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戦国タイムトンネル  作者: サクラ近衛将監
第四章 新たな役割

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4―1 信長公との謁見 その三

 天正七年水無月(6月)13日、俺は信長公のご機嫌伺いのために安土に向かった。

 毛島を拝領した際に約束していたんやが、信長公が使える銃を届けるためや。


 銃と言っても、火縄銃や蒼龍隊隊員に持たせている自動小銃やアサルトライフルやない。

 左程、心得が無くても扱える拳銃や。


 リボルバーと自動拳銃のどちらにするかを迷ったが、比較的暴発が少なく安全性の高いリボルバーを選んだのや。

 この時代、もう少し先にならんと欧州でもリボルバーの原型は出現しない。


 従って、世界で初めてのお目見えじゃな。

 信長さんに献上するのは、日本の警察等でおなじみのミネベアミツミ社製の回転式拳銃のニューナンブM60やで。


 こいつは比較的小型で日本人にも持ち易いから選んだ。

 信長さんはこの時代にしては、結構ガタイが大きいし、力もあるとは思うが、年齢はもう48歳、いや、数えだと49歳になるのかな?


 いずれにしろピークを過ぎているやろから、仮にこれから長生きするとしたら(?)、余りデカい拳銃、例えば、モーゼルやデザートイーグルなどは重過ぎるやろうし、撃った時の反動がでかいからやめておく。

 拳銃とはそもそも片手で射撃を行うための銃であって、小型故にその所持を秘匿したまま携帯するのに便利なんで、護身用には最適なんや。


 但し、弾丸が小さく有効射程も短いから左程の威力は無いんやが、それでもこの時代の火縄銃よりは殺傷力が高いかもしれん。

 蒼龍隊でも、主力武器のアサルトライフル等が使用不可となったときのための最終手段として装備し、護身用としてのみ使用するんやが、無論無論信長さんに渡すものとは銃種は違うものや。


 ニューナンブは、9ミリ弾を使い、弾丸五発までを回転式弾倉に込められる。

 自動拳銃ほどの速さで連射はできないが、狙いは別として、その気になれば二、三秒で五発を撃ち尽くすやろな。


 予備の弾丸は、一応200発ほど用意しているが、信長さん、どっちかと言うと凝(こ)る方やから、多分この数では二、三か月で無くなる可能性が高いな。

 ま、定期的に弾丸(タマ)を届けることになりそうや。


 そうして飽くまで護身用やから、携帯用にショルダーホルスターも用意したよ。

 流石に抜身で持ち歩かれると、危なくて困るからな。


 標的も用意しようかと思ったがそれはやめにした。

 それは信長さんが、ええ様に造らせるやろ。


 ただ、できるだけ人前(特に南蛮人がいるところ)ではあまり使わないで下さいとお願いするつもりや。

 無論、自衛の為に使うならしゃぁないな。


 信長さんに会ってから、もう半年近くも経っているから、これ以上遅らせては、叱られる可能性もある。

 供の者四名だけをつけて、身軽に安土に向かうことにする。


 毛島から小型の船で小浜に上陸して、そこから通称九里半(くちはん)街道を経由して、近江の今津へ行き、今津から彦根へ船で渡り、彦根から安土へ陸路で行くコースや。

 小浜から今津まで陸路一日、今津からは二丁魯の船を使えば水行五里の距離を4~5時間で彦根に到達できる。


 まぁ、今津から安土へ船で直行することもできないわけやないが、時間がかかる。

 蒼龍隊の船なら色々設備もあるが、船の中でもよおしても困るし、昼飯なんぞも困るじゃろう


 従って無難な方法で彦根へ向かうわけや。

 彦根から安土までおよそ徒歩で四時間と言うところやな。


 つまりは毛島を夜明けに出たら、翌日の夕刻までには安土へ着くことができるわけや。

 前回はトト様と一緒やったし、人数も余計おったので、秀吉叔父貴の邸を使わせてもらったが、今回は安土城下にある本陣宿(ほんじんやど)を使わせてもらう。


 木賃宿(きちんやど)(きちんやど)もあるにはあるんやが、俺達のような主家が有って禄(ろく)を食(は)む武家が泊まるような宿ではないんや。

 この時代、旅籠(はたご)と呼ばれる多少ましな宿はまだ無いんや。


 そんな宿が出て来るのは、安土時代ではのうて桃山時代或いは江戸時代になって社会が安定してからのことやな。

 行商人等の平民が泊まるには安い方が良いということで、善人も悪人も一緒くたになって泊まるところやから、食い詰め浪人なら泊まるだろうが、俺に貴賤(きせん)は無いとは言いながらも、やはり歴(れっき)とした武家は本陣か知り合いの家に泊まるのが王道なんや。


