第23話 灯りを消さないのは、監視ですか
封蝋の割れる音は、1度だけだった。
乾いた、軽い音だった。廊下から来た。
わたくしは筆を止めた。椅子の上の外套はまだある。ロイドが出ていってから、まだ半刻も経っていない。石床を踏む足音がした。ロイドの足音ではない。もっと硬くて、もっと均等だ。事務的な革底の、皺ひとつない制服の人間が歩く時の音を、わたくしは知っている。王宮書庫で5年、そういう人間の足音だけを背中で聞き続けた。
書庫の扉は閉まっている。声は届かない。でも廊下に誰かいる。確かめに行こうとして、立ち上がりかけて、止まった。「城の外に出るな」と言われたその夜に、一人で扉を開くのは手順が違う。飛ばした手順は、後で必ず誰かの足を止める。それはわたくし自身の足かもしれない。
索引札の小箱を手元に引き寄せた。蓋を開けた。空欄の区画に指が触れた。冷たい。いつ触れても冷たい。空欄は怖い。でも今夜は、冷たさが頭を整えてくれた。
5分待った。足音は遠ざかった。書庫は、また静かになった。
それでも眠れなかった。
灯りは揺れていない。窓の木枠の隙間から入っていた夜風が凪いだからだ。写しの束を引き寄せ、続きを整えた。「除く――」。条文の末尾で途切れる2文字が、今夜も白く浮いている。欠けているのに、ここだけが残っている。例外が、あった。外せる首輪が、本来は存在した。それを誰かが持っていった。昨日から何度も繰り返した考えを、今夜もまた辿る。辿るたびに確かめているのは、その考えが崩れていないかどうかだ。今夜も崩れなかった。
外套のポケットに戻した申請書は、明日の朝には渡さなければならない。渡す時に声が出るか。「ありがとう」の4文字がまた喉で詰まるなら、今度こそ紙で届けるしかない。それがわたくしのやり方だと、もう開き直っている。
手の甲が重かった。眠い、というより疲れが骨に届いた感じだ。でも手は止めなかった。止めたら、考える方向が崩れる。考えた結果だけが、明日の形になる。指先が紙の端をなぞるたびに、背表紙を撫でた時と似た感触が戻ってきた。少しだけ、息が整う。
灯りが落ちかけた頃に、扉が開いた。
「灯りを消すな」
レオンハルト殿の声が、静かに落ちた。ノックはなかった。命令でも怒りでもない。宣言に近い声だった。言い訳の余地を最初から排した声の形だ。
わたくしは写しから目を上げた。
「……消す予定はありませんでした」
「そうか」
殿下が室内に入ってきた。机の椅子でも窓際でもなく、扉からまだ2歩の場所に止まった。近づきたいのか、距離を置きたいのか、どちらでもないような立ち位置だ。椅子1つ分の間をどう測るか決めかねている時の、あの形をわたくしはもう知っている。以前は分からなかった。今は分かる。
「廊下に、王命執行官が来ましたか」
殿下がわずかに目を動かした。
「……書状を届けに来た。中身は確認中だ」
また書状。また王命。「別紙参照」だけで終わる紙が今夜も届いたのか、届いていないのか。「確認中」という言葉の重さを、今夜のうちに開いてはいけない気がした。聞いても、答えが揃っていない。揃っていない答えを受け取っても、整理のしようがない。不穏な予感が、静かな声の形で届いた。
「灯りを消すな、というのは」
わたくしは問いを置いた。
「監視ですか」
殿下の視線が正面に来た。
「監視だ」
1拍だった。短くて、硬い。その1拍の間に、殿下の目が何かを探した。見つかりそうで、見つからない。口が開く。
「……見守りだ」
声が、少し低くなった。訂正したのではない。置き直した、という感じがした。
監視と見守りは、外から見ると輪郭が同じだ。灯りが消えることを許さない、という事実は変わらない。でも声の奥にある温度が、今夜は違う。「消すな」と言った瞬間の、宣言に似た硬さ。それは恐れから来ている。書庫が暗くなることへの恐れ、あるいは、そこにいる人間の輪郭が闇に消えることへの恐れ。どちらかは言わなかった。言わなくても、今夜だけは伝わった気がした。
鎖だと思っていた。何度も思った。でも鎖は、恐れで作られない。盾は、恐れで作られる。外套のポケットに折り畳まれていたあの紙のことを、また思い出した。
殿下が机の側に歩み寄り、灯りを指先でわずかに動かした。影の角度が変わった。
「……読みやすくなりますか」
「そうでも、ありませんでした」
わたくしは素直に答えて、灯りを元の位置に戻した。殿下が目を細めた。
「……そうか」
今度は殿下が灯りに手を添えて、別の角度に動かした。確かに少し明るくなった気もした。でも影の向きが変わって、写しの字が読みにくくなった。手を伸ばして、元に戻した。殿下がまた動かした。わたくしが戻した。殿下がまた動かした。
3度繰り返して、灯りは最初の場所に収まった。どちらが戻したか、最後は分からなかった。
「……記録と同じですね」
声に出てしまった。
殿下の耳が、一瞬だけ赤くなった。わたくしは急いで写しに目を戻した。笑ってはいけなかった。でも肩から力が抜けた。数日ぶりに、ほんとうに抜けた気がした。
扉口に気配がして、ロイドが静かに入ってきた。蜂蜜茶を盆に乗せ、机の端に置いた。その動きがいつもより丁寧だった。場が張りつめていると察した時に出る丁寧さだ。菓子皿を1枚、机の隅に足した。
「神殿から、照合の進捗につき返答がございました」
わたくしは手を止めた。
「台帳係よりの回答です。――写しの発行は、文末の欠けが補われるまで保留、と。追加書状の形式確認にまだ時間を要するとのことで、手続きには、さらに日数がかかる見込みとのことです」
殿下がカップを持ち上げた。置いた。1度、2度、3度、位置を直して、元に戻った。わたくしは写しを折り直した。欠けがある以上、写しが出ない。写しが出ない以上、手続きが進まない。手続きが進まない間も、期限は動いている。遅さが、そのまま圧になっている構造だ。神殿が悪意を持っているわけではない。規定通りに動いているだけだ。でもその「規定通り」が、刃の形をしている夜がある。今夜がそれだ。
「最善でございます」
ロイドが真顔で言った。今夜の「最善」は、いつもより半音だけ低かった。信じきれていない音が混じっている。でも言い続けることが彼の作法だと、わたくしはもう知っている。言い続けることで、作法が支えになる。そういう人だ。
ロイドが出ていった後、書庫はまた2人になった。
灯りは揺れない。殿下はまだ机の側にいる。椅子1つ分の距離が、さっきより近い気がした。気のせいかもしれない。気のせいではないかもしれない。そのどちらかを確かめる言葉が、まだ喉の手前で止まっている。
「ありがとう」も、まだそこにある。
「除く――」の2文字が、写しの上で静かに呼吸している。
欠けた文末は、どこへ行ったのか。
問いだけが、灯りの下に残った。
読んでいただき、ありがとうございます。
よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。




