3―20 周囲の情勢変化と毛島周辺の情勢
織田家の周囲を巡る情勢をあらかた紹介したわけやが、俺が介入したことで歴史の変革は起きたものの、これによりバタフライ効果が発生して、いきなり海外の歴史までが変動したりはしないようじゃ。
ただ、そうは言いながらもアジアに拠点を持っているポルトガルとスペインが、日ノ本の武士の戦いにも興味を持っているのは確かなのや。
東南アジア諸国にもそれなりの戦士はおるんやが、日本の武士と違って、武力としてはさほどでもないんや。
ところが、日本の武士団は先進の鉄砲を早くも戦に利用している。
しかも、欧州で造られたものでは無くって、既に国内生産ができるまでになっていることから、スペイン・ポルトガルとも日本に軍を派遣することを躊躇っている。
戦略物資としての硝煙は、雨の多い日本の自然では、ほとんど採取できないから、それを制限するだけで干上がるかもしれないんやが、そもそも遥かに遠い欧州から運んでくるようなものじゃないから、流石にそこまでの制限はかけていないんや。
この当時のスペイン辺りが造っているガレオン船は全長50m前後ではあるものの、総トン数は千トンを超えるものもあり、最大搭載人員も千名を超える場合があったんや。
但し、この当時の総トン数は令和時代の総トン数とは違う。
どちらかと言うと積載できる重量での換算やったみたいやな。
令和時代の総トン数は、船の容積から換算して得られる数値やし、排水量は、船を浮かべた際に水を押しのける量で船の重量を図るやり方なんやが、この時代の総トン数はどちらかと言うと令和時代の載貨重量トン数に近いものやったらしい。
いずれにせよ、仮に十隻の大型ガレオン船を派遣しても、載せられる歩兵は最大搭載人数の8割前後やから、精々1隻で600~800名程度、十隻では最大8千名程度になるのかな?
インカ帝国を征服したピサロは、200名足らずの兵士で8万とも言われるインカ軍兵士と戦ったんやが、ピサロが勝利を収めたのは、一つにだまし討ちと武器の違いであり、それに輪をかけたのがインカ帝国の内紛、そうして天然痘等の疫病の流行やったみたいやな。
インカの疫病は猛威を振るい、詳細は不明やが約1千万人(約3千万人と言う説もある)の人口が半数~95%にまで激減したようやな。
但し、インカ文明は、ある意味で偏った文明であり、文字を持たず、車輪の知識が無かったし、鉄器も無かった。
弓矢はあったようやが、兵士の主力武器はこん棒と投石器やったので、鎧に身を固め、銃を持ったスペイン兵士に敵わなかったらしい。
然しながら、日ノ本は違う。
鋼で出来た刀と槍を持ち、鎧兜もあるし、鉄砲もある。
織田軍だけで数千丁もの鉄砲を備えており、よく鍛えられた兵士が居るとなれば、如何に歴戦の欧州の兵士と言えども苦戦は免れない。
まして、フィリピンのマニラ占領に伴い、ブルネイと軋轢を生じ、戦になって何とか首都を陥落せしめたものの、スペイン軍に疫病が発生して、ボルネオから撤退するに及んだ時期でもある。
スペインとしては、フィリピンの利権が確保されれば良しと判断し、以後ボルネオに侵攻することは無かったという経緯があるのやが、この時は、スペイン兵、メキシコ人、フィリピン人の寄せ集め部隊で精々二千名程度やったらしい。
対するブルネイ軍は千名前後で、数に物言わせてスペイン側が勝ったみたいやが、ブルネイの王様はボルネオ奥地に逃げ込んで安泰やったし、これ以上無駄に犠牲を増やしたくないと云うことだったのやろう。
じゃが、日ノ本はもっと違うぞ。
元寇の役では、二度とも地元の武士が頑張った所為もあるんやが、弘安の役(二度目の元寇)では元軍側14万に対し、日本軍は4万人で応戦したんや。