 別に、秀吉叔父貴の邸を避けたわけやないで。

 実際のところ、安土にある本陣宿が、どんな所なのかを一度確認しておきたかったというのが本音やな。


 その代わり、供の者には不寝番(ふしんばん)等で苦労をかけることにもなるが、俺の配下の者は余程のことが無ければ不覚は取らない筈や。

 これも経験と思って、優秀な配下を連れて来た。


 問題は、本陣で変な御武家にかち合わないかが心配やな。

 俺の場合は、少し中途半端なんやが、信長公から毛島を直々に拝領された特殊な陪臣なんや。


 トト様も秀吉叔父貴の配下としての陪臣なんやが、但馬と丹波攻略の功績で信長公から領地を拝領し、朝来に拠点を置く8万石の領主様になったわけやが、俺はその陪臣の身内とはいえ、陪臣の陪臣にあたるわけやな。

 仮に、信長公の直臣あたりと本陣でかち合った場合、俺の方が相手に譲らねばならない立場なんじゃ。


 まぁ、その相手が容認できないほどの無理難題を吹っかけて来るなら、こちらも相応に対抗するけどな。

 それでも、信長公のおひざ元である安土城下で大事(おおごと)になるようなことはしたくない。


 その辺は、配下にも良く良く言い聞かせての旅路じゃ。

 信長公への手土産は、毛島周辺の海の特産である若狭くじ(アカアマダイ)と鯵(あじ)、それにマハタを用意した。


 若狭湾の夏場の土産やったら、やっぱりくじと鯵、それにめったに食べられない大物のハタやろう。

 勿論、生のまんまだぜ。


 氷で冷やした上で、俺の亜空間で時間調整をしているから、夏場に関わらず全く痛んでいないトレトレの魚だぜ。

 当初、ブリはどうかとも考えたが、俺の知恵袋の玄海曰く、夏場のぶりは油が乗っていないんやそうな。


 まぁ、さっぱりして良いと言う人もいるようじゃが、魚は美味い方が良いよな。

 琵琶湖では食べられないものを土産にするのが一番だと思って用意した。


 因みに、周辺の漁師の世話にはなっていないんだぜ。

 俺自身が毛島の周囲で採ったくじと鯵、それにマハタや。


 沢山持って行っても仕方が無いのやけど、何しろ信長公には家族が多いからなぁ。

 くじが10匹、アジが20匹や。


 マハタは、体長四尺の大物を一匹用意したんやが、安土城の賄方(まかないかた)はちゃんと捌(さば)けるのかそれが心配やな。

 近江で獲れるこんなでかい魚は、ビワコオオナマズぐらいやろなぁ。


 まぁ、伊勢湾ではマハタも取れるから、信長さんはマハタを知っているかもしれんが、夏場に普通に尾張から運んだのでは絶対に生きが下がってしまう。

 但し、魚がこれだけあっても複数の側室やら幼い子らにまでちゃんと行き渡るかどうかは知らんが、後の分配は信長公に任せることにする。


 但し、このことが信長公からの余計な注文を引き受けることになってしまったのは、後の話じゃ。


 

