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戦国タイムトンネル  作者: サクラ近衛将監
第三章 出陣

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3ー15 信長と言う男

 織田信長と言う男は、日本の歴史の中でも異彩を放っている男やが、では歴史書に残されたことは正確なものなのかと言うと必ずしもそうではないらしいんや。

 往々にして、時の権力者若しくはその側近達によって事実が捻じ曲げられている。


 極端な例を挙げるとなれば、戦国時代には系図の詐称(さしょう)が横行していたんや。

 従って、織田信長の系譜では当初平氏とされていたものが後に変えられているし、秀吉にしても農民の子であることが分かっているにもかかわらず、藤原一族であるかのような見せかけを行っている。


 そうでもしなければ農民出身の秀吉が、関白にまで上り詰められなかったという世相があったからやろな。

 その為か、秀吉の父親についての情報は至って少ないか、若しくは消されている。


 実際に、秀吉とその弟秀長が異父兄弟とされて二人の父が居たとされていたり、実は父は一人であったというような説があるわけや。

 秀吉の話にかこつけて、歴史に引用されている資料が必ずしも正確なものではないとの前提条件の上に立って、信長と言う人物を見てみよう。


 信長については、信長の旧臣であった太田牛一が残した「信長公記」、小瀬甫庵が残した「甫庵信長記」、ルイス・フロイスの「日本史」など多々あるのやが、いずれも色々な点で間違いがあるとされている。

 特に、比較的間近で信長を見ていたはずの者が書き残したものであっても、年代にずれが有ったりすることから、記憶を呼び起こして後で記載したものの、それが誤っていたということもあるだろうし、当時の天下人の悋気(りんき)に触れないよう工夫せねばならなかったという時点で、そもそも幾分かの脚色が入っているようやな。


 いずれにせよ、信長の気質については、概ね鋭敏な頭脳を持っていて短気であることや、神仏の信仰を持たないなどと言う噂話がそのまま記載されているものが多い。

 下手な大名よりも領地と軍事力を有している寺社勢力については、信長が種々の場面で敵対しているために神仏の信仰は薄いとされているが、実際のところ、信長は非常に合理的な思考の持ち主であったと思うんや。


 信長に天下統一の考えが何時頃芽生えたものかは不明やが、少なくとも足利義昭を押し立てて上洛するまでは、天下布武を全国に広げようとは思っていなかった節がある。

 戦国時代は、どの戦国大名も周囲に群がる敵を如何に制し、その敵からの攻めを如何に(しの)げばよいかと言うことを第一に考え、(おのれ)の領地と一族の発展のみを考えていたはずなんや。


 京の都に帝が居り、その帝から征夷大将軍を拝命した将軍様が居たにしても、鎌倉時代のように強権を持っていない戦国時代の足利幕府が自分と左程関りがあるとは余り考えなかったのやろな。

 だから、応仁の乱以降では、天皇の領地や都の貴族の領地を治める代官(守護・地頭若しくはその家臣)が武力を背景に年貢を横領する者が現れ、下剋上(げこくじょう)が横行した。


 この傾向は、京都から離れるにつれて大きくなり、京都の(まつりごと)が地方には行き渡らなくなっていたのである。

 そのために、武家がその地域における権勢を追い求めて、各地で騒乱が起きたのやろな。


 但し、律令国家や足利政権下で醸成された考え方で、中央から何某かの権威ある任官を受ける制度は地方豪族の権威付けと血筋の保全に役立ったから、下剋上の世の中にあっても機会あるごとにそれを利用したのが戦国大名である。


 信長の天下布武の思想は、その意味で当初は尾張一国若しくはその周辺の領域を含めての天下布武であったのやが、京都上洛を機会に徐々にその適用範囲を広げて行ったとする説に俺は賛成やな。

 信長の青春時代は、その奇行と扮装から()()()()と評されたと「信長公記」にも記されている。


 前にも説明したと思うんやが、伝記物語には、周辺を欺くためにわざとそのような振舞をしたという説もあったりするが、一面では生母である土田御前との折り合いが悪かったとされ、あるいは家庭内不和に対する不満をぶつけるためにわざと非行少年の真似事をしていたのかもしれない。

