第26話 「整える」とは、どこまで
依頼文は、たった3行だった。
封蝋を剥がしたロイドが差し出した紙を、わたくしは読み返した。1回。2回。3回。
——国庫台帳の整備にご協力を。記録の精度向上を目的とし、写しの照合をお願いしたい。
どこにも、改竄という字はない。どこにも、消せという言葉もない。それなのに、紙の上が妙に白く見えた。「整える」という動詞が、他の文字より太く浮いて見える気がして、わたくしは視線を上げた。
「参照番号が……欠けています」
ロイドが小首を傾けた。
「ご指摘の通りです。F03の照会欄が、今回も空白でございます」
今回も。その2文字が、胃の底に小さな石を落とした。
使者——ベルトランと名乗った男は、応接室の椅子に収まったまま、羽根ペンの先でテーブルを軽く叩いている。音は柔らかい。声も柔らかい。けれど目が、どこか遠い場所を見ていた。
「難しいご依頼ではないはずです。書庫の方なら、照合など日常業務でしょう」
日常業務。
わたくしは依頼文をそっと折った。紙の音が、妙に大きく聞こえた。
執務室に戻ると、レオンハルト様はすでに書面に目を落としていた。わたくしが折り畳んだ依頼文を机に置くと、彼は1秒もかけずに答えた。
「断る」
「……それはわかっております」
「ならいい」
わたくしは椅子を引いた。座らずに、机の前に立つ。
「断り方を、選びたいのです」
彼がようやく顔を上げた。紺の瞳が、わたくしを見る。
「……違うのか」
「違います。断るだけでは、向こうは別の言い方で来ます。今の依頼文を見てください——整える以外に、具体的な指示が何もない。それは意図的なんです」
レオンハルト様が眉をわずかに寄せる。
「書き方が曖昧なのは、こちらが作業内容を決められないようにするためです。わたくしが何をしても、後からそういう意図だったと言える。……もし断るなら、相手に余白を残してはいけません」
沈黙が落ちた。
机の隅に置いてあった予備のペン先を、レオンハルト様は無言でつまんだ。それをもう1本の横に並べ、また別の1本を持ってくる。3本を、何かの順番で並べ替え始める。
「……選別ですか?」
「違う」
そのまま3本の位置を直してから、彼はペンを置いた。
「——好きにしろ。ただ、一人でやるな」
それは命令でも、慰めでもなかった。わたくしには、どこか不器用な落ち着かなさに見えた。
応接室へ戻る廊下で、わたくしは依頼文をもう一度開いた。
整える。
この言葉は、辞書的には美しい。乱れを直す。正す。順序立てる。でも整えた後に何が残るかを、依頼文は書いていない。国庫台帳の、何を。どの年分を。誰の署名欄を。参照番号が欠けたままの文書を——
書庫前の棚に指が触れかけた。背表紙の角が、指先に当たる。
撫でようとして、わたくしは手を握り直した。
怖い。それは確かにある。でも怖いまま会いに行くのと、怖さを握りしめて行くのは、違う。
ベルトランは、わたくしが戻っても立ち上がらなかった。それが答えだと思った。彼の中では、これはすでに決まった話なのだ。
「1つ、確認させてください」
わたくしは机の前に立ち、依頼文を広げた。
「整えるの範囲を、教えていただけますか。数字を正しい位置へ移す、という意味ですか。それとも——存在しない数字を、正しいように見せる、という意味ですか」
一瞬。
ベルトランの目が泳いだ。ほんの一瞬だったが、わたくしはそれを見た。記録した。
「……前者ですが」
「でしたら、照合対象の原本番号と、参照番号F03の照会欄を埋めてからお持ちください。それがなければ、何を照合するのかわかりません。書庫の仕事は、根拠のない整えはしない決まりです」
室内が、しんと静まった。ロイドが廊下の入口でお茶のカップを持ったまま、動きを止めている。
ベルトランは視線を下げ、羽根ペンを止めた。
「……もし、照合にご協力いただけない場合は」
「その場合は?」
彼は、少しだけ間を置いた。
「上の者に、判断を仰ぎます」
それだけ言って、彼は立ち上がった。書類を丁寧に束ね、柔らかく礼をする。威圧は、どこにもない。だからこそ、もっと冷たかった。
夜、執務室の隅の机で、わたくしは断り文を書いた。
レオンハルト様は向かいの椅子に座り、自分の書類に目を落としている。時折、ペンが止まる。でも何も言わない。
断り文の書き方には、順番がある。理由を先に書く。根拠を次に置く。要求を最後に絞る。感情は入れない——感情は相手にあなたが揺れていると教えてしまうから。
わたくしが今できる抵抗は、この順番を守ることだ。
「整える、は便利な言葉ですね」
つぶやいたら、レオンハルト様がペンを持ったまま顔を上げた。
「——消すまで含みますか、と」
彼は何も言わなかった。ただ、机の端に置かれた依頼文を、1秒だけ見た。
「記録は、誰かの顔色に合わせて曲げるものではありません」
それはベルトランへの言葉ではなく、自分への言葉だった。わたくしは断り文の最後の行を書き、インクが乾くまで息をひそめた。
窓の外は静かだ。
ただ、ロイドが夕方に言った言葉が、まだ頭の中に残っている。
——「上の者に、判断を仰ぎます」。
上の者。
その夜、断り文を仕上げてから、わたくしは初めて気がついた。ベルトランは、決して「命令」という言葉を使わなかった。
拒否するなら、日没に印が濁る——そう言われた。
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