単純な話やが、事あれば数万人規模の兵士が外敵に抵抗するという歴史があるんや。
玄海によれば、天正6年ごろの織田軍の将兵数は、延べで概ね十万程もいたらしい。
沖縄あたりの離島僻地ならばともかく、日ノ本の本土へ侵攻をかけるともなれば、数万の軍勢が間違いなく必要となるやろな。
然しながら、如何にスペイン帝国と言えども、極東まで数万の軍勢を派遣し、その後もその軍を維持するとなると国が傾くやろうな。
この頃、スペイン帝国の尤も輝ける時代やったが、その実、財政面では種々問題を抱えておったのも事実なんや。
日ノ本では、応仁の乱以降、頻繁に起きる武士同士の戦いで将兵が鍛えられているから、たかだか1万にも満たない将兵では、ロジの問題もあって、遠隔地での戦闘継続が難しいことはわかり切っている。
従って、スペインは大明国やその属国である朝鮮にも手が出せないでいる。
それに輪をかけて、欧州にも無い新兵器が日ノ本に登場したとなれば、その動向に興味を持つのは当然であるが、だからと言ってマニラあたりから少数の艦隊を出しても、相手の機嫌を損ねるだけで得にはならない。
それゆえに尖兵たる宣教師の情報収集に期待をかけている段階なのや。
新型兵器や俺達蒼龍隊の情報が集まらないとなれば、彼らも次なる手を打って来るんやろうな。
それでも、力押しでは無理と承知しながら、スペイン帝国が日ノ本に侵攻してきたら?
単純に言って、沿岸付近やったらペガサス級ミサイル艇でも十対応が可能分やろな。
相手の砲弾が届かないところから76ミリ砲で榴弾を撃てば、ガレオン船なんぞ数発で壊滅できる。
但し、時化模様の外洋沖合にまで小型艇が出動するのは無理やから、外洋で戦うのが目的やったら、少なくとも排水量が数千トンの駆逐艦クラスが必要やろな。
そのためにも、毛島の水軍基地の建造を急がねばならんのや。
姫路の水軍基地は、ミサイル艇に特化して造った基地やから、それより大型の艦艇を置いておくような施設にはなっておらんのじゃ。
まぁ、沖合に桟橋ぐらいは作れるやろうけど、・・・。
大型艦艇を隠して置けるような、より大きな港湾がどうしても必要なんや。
いずれは、所属艦艇が遠出した場合の補給基地もそのうちに考えねばならんやろうけれど、今のところ専用基地以外では、沖に錨泊する程度でも構わないと思っている。
仮に西洋の大艦隊を撃退することを考えるならば、哨戒の交代を考えると最低でも8隻、欲を言えば16隻程度が必要やろうな。
この時代ではオーバースペックに過ぎるんやが、平成から令和にかけて存在した「あさぎり型護衛艦」でも構わないやろう。
このあさぎり型護衛艦、ミサイルは一応搭載しているんやが、VLS(ミサイル垂直発射装置)は無いし、戦闘中にはミサイルの再装填ができないという問題があるんやが、ここではそもそもミサイルは使う場面が無いやろな。
鋼鉄船なんかこの時代に出て来んのに、ミサイルなんぞ使っても弾の無駄やろな。
貨物船を撃つのに、大和の46センチ主砲を使うみたいな話しや。
爆発せんと、弾が船体を貫通するじゃろうな。
木造船相手にミサイルを使ったなら、もしかして、ミサイルも爆発せんと突き抜けるかもしれん。
因みに、あさぎり型護衛艦で俺の通販(異世界商店)でのお値段は、一隻当たり何と140億P弱なんだよね。
最低ラインで8隻としても、約1千億Pを超えるんだが、まぁ、出せない金額ではない。
初陣からこの方、あちらこちらへと出歩いているからね。
俺のインベントリには金銀等がざっくざくなんだ。
異世界商店で使えるのは24金だけなんだけれど、いずれ銀も通貨として使われる筈なんで、異世界商店では無く、商人相手には銀が通用するんじゃなかろうかと思っている。