 土田御前については弟信勝を溺愛していて、信長を差別したともあるが、実際はどうだったのかは不明だ。


 特に戦国時代においては、男の記録はあっても、女については余り記録が無いのが普通なんや。

 代表的なのが信長の正室である濃姫(のうひめ)帰蝶(きちょう))については、嫁入りした後にどうなったのかが判然としない。


 信長との間に子ができなかったからなおさらのことなのかもしれないが、正室の筈なのに、ものすごく影が薄いんだよな。

 その点、秀吉の正室である寧々さんの方が、同じく子供がいないのに余程多数の記録が残っているのが不思議やねん。


 ところで信長の弟信勝の死後は、土田御前も信長や市と暮らし、信長の子や市の子らの面倒を見ていたようや。

 少し時を遡ると、父の信秀亡き後は、信長が家督を継いだのやが、織田家の重臣は、信勝との対比で評判の良い信勝側に回ったものが多い。


 仮に、信長が尾張の外の豪族に対するけん制でうつけの芝居をしていたとするなら、織田家内部に敵を作った時点で逆効果であったはずやろな。

 むしろ、美濃(岐阜)の()()()と会う際には、しっかりとした身支度をして行った(?)のやから、あるいは外向けに見せる場合をしっかりと心得ていたことになり、その意味では尾張国内に蔓延(はびこ)る仮想敵勢力を(あぶ)り出すための芝居やったのかもしれない。


 いずれにしろ、怜悧(れいり)と云う言葉が似合う男であったのやろうと思われる。

 その一方で、戦はどうだったのか?


 青年時代の戦いは、色々と考えた末ではあるのやろうが、とにかく遮二無二(しゃにむに)の突撃が目立つ戦をしている。

 尾張の覇権をかけて実弟信勝と戦った際も、桶狭間の戦の際も、寡兵(かへい)で突っ込む戦いをしているんや。


 信勝との戦いで言えば、おそらくは、信長の家臣団の武力が、ロートルぞろいの信勝側の将兵などの武力よりも勝っていたということではあるかもしれないんやが、平将門のように如何に武威(ぶい)に優れていても矢弾に当たって死ぬこともあるのだから、大将が最前線に突出するんは、最後の手段のはずやろうと思うのや・・・。

 それを二度も三度も仕掛けるというのは、将としては如何なものやろか?


 こと美濃争奪戦に際しては、この正面からのごり押し作戦で斎藤義龍や龍興に何度も負けている。

 誰かの入れ知恵(?)で、龍興の家臣を寝返らせてから、ようやく稲葉山城を奪取できたようにも思えるのや。


 この頃、明智光秀は将軍足利義昭の家臣となっていた筈なので、未だ光秀と信長とは接点が無いと思われるが、この後に上洛を促す使者として光秀が信長に会いに来るはずである。

 一方で、こうした調略で周囲の家臣団を切り崩すやり方は、戦国時代の武将であれば誰でもやりそうなものではあるけれど、稲葉山城攻めまではそうした裏の(はかりごと)での戦を余りしていないようにも思えるな。


 織田軍団の中で、調略と言う(はかりごと)に長けた人物としては、俺の叔父貴である秀吉が居るのだが、生憎と稲葉山城攻めの際は、秀吉は未だ小頭どまりで、精々数十人程度の小物を動かせるだけの人物のはずやったから、信長にそうした策を提言する立場に無かったやろし、仮に秀吉自ら動いたにしても当時の秀吉ごとき軽輩に(なび)く敵の武将はそうそういないやろな。

 いずれにしろ、美濃攻め以降は、調略も頻繁に行われているように見受けられるのや。


 もう一つ、信長直卒の家臣は、一部の譜代家臣を除いて、家臣の三男坊などが多いのじゃ。(前田利家⇒前田利春の四男坊、佐々成政⇒佐々成宗の三男坊)