 ◇◇◇◇


 例のごとく、本陣に着いてすぐにお城へお伺いを立てる。

 その際に、魚も渡しておいても良いのじゃが、夕刻に渡したのではおそらく夕餉に間に合わん。


 それでは魚が痛むので、魚が傷まない様俺の亜空間で保管しておいて、登城の際に持参することにした。

 普通の場合、登城は午前中になることが多いから、それであれば夕餉には間に合うだろうと思っての事じゃ。


 まぁ、渡した後は向こうの責任じゃから儂は知らん。

 とは言いつつも、くじと鯵の刺身は残してある。


 賄方からクレームでもつけられた際の抗弁材料や。

 一応事前に書状を認(したた)めて、いついつ頃、お約束した品を届けに安土城に参上しますというお知らせはしているんやけどな。


 陪臣上がりの小童(こわっぱ)の言うことを、信長さんがどこまで気にかけてくれるかや。

 信長公は、そもそも姫路の水軍については大分興味を持っていた筈やし、毛島の様子もある程度は間者を使ったり、丹羽長秀辺りから情報が届いている筈や。


 俺がご機嫌伺いに行ったら、必ず毛島の工事の進捗状況を聞かれるに違いないやろな。

 特に一夜城ならぬ、一夜にしてでかい防波堤を造った報せは、何らかの形で届いているやろから、その目的と造営方法を知りたいやろな。


 何せ、信長公は、新し物好き、珍品好きやから。

 これまで聞いたことのない珍しい話でもあれば、絶対に聞きたがるはずや。


 信長公からの御召しは意外と早かった。

 6月16日の巳の上刻(午前九時頃)に登城せよとの連絡が翌日朝には本陣宿に届いたよ。


 その話を聞いた玄海がいみじくも言った。


「天正7年6月16日は、徳川家康の家臣である酒井忠次が安土へ来て、家康の長男信康の一件で安土城に登城する日だったはず。

 もしかすると、主(あるじ)殿も巻き込まれるやも知れぬな?」


 その言葉でふと思い出したのは、この後信康が切腹する事件やった。


「おいおい、俺は築山殿や信康とは会ったことも無いんだぞ。

 何で、俺が巻き込まれるんじゃ?」


「信長公は理に聡(さと)い。

 同じく理に聡く、得体のしれぬ戦船(いくさぶね)や武器を造り、播磨や丹波さらには大阪本願寺の戦いでは目を見張る働きをし、なおかつ敵地にある毛島に巨大な堤を短期間で造ったともなれば、難問については主の意見を聞いてみようという気にもなろう。

 何せ、徳川家康は、尾張の東を任せている盟友じゃ。

 その嫡男を処分せねばならぬとしたなら、信長公でも如何にすべきか迷う。

 無論、信長公の側近は多々おるが、彼奴(きゃつ)等は信長公には絶対に盲従する。

 白を黒とも言いかえる輩(やから)じゃから、忠臣ではあるものの、信長公も本音のところでは信頼しきれんのよ。

 その点、主殿ならば、異論が有れば、率直に信長公にも反論する気構えがある。

 そうしてそれなりに信長公には忠節と義理を果たしているからのぉ。

 ある意味で頼りになる外様、いや陪臣なのじゃよ。」


 玄海の解説はそれなりに納得できるものじゃったが、まさか、俺をその酒井忠次の弁明の場に立ち合わせるとは合点がいかないぞ。

 そもそもそんな必要がどこにある。


 あるとすれば、玄海が知っているであろう史実から推測できる事情を酒井忠次からききだすことだけだが・・・。

 場合によっては、俺が家康の不興を買うことにもなりかねんな。


 信康及び築山殿の武田への内通は事実だったのかどうか?

 数少ない記録に残されている信康の狼藉は本当だったのか?


 玄海曰く、酒井忠次は、信長の娘徳姫からの訴え12か条の内、10までを素直に認めていると云うのである。

 当然に酒井忠次一人の判断ではあるまい。


 家康が正直に言って構わないと、あるいは積極的にそう言えと指示したに違いない。

 後に徳川家の記録では、信康に徳川の姓を与えずして、松平姓のままで葬ってもいる。


 実の我が子に対しては、ある意味で随分な仕打ちではあるよな。

 後の学者たちの一説によれば、家康の方針に逆らう信康を捨て置けず、家康が今回の徳姫の訴えを機に処分したとの憶測もあるぐらいじゃ。


 家康の正妻である築山殿については、女性の記録が乏しいので良く分かってはいないが、今川家所縁の者でもあったという説もある。

 ただ、徳川家康の正妻が何ゆえに武田と通じ合っていたのか、その理由が判然としない。


 或いは信康と家康の不仲、そうして築山殿と家康殿の不仲が遠因としてあるのかもしれないが、普通に考えて何らかの利が無ければ、築山殿が落ち目になりかかっている敵方と通じるわけもない。

 ある意味でその辺の証拠がなく、状況証拠だけで動いていたような気配すらある。


 信康の非道な行いとしては、理由なく僧侶や踊り子を殺したこと、家臣に対して乱暴な振舞が有ったこと、父である家康の命に背くだけでなく、義父である織田信長のことも軽んじる態度をとっていたと記録されているが、後の徳川家の資料であるだけにどこまで真実なのかは不明なんだ。

 特に家臣への振舞については、一種のパワハラであり、乱世の君主(若しくはその嫡男)であれば誰でもそんなことがし得る立場にあった。


 歴史は多くの場合、為政者に都合よく捻じ曲げて記録される。

 俺としては、何となく冤罪である可能性が高いと見てはいるのだが、さてどうすべぇかだな。


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