第24話 ありがとう、まで届かない
神殿の回廊に、夕暮れが差し込んでいた。
柱と柱のあいだを通り過ぎるたびに、光と影が交互に顔を打つ。参拝客の足音が遠のいて、石畳の響きだけが残る夕方の静けさは、いつもより耳に重い。
回廊の奥から、こちらを見る視線がある。修道女が1人、書類係の若い男が1人、それから端の柱に背を預けた参拝客らしき女が2人。全員が、わたくしとロイドの組み合わせを確認するように目を動かした。衣装でも足音でもなく、わたくしたちの組み合わせを。
「……噂は、もう回っていますね」
呟いたのは独り言のつもりだったが、ロイドが一歩後ろで「さようでございます」と静かに答えた。声に余分がない。
辺境公爵家の執事と、元王宮書庫官吏。神殿に連れ立って来た時点で、見る人が見れば絵が読めてしまう。誓約台帳を巡る話が城の外へ漏れているとすれば、今日の訪問でそれが確認できた形になる。
別に、怖くはない。
怖くない、と思いながら、足が一拍だけ重くなった。索引札の小箱を脇に抱え直して、呼吸を1度だけ整える。背表紙の角が掌に触れると、少し落ち着く。癖だ。自分でもわかっている。
「ロイド。神殿からの返答は、今日も」
「まだでございます」
「……そうですか」
遅いのは制度がそうなっているのか、誰かが手を入れているのか、今の段階では判断がつかない。ただ遅いという事実だけが、じわじわと時間を削っている。
期限まで、あと2日。
回廊を出る直前、修道女がそっと目を逸らした。視線を逸らすのは、怖いからか、気の毒だからか。どちらにしても、こちらの状況を知っている目だった。視線に晒されることには、王宮にいた頃から慣れている。慣れている、と思っていた。でも今日は、足の裏から石畳の冷たさがすこしだけ早く上がってきた。
城に戻ると、レオンハルト様が執務室の扉の前に立っていた。
珍しい。書庫の前ならまだわかるが、廊下に出ているのは――わたくしを待っていた、ということだ。その可能性に気づいた瞬間、胸がわずかに跳ねた。困った癖だと思う。
「手続きに出ておりました」
先に言った。彼が何か言う前に言ってしまいたかった。それだけのことだ。
彼は一拍、黙った。
「……わかっている」
紺の瞳がこちらを見る。何かを言おうとして、飲み込んでいる。その間の形を、わたくしは最近少しだけ読めるようになった。言葉が足りないのではなく、言葉の前に選別が入る。何を言って、何を言わないか。それを決める人だ。
「遅くなりましたか」
「いや」
また短い。でも今日は、もう1語ついてきた。
「……無理はするな」
それだけ言って、彼は先に執務室へ入った。無理はするな。その言葉の重さと軽さの両方を、どう受け取ればいいのかまだわからない。わからないけれど、扉が閉まる前の横顔が、いつもより少しだけ険しかった。
机の前に座ったのは、それから半刻後だった。
申請書が広げてある。神殿への申請書――わたくしの名前が入った、あの下書きの清書版だ。もう1度確認しようと参照番号の欄に目を落とした瞬間、指が止まった。
7桁あるはずの番号が、6桁しかない。
一拍、そのまま数字を見つめた。書き間違いではない。欄の印刷がもともと6桁分しか空いていない。前回の申請書で確認した記憶がある。あの時は7桁あった。
小箱から索引札を1枚取り出して、以前の写しと並べてみた。
また、1桁、欠けている。
胸の中で、何かが音もなく立ち上がった。怒りとも焦りとも違う、もっと静かなもの。この欠落は偶然ではない。誓約条文の末尾、神殿の照合台帳の別紙、そして今度はこの申請書の参照番号。欠けの連鎖が、まっすぐ続いている。誰かが、意図して抜いている。それがどこから来ていて、何を守るための欠落なのか――まだ見えない。でも、探す糸口はある。
「……除くの後ろと、同じだ」
呟いた瞬間、扉が開いた。
レオンハルト様が入り、1歩遅れてロイドが蜂蜜茶の乗ったトレイを持って続いた。ロイドが机のちょうどよい位置にカップを置こうとして、広げた書類の配置を読み違え、一度止まり、もう一度止まり、最終的にわずかにずれた位置に置いた。
「……最善でございます」
真顔だった。
わたくしは笑いそうになって、堪えた。
「噂より先に甘いものが回るの、変ですね」
「最善でございます」
同じ言葉が、同じ真顔で返ってきた。その真顔の奥に「うまく和ませようとして外れた」という自覚が一ミリも見えないのが、逆に張りつめていたものを少し緩めた。
カップを両手で包んで、一口飲んだ。甘い。この甘さを、今日はちゃんと感じられた。
「申請書の署名をいただいてもいいですか」
レオンハルト様に言った。彼が少し驚いた顔をした――わたくしには見えなかったが、ロイドが目を伏せた角度で、そう判断した。
「……君が出すのか」
「わたくしの名義の申請書です。わたくしが手続きに出ます」
一拍。
「守られているだけでは、また道具に戻ります。――隣で、払わせてください」
言えた。
胸の奥で、何かが決まった音がした。言葉にするのが遅いのはわかっている。それがわたくしの短所だと自分でもよく知っている。でも今日は、言えた。
レオンハルト様は何も言わなかった。ただ、署名欄にゆっくりと名前を書いた。インクが紙に沈む間、空気が静止した。紺の瞳は書類の上にあり、こちらを見ていない。でも耳が、わずかに赤かった。
礼を言おう、と思った。
口を開いた瞬間――
扉の外で、封蝋が割れる音がした。
甲高く、乾いた音。王都式の、あの音だ。
ロイドが立ち上がった。レオンハルト様の手が止まった。わたくしの喉で、「ありがとう」という言葉が、そのまま固まった。
「君を――」
彼が口を開いた。
廊下を硬い靴音が打った。規則正しい、急いでいない、でも止まらない音。
「…………」
レオンハルト様は黙った。いや、言おうとして、止まった。言えない理由がある。何かを計算している。守るための計算を。その横顔が、今夜だけは痛かった。
ロイドが静かに扉へ向かった。わたくしは机の上の申請書に目を落とした。欠けた参照番号が、灯りの中で静かに並んでいる。
この欠落の連鎖が、どこまで伸びているのか。その答えを探す理由が、今夜、わたくしの中ではっきり固まった。
扉が開く音がした。
「期限です」という声が、廊下から冷たく差し込んできた。
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