 このことは、青年期において普代家臣の助力を得られにくかったという立場だったからでもあるやろな。


 それが大うつけを装った代償なのかもしれないし、最初から古い因縁に囚われている老臣を切り捨てようとしたのかもしれない。

 いずれにしろ、信長の直臣とも呼ばれる諸将は、歳を経るにつれてその能力を発揮して織田軍団の枢要を占めることになる。


 どのような経緯で三男坊や四男坊と知り合ったのかは不明やが、信長に先見の明があったということでもあるのやろな。

 先ほど信長は神仏を信仰していないかのごとき説明をしたが、熱田神宮を始めとして、信長の神社に対する対応は、寺社に対するそれとは少し違っている。


 朝廷とのつなぎ役として利用されたとの考えもあるが、京都吉田神社の吉田兼美とは信長が本能寺で没するまで親交があった。

 信長が忌避したのは、神仏の教えを守らずに、武力を保有して広大な荘園を持つ勢力としての寺社であったはずだと思うんや。


 実際に比叡山延暦寺の焼き討ちに際しては、事前に警告を繰り返しているし、戦略上、浅井・朝倉に加担する寺社勢力を排除しなければならないという理由があったから、限定的に焼き討ちを為した。

 延暦寺の僧兵は、それまでも武力を背景に京の都で種々の無体を働いており、公家からも大いに嫌悪されていた。


 それがために多少の非難はあっても、織田軍の比叡山焼き討ちは不当なものとしては受け止められてはいなかった。

 但し、書面で残るのは明らかに仏敵としての信長を(あお)る記録である。


 これは、寺社勢力の権益に対する大いなる反抗と捉えた寺社勢力の喧伝なのやろな。

 市井に生きる庶民は、非識字ゆえに、起きた事柄に対する感想を後世に残すことはできない。


 従って、識字率の高い坊主どもの言い分が、後世には残りやすいとことになる。

 例えば、寺社の焼き討ちならば一向宗も大いに行っている。


 同じ仏門でありながら、教えの違う門派に対しては寺社の焼き討ちを平気で行って、それを正当化する集団やった。

 それら一向宗の本願寺一派を註したのも信長や。


 然しながら、信長から見れば、本願寺一派のそうした非道を註するというよりは、織田軍に反抗する軍事勢力の一派を制しただけの話やろうな。

 その意味では浅井・朝倉に(くみ)した延暦寺とて同じなのである。


 従って、織田軍勢に歯向かわない寺社については、潰したりしていない。

 その意味で、戦国時代の神仏に対する一般的な考え方とは違うのが信長である。


 本来、神仏とは侵すべからざるものであり、それを(まつ)る神社仏閣、及び、それを守る坊主や神官を含めて、人々が尊び、敬うべき存在であるから、その坊主どもを註するなどあり得ないという考え方が普通なのや。

 信長は至って合理的な考え方をするから、坊主どもが神仏を敬っても何ら気にしないが、その神仏の教えすら守れぬ坊主どもを、大事に扱おうとは考えないのやろな。


 但し、世間体があるから、いきなりバッサリとはやらないのやが、相応に注意喚起や警告を与えてから実施したのが比叡山の焼き討ちの筈なんや。

 一方で、織田に武力で反抗する本願寺は、単なる敵であって、神仏とは全く無関係なのや。


 例えば、敵将が特定の仏を信仰し、あるいは神を信仰するからと言って、敵将を放置するかと言うと、戦国時代は食うか食われるかの弱肉強食の世界であるからして、どんなに人物が優れていようが、討ち果たすべき存在なんや。

 長島の本願寺、大阪の本願寺はそれゆえに攻略されたのやと思う。


 そうした一大勢力であった比叡山や本願寺一派の没落を見て、興福寺、東大寺、根来寺等々は信長を一大脅威と感じたやろうから、ある意味で見せしめになったじゃろうが、信長が果たして『見せしめ』とまで考えていたかどうかは定かではない。

 いずれにしろ、信長との会見では、俺と言う異端児を信長がどう捉えるかで、俺の今後の行動が変化せざるを得ないのは間違いない。


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