わたくしが折り畳んだ依頼文を机に置くと、彼は1秒もかけずに答えた。


「断る」


「……それはわかっております」


「ならいい」


 わたくしは椅子を引いた。座らずに、机の前に立つ。


「断り方を、選びたいのです」


 彼がようやく顔を上げた。紺の瞳が、わたくしを見る。


「……違うのか」


「違います。断るだけでは、向こうは別の言い方で来ます。今の依頼文を見てください——整える以外に、具体的な指示が何もない。それは意図的なんです」


 レオンハルト様が眉をわずかに寄せる。


「書き方が曖昧なのは、こちらが作業内容を決められないようにするためです。わたくしが何をしても、後からそういう意図だったと言える。……もし断るなら、相手に余白を残してはいけません」


 沈黙が落ちた。


 机の隅に置いてあった予備のペン先を、レオンハルト様は無言でつまんだ。それをもう1本の横に並べ、また別の1本を持ってくる。3本を、何かの順番で並べ替え始める。


「……選別ですか?」


「違う」


 そのまま3本の位置を直してから、彼はペンを置いた。


「——好きにしろ。ただ、一人でやるな」


 それは命令でも、慰めでもなかった。わたくしには、どこか不器用な落ち着かなさに見えた。




 応接室へ戻る廊下で、わたくしは依頼文をもう一度開いた。


 整える。


 この言葉は、辞書的には美しい。乱れを直す。正す。順序立てる。でも整えた後に何が残るかを、依頼文は書いていない。国庫台帳の、何を。どの年分を。誰の署名欄を。参照番号が欠けたままの文書を——


 書庫前の棚に指が触れかけた。背表紙の角が、指先に当たる。


 撫でようとして、わたくしは手を握り直した。


 怖い。それは確かにある。でも怖いまま会いに行くのと、怖さを握りしめて行くのは、違う。




 ベルトランは、わたくしが戻っても立ち上がらなかった。それが答えだと思った。彼の中では、これはすでに決まった話なのだ。


「1つ、確認させてください」


 わたくしは机の前に立ち、依頼文を広げた。


「整えるの範囲を、教えていただけますか。数字を正しい位置へ移す、という意味ですか。それとも——存在しない数字を、正しいように見せる、という意味ですか」


 一瞬。


 ベルトランの目が泳いだ。ほんの一瞬だったが、わたくしはそれを見た。記録した。


「……前者ですが」


「でしたら、照合対象の原本番号と、参照番号F03の照会欄を埋めてからお持ちください。それがなければ、何を照合するのかわかりません。書庫の仕事は、根拠のない整えはしない決まりです」


 室内が、しんと静まった。ロイドが廊下の入口でお茶のカップを持ったまま、動きを止めている。


 ベルトランは視線を下げ、羽根ペンを止めた。


「……もし、照合にご協力いただけない場合は」


「その場合は?」


 彼は、少しだけ間を置いた。


「上の者に、判断を仰ぎます」


 それだけ言って、彼は立ち上がった。書類を丁寧に束ね、柔らかく礼をする。威圧は、どこにもない。だからこそ、もっと冷たかった。




 夜、執務室の隅の机で、わたくしは断り文を書いた。


 レオンハルト様は向かいの椅子に座り、自分の書類に目を落としている。時折、ペンが止まる。でも何も言わない。


 断り文の書き方には、順番がある。理由を先に書く。根拠を次に置く。要求を最後に絞る。感情は入れない——感情は相手にあなたが揺れていると教えてしまうから。


 わたくしが今できる抵抗は、この順番を守ることだ。


「整える、は便利な言葉ですね」


 つぶやいたら、レオンハルト様がペンを持ったまま顔を上げた。


「——消すまで含みますか、と」


 彼は何も言わなかった。ただ、机の端に置かれた依頼文を、1秒だけ見た。


「記録は、誰かの顔色に合わせて曲げるものではありません」


 それはベルトランへの言葉ではなく、自分への言葉だった。わたくしは断り文の最後の行を書き、インクが乾くまで息をひそめた。


 窓の外は静かだ。


 ただ、ロイドが夕方に言った言葉が、まだ頭の中に残っている。


 ——「上の者に、判断を仰ぎます」。


 上の者。


 その夜、断り文を仕上げてから、わたくしは初めて気がついた。ベルトランは、決して「命令」という言葉を使わなかった。


 拒否するなら、日没に印が濁る——そう言われた。


読んでいただき、ありがとうございます。


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