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「完結済」「記録しか取り柄がない」と婚約破棄されたので、引き継ぎ書類だけ置いて静かに去りました  作者: 夢見叶
第4章 王命と欠けた守秘誓約

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第24話 ありがとう、まで届かない

 神殿の回廊に、夕暮れが差し込んでいた。


 柱と柱のあいだを通り過ぎるたびに、光と影が交互に顔を打つ。参拝客の足音が遠のいて、石畳の響きだけが残る夕方の静けさは、いつもより耳に重い。


 回廊の奥から、こちらを見る視線がある。修道女が1人、書類係の若い男が1人、それから端の柱に背を預けた参拝客らしき女が2人。全員が、わたくしとロイドの組み合わせを確認するように目を動かした。衣装でも足音でもなく、わたくしたちの組み合わせを。


「……噂は、もう回っていますね」


 呟いたのは独り言のつもりだったが、ロイドが一歩後ろで「さようでございます」と静かに答えた。声に余分がない。


 辺境公爵家の執事と、元王宮書庫官吏。神殿に連れ立って来た時点で、見る人が見れば絵が読めてしまう。誓約台帳を巡る話が城の外へ漏れているとすれば、今日の訪問でそれが確認できた形になる。


 別に、怖くはない。


 怖くない、と思いながら、足が一拍だけ重くなった。索引札の小箱を脇に抱え直して、呼吸を1度だけ整える。背表紙の角が掌に触れると、少し落ち着く。癖だ。自分でもわかっている。


「ロイド。神殿からの返答は、今日も」

「まだでございます」

「……そうですか」


 遅いのは制度がそうなっているのか、誰かが手を入れているのか、今の段階では判断がつかない。ただ遅いという事実だけが、じわじわと時間を削っている。


 期限まで、あと2日。


 回廊を出る直前、修道女がそっと目を逸らした。視線を逸らすのは、怖いからか、気の毒だからか。どちらにしても、こちらの状況を知っている目だった。視線に晒されることには、王宮にいた頃から慣れている。慣れている、と思っていた。でも今日は、足の裏から石畳の冷たさがすこしだけ早く上がってきた。




 城に戻ると、レオンハルト様が執務室の扉の前に立っていた。


 珍しい。書庫の前ならまだわかるが、廊下に出ているのは――わたくしを待っていた、ということだ。その可能性に気づいた瞬間、胸がわずかに跳ねた。困った癖だと思う。


「手続きに出ておりました」


 先に言った。彼が何か言う前に言ってしまいたかった。それだけのことだ。


 彼は一拍、黙った。


「……わかっている」


 紺の瞳がこちらを見る。何かを言おうとして、飲み込んでいる。その間の形を、わたくしは最近少しだけ読めるようになった。言葉が足りないのではなく、言葉の前に選別が入る。何を言って、何を言わないか。それを決める人だ。


「遅くなりましたか」

「いや」


 また短い。でも今日は、もう1語ついてきた。


「……無理はするな」


 それだけ言って、彼は先に執務室へ入った。無理はするな。その言葉の重さと軽さの両方を、どう受け取ればいいのかまだわからない。わからないけれど、扉が閉まる前の横顔が、いつもより少しだけ険しかった。




 机の前に座ったのは、それから半刻後だった。


 申請書が広げてある。神殿への申請書――わたくしの名前が入った、あの下書きの清書版だ。もう1度確認しようと参照番号の欄に目を落とした瞬間、指が止まった。


 7桁あるはずの番号が、6桁しかない。


 一拍、そのまま数字を見つめた。書き間違いではない。欄の印刷がもともと6桁分しか空いていない。前回の申請書で確認した記憶がある。あの時は7桁あった。


 小箱から索引札を1枚取り出して、以前の写しと並べてみた。


 また、1桁、欠けている。


 胸の中で、何かが音もなく立ち上がった。怒りとも焦りとも違う、もっと静かなもの。この欠落は偶然ではない。誓約条文の末尾、神殿の照合台帳の別紙、そして今度はこの申請書の参照番号。欠けの連鎖が、まっすぐ続いている。誰かが、意図して抜いている。それがどこから来ていて、何を守るための欠落なのか――まだ見えない。でも、探す糸口はある。


「……除くの後ろと、同じだ」


 呟いた瞬間、扉が開いた。


 レオンハルト様が入り、1歩遅れてロイドが蜂蜜茶の乗ったトレイを持って続いた。ロイドが机のちょうどよい位置にカップを置こうとして、広げた書類の配置を読み違え、一度止まり、もう一度止まり、最終的にわずかにずれた位置に置いた。


「……最善でございます」


 真顔だった。


 わたくしは笑いそうになって、堪えた。


「噂より先に甘いものが回るの、変ですね」

「最善でございます」


 同じ言葉が、同じ真顔で返ってきた。その真顔の奥に「うまく和ませようとして外れた」という自覚が一ミリも見えないのが、逆に張りつめていたものを少し緩めた。


 カップを両手で包んで、一口飲んだ。甘い。この甘さを、今日はちゃんと感じられた。




「申請書の署名をいただいてもいいですか」


 レオンハルト様に言った。彼が少し驚いた顔をした――わたくしには見えなかったが、ロイドが目を伏せた角度で、そう判断した。


「……君が出すのか」

「わたくしの名義の申請書です。わたくしが手続きに出ます」


 一拍。


「守られているだけでは、また道具に戻ります。――隣で、払わせてください」


 言えた。


 胸の奥で、何かが決まった音がした。言葉にするのが遅いのはわかっている。それがわたくしの短所だと自分でもよく知っている。でも今日は、言えた。


 レオンハルト様は何も言わなかった。ただ、署名欄にゆっくりと名前を書いた。インクが紙に沈む間、空気が静止した。紺の瞳は書類の上にあり、こちらを見ていない。でも耳が、わずかに赤かった。


 礼を言おう、と思った。


 口を開いた瞬間――


 扉の外で、封蝋が割れる音がした。


 甲高く、乾いた音。王都式の、あの音だ。


 ロイドが立ち上がった。レオンハルト様の手が止まった。わたくしの喉で、「ありがとう」という言葉が、そのまま固まった。


「君を――」


 彼が口を開いた。


 廊下を硬い靴音が打った。規則正しい、急いでいない、でも止まらない音。


「…………」


 レオンハルト様は黙った。いや、言おうとして、止まった。言えない理由がある。何かを計算している。守るための計算を。その横顔が、今夜だけは痛かった。


 ロイドが静かに扉へ向かった。わたくしは机の上の申請書に目を落とした。欠けた参照番号が、灯りの中で静かに並んでいる。


 この欠落の連鎖が、どこまで伸びているのか。その答えを探す理由が、今夜、わたくしの中ではっきり固まった。


 扉が開く音がした。


 「期限です」という声が、廊下から冷たく差し込んできた。

読んでいただき、ありがとうございます。


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『名前を呼ばれない婚約者を捨てたら、筆跡で見つけた公爵様に溺愛されました』
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