第22話 外套だけ置いて、言葉は置けない
夜の書庫に、足音があった。
2度。それきり止まった。
廊下の側からではない。壁の薄い場所のどこかで、石が鳴いたような音だった。わたくしは筆を止めて、誓約の写しを机に伏せた。5秒待っても、続きは来ない。あたりを見回して、棚の間を確かめた。何もない。灯りが少し揺れているのは、窓の木枠から風が入っているからだ。
気のせいだ、と思いながら、気のせいではない気もした。城内の耳が増えている感覚は、昨日よりも今日のほうが強い。確証はない。だが確証のないままでも、紙は伏せておいたほうがいい。
息を整えて、写しに目を戻した。
「除く――」。
条文の末尾に、その2文字だけが残っている。欠けているのに、ここだけ残っている。今日、台帳係の机で指先で押さえた感触が、まだ指の腹にある。例外が、あった。外せる首輪が、本来は存在した。それを誰かが持っていった。
索引札の小箱の蓋を閉じ、また開いた。空欄の区画に指が触れた。冷たい。空欄は怖い。いつもそう思う。でも今夜は、その冷たさがかえって頭を整えてくれた。整理しなければ、と思った。焦れば手順が崩れる。崩れた手順は記録にならない。
灯りが揺れたのは、戌の刻を少し過ぎた頃だった。
窓からではなく、扉の方から風が動いた。気配だけが、扉の向こうで止まっている。ノックは来なかった。
わたくしは振り返らずに待った。
気配は動かなかった。30秒ほど経って、革靴の底が石床を1歩踏む音がした。それから半歩。止まる。また1歩。扉が、内側から押し開かれた。
「城の外に、出たか」
レオンハルト殿の声だった。問いではなかった。確かめる声だ。
「出ていません。書庫の窓は城壁の内側です」
答えたら、息が1拍、詰まる音がした。言いかけて、飲み込む。殿下の癖だ。
「……そうだな」
殿下が室内に入ってきた。机の横まで歩いて、椅子の1つに外套を置いた。腰を下ろしたのではなく、置いた。外套だけを、丁寧に。そしてカップの位置をそっと動かした。1度、2度、3度。別の場所に移して、元の位置に戻した。4度目は元には戻らなかった。
こちらを見ていない。見ているのに、何かを探している。言葉を、探している。
「殿下も、座られますか」
振り返った時には、殿下はもう扉の方を向いていた。背が、廊下の暗さの側を向いている。
「……気にするな」
それだけを残して、出て行った。
外套だけが、椅子の上にある。
子の刻が近い頃に、ロイドが顔を出した。
「護衛の名目で参りました」
手に、何かを抱えている。白い。高く積み上げている。
「……武器ですか」
「書庫用でございます」
真顔で答えて、ロイドは机の端に手袋を山ほど重ねた。10枚は超えている。わたくしは数えた。12枚だった。指先が冷える季節には、まだ早い。
「最善でございます」
言葉を補足せずに、ロイドが椅子の外套に目を止めた。半拍の間があった。菓子皿を1枚余計に机の角へ置いて、また整えた。それから口を開いた。
「主は……」
そこで、声が止まった。続きを待った。来なかった。ロイドが口を閉じて、机の角を指でそっと揃えた。言いかけて止めた。意図して止めた、というのが気配でわかった。漏らせない、と判断した顔だ。
「……お茶を、準備しております」
それだけ言って、ロイドは出て行った。
外套だけが残った。
手が止まったのは、子の刻を越えた頃だった。
写しの整理はほぼ終わっている。索引札も揃えた。残るのは申請書の段取りだ。神殿への次の手順を、明日の朝には形にしなければならない。
でも、外套が気になって集中できない。
置き去り、という言葉が頭を掠めた。違う、と打ち消した。でも打ち消した分だけ、また浮かぶ。守る、という言葉が鎖に聞こえる、と思ったことがある。今夜は別の問いが来た。保護の形というのは――どういう輪郭をしているのか。城の外に出るな、と言った声と、この外套と、ロイドの途中で止まった言葉。並べてみると、どれも形が似ている。形は似ているのに、温度が読めない。
胸の中で何かがざらついた。
また守られるだけの駒に戻る、という考えが来て、わたくしはそれを飲み込んだ。飲み込めたかどうか、よくわからない。棚の背表紙を指で撫でた。ざらりとした感触が指の腹に落ちてくる。息が少しだけ整う。整えてから、外套に近づいた。
上着の外側は柔らかい。公爵家の織り地だ。内ポケットが1か所、わずかに膨らんでいる。
3秒迷った。
手を入れた。
紙だった。
折り畳まれた1枚を広げると、整った字が並んでいた。神殿宛の申請書だ。照合の種別、参照する条文の番号、手続きの根拠として「条文末尾の照合」という1行。提出者の名前の欄に、わたくしの名前があった。
セレスティーヌ・フォルセット。
殿下の字で。
参照番号の末尾が、1桁だけ空欄になっていた。でもそれ以外は、整っていた。言葉の代わりに書かれた紙が、ここにある。言えない分が、全部ここにある。
胸の中で、何かが音を立てた。
鎖だと思っていた。
鎖ではなかった。
盾だった。黙って、言葉もなく、外套の内側に折り畳まれた盾が。誰にも言わずに、ひとりで、書いていた。わたくしの名前を入れて、神殿に出す気でいた。それを、ここに置いて、「気にするな」とだけ言って去った。守ると決めた時の殿下は、言葉より先に紙を動かす。それは今日初めて知ったことではないかもしれないのに、今夜はじめて、胸の奥まで届いた気がした。
ありがとう、と言いかけた。
喉が、詰まった。
声にならなかった。声にしようとするほど、喉の奥で固まる。礼を言うたった1語が、ずっとここで詰まる。5年、ずっとそうだった。誰にも、うまく言えたためしがない。詰まる場所だけは、変わらない。
わたくしは申請書を折り直して、内ポケットに戻した。外套を丁寧に、椅子の上に置き直した。
明日の朝、渡さなければならない。渡す時に、何か言えるかどうか。「ありがとう」が、今度こそ声になるかどうか。言えなかった場合は――また紙で届けるしかない。それがわたくしのやり方だ。
灯りが揺れた。
廊下の方から、封蝋の割れる音がした。
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