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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第5章 改竄要求の踏み絵

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第25話 戻れではなく、奪え

 封蝋が割れる音は、廊下で短く鳴って消えた。


「期限です」


 それだけだった。名乗りも前置きも、一切ない。ドアの隙間越しに差し込んだ声は、王都特有の抑揚の薄い官吏の声だった。ロイドが扉へ向かい、わたくしは机の上の申請書に目を戻した。欠けた参照番号が、灯りの中でそのままそこにある。レオンハルト様の署名のインクが、署名欄でまだ微かに湿って光っていた。


 「ありがとう」が言えなかった夜は、長かった。




 翌朝、城門で使者を見た瞬間、最初に気づいたのは匂いだった。


 松脂の、甘ったるい匂い。王都の封蝋に使われる特注の蝋の香で、夏は揮発して主張が強くなる。先週と同じだった。まったく同じ匂いが、まったく同じ向きの風に乗って来た。来訪の間隔が縮まっている。


 使者は2人。前回より1人少ない。


 ロイドが封書を受け取り、わたくしの横に半歩ずれた。確認を、という意味なのは今ではもう言葉なしでわかる。封書を手にしたわたくしは、封蝋の端に指をあてた。


 割れていた。割れているというより、一度開封してから再び押し直した跡がある。継ぎ目の部分に厚みが不均一な箇所があり、2つの紋章の押し込み方が左右でわずかにずれていた。前回の封書と、手口が同じだった。本来、王都式の封印というのはこういう仕上がりにはならない。丁寧に剥がした痕跡がある。どこかで一度開けられ、中身を確認されてから、再封されている。


 文面を開いた。


 「帰還」という文字は、なかった。


 代わりに、「写し」という文言が3度繰り返されていた。それから、「国庫台帳の照合分」と「条約参照分の全索引」という具体的な列挙が続いた。末尾の参照番号欄は7桁あるはずが、6桁しか埋まっていない。昨夜の申請書と、欠落の形が同じだった。


 ロイドが、静かに声を出した。


「……また、同じ番号が欠けています」


「気づいています」


 言いながら、封書の端を指先で揃えた。揃えずにいられないのは癖だ。自分でそれを知っているのは、もう随分前からだ。




 執務室でレオンハルト様が使者と向き合っている間、わたくしは廊下に立っていた。


 扉越しに内容は聞こえない。でも沈黙の長さと、ロイドの背筋の張り方で、応対の様子はある程度読める。ロイドが扉の横で静止したままの時間が長い。使者が一方的に述べ続けて、返答がないまま押しているということだ。押して、相手が折れるのを待っている。


 扉が開いた。


 使者が2人、出てきた。どちらもわたくしを見なかった。廊下をまっすぐ歩いて、角を曲がって、消えた。足音が完全に聞こえなくなるまで、わたくしは動かなかった。


 ロイドが隣に並んだ。


「記録の写しを、3日以内に。国庫台帳の照合分と、条約参照分の全索引を、そのように」


 一拍、置いた。


「……戻れ、ではなくて」


「はい。人ではなく、記録だけを、と」


 廊下が静かになった気がした。実際は何も変わっていない。石の壁も、窓から差す午前の光も。でもロイドの声の余韻が、なぜか空気の厚みを変えてしまう。


「わかりました」


 自分の声が思ったより平らに出たことに、少し驚いた。




 書庫の扉の前で、足が一拍だけ止まった。


「わたくしを、巻数で呼ばないでください」


 言葉にしないと、形のないまま胸の中で固まりそうだったから、声に出した。ロイドは一拍だけ止まり、「……はい」と静かに答えた。


 記録の写し、という要求は正確な言い方だ。間違っていない。でも正確であることが、これほど人を道具のように聞こえさせることが、あるのだということを今日改めて知った。使った側が意図してやっているのか、意図しないまま使っているのか。どちらにしても着地点は同じになる。わたくしは「記録の写し」として呼ばれた。わたくし、という一人の人間としてではなく。


 書庫の扉に手をかけた瞬間、背表紙を撫でたいという衝動がきた。


 一拍だけ、手を止めた。意識すると、衝動は少し薄くなる。気づいているのはわたくしだけでいい。扉を押した。




 夜になって、レオンハルト様と書庫に入った。


「使者の要求は、聞きましたか」


「聞いた」


 それだけで終わった。余分が一切ない。続きを待ったが、来なかった。彼は棚を向いたまま、背表紙に目を走らせていた。何かを確かめるように、ゆっくりと、端から端へ。


 わたくしもつられて棚を見た。


 巻番号が、頭の中を流れ始めた。1巻、2巻、条約参照の補完資料は17巻から始まって、国庫照合の索引は23巻以降に収録されていて――。


 気づいた瞬間、手が止まった。


 数えていた。


 どの棚のどこからどこまでを写すか。そういう順番で、頭の中が動いていた。自分でも気づかないまま、「渡す準備」を始めていた。


 棚から、目を離した。


 レオンハルト様がこちらを見ていた。いつからそこにいたのか、わからない。棚の端から、紺の瞳が静かにこちらを向いている。


「……渡すな。――その命令は、君に向けられている」


 短い言葉だった。でも的確だった。わたくしが自分で止めた理由を、彼はそのまま言葉にした。「渡すな」ではなく、「その命令は君に向けられている」というところが。


 戻れ、ではなく、奪う。人を連れ戻すのではなく、機能だけを取り上げれば同じことだと、誰かが計算した。その計算が正しいとすれば、わたくしはここにいてもいなくても変わらない存在に、再びなる。


 違う、と思う。でも思うだけでは足りない。


 ありがとう、と言おうとして、また呑み込んだ。声が出てこない。


 棚の奥の端に、背番号のない古い封書が一冊だけある。封蝋が残っているのだけが目印で、2つの紋章が重なって押されていた。王都の紋章と、ヴァイスガルトの紋章が。今夜の灯りの角度では、どちらが上から押されているか判断がつかない。


「明日、照合します。参照番号の欠落と、あの封書と」


「……わかった」


 彼が棚のほうを向き直した。わたくしも棚を向いた。並んで同じ棚を見ている時間が、しばらく続いた。




 扉の外で気配がした。


「蜂蜜茶でございます。最適な温度を計測してから参りました」


 ロイドの声が、扉越しに届いた。


「……今じゃなくて」


「最善でございます」


 まったく同じ真顔で言い直した声が、扉の隙間から染み込んでくる。湯気の甘い匂いが、かすかに続いた。わたくしは一拍黙って、それから少し笑った。本当に少しだけ。


 今夜は、それで十分だと思った。




 茶を一口飲んで、机の上の封書を見た。欠けた参照番号が、灯りの中でそのまま並んでいる。3日後に使者は戻ってくる。次に来る時は、「写し」ではなく別の言葉を持ってくるはずだ。


 「整える手伝いを」――その言葉は、どこまで汚せと言うの?

読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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