ただまぁ、俺には異世界商店があるから、俺が商人を利用して物を購入することはほとんど無いな。
その代わり、異国との交易なんぞを始めたなら銀が必要になるかもしれん。
交易には金は使わないようにするつもりなんや。
安土桃山時代(主として豊臣政権下)における金と銀の交換レート(金銀比価)は、おおむね 金1に対し銀10~12の比率でやったが、欧州における金と銀の交換比率(金銀比価)は、概ね 金1に対し銀15~16 なんや。
従って、日本で銀12を使って、金1と交換すれば、計算上は銀3~6ほどの儲けができるということや。
まぁ、輸送経費を考えると左程の儲けも出ないかもしれんがな。
新大陸(中南米)から大量の銀が欧州に流入しており、ガレオン貿易でメキシコから太平洋を横断してマニラに運んでくるわけやから、そのついでに、日本で換金すれば余計に儲けられるというわけや。
まぁ、欧州勢の金儲けの話はさておき、一先ず、毛島の秘密基地の整備やな。
信長さんにも言っておいたんやけど、手前の若狭国はその大半を丹羽長秀さんが支配しているんやが、毛島はどちらかと言うと一色氏が支配している丹後加佐郡に入るらしい。
勿論、島に人は住んでおらんが、島の周辺は良い漁場なので、昔から島の周辺で漁民が魚を取っていたようやな。
玄海によれば、天正六年半ばから、明智光秀さんが同僚であった細川藤孝の与力を受けて、雲井城や八上城の攻略をしながら、明智軍が丹後攻略も始めている筈なんやけれど、史実とそこがちょっと変わっていたな。
信長さんが、トト様を名指しで丹波攻略に行けと命令を下したからな。
雲井城の方は明智光秀に任せる一方で、雲井城からだと直線距離で20キロも離れていない八上城は朝来を取った勢いで、羽柴第二軍が手っ取り早く落としていたんや。
明智さんも、羽柴弟が丹波の西部に出て来て、西から攻略を始めていると知って、多少は焦ったのか、全精力を傾けて雲井城の攻略に臨んだため、史実のような包囲網による補給線の遮断を狙うのではなくって、力攻めで攻めたんだよね。
当然に兵士の損耗もあるわけやから、丹波攻略が成ったからと言って、すぐに丹後方面へ転戦できるだけの余力が無かったんや。
この辺は一旦は、織田勢に降伏しながら、裏切を為した波多野氏と赤井氏を、最優先で倒せと信長さんが発破をかけたわけやから、丹後の攻略はその分後回しになったようや。
従って、信長さんから許しを得て、毛島に水軍基地を建設する作業を始めた天正7年3月頃には、未だに一色氏が大浦半島(別名で大浦庄という)を治めていたんだよ。
それでも、恐らくは初夏に入る頃には信長さんから指示を受けた明智軍が動き出し、丹後攻略の本格始動が始まるやろね。
水軍基地の方は、できるだけ秘密裏に作業はするんだけれど、漁民に知られるのは時間の問題やろな。
まぁ、そうなっても強行するだけだよ。
一色氏の当主は、一色義員又は義道の筈。
一色氏は、天正三年の浅井・朝倉攻めの際に海路から出陣して織田勢に協力していたりするんで、その後で信長さんに丹後の守護として安堵された筈なんや。
でも、実はその数年前に一色氏が「信長に敵対する勢力(反信長包囲網)を支援していたこと」や、「信長の命である上洛・恭順を拒否し続けたこと」が丹後攻め大義名分になっている(?)んやで。
何だか後出しジャンケンみたいで、この流れが納得できないんやが・・・。
うーん、合理的とは言えない理屈で攻めているみたいやね。
もっと別の理由が有ったりするのかも知れないけれど、そこは玄海に聞いてもわからないんや。




