3ー14 大阪本願寺攻めの終了とその後
ミサイル艇の76ミリ砲が狙うのは大阪本願寺の本丸と、本丸を取り囲む堡塁の石垣やで。
一隻目が手前に見える西側堡塁の石垣で、石垣をまず左から右へ掃射する。
石垣左端から10m、上端から5m下方を着弾点として、次弾は10m右へ修正。
このため概ね50発発射して西側堡塁の石垣が崩壊した。
残り46発については、当該堡塁の上に立つ建造物を順次狙い撃ちだが、AI操作のために非常に目標照準と発射が正確で速い。
砲撃開始から約10分後には、西側堡塁の建物の八割程度が倒壊していた。
ミサイル艇の二隻目は、西側堡塁の南西側から狙いをつけて、南側堡塁の石垣を同様にして崩し、堡塁上部の建造物を概ね10分間で破壊した。
三隻目は、北側堡塁で奥まったところが狙いであったので、西側堡塁の北東端近くまで進出し、北側堡塁の石垣と上部の建物を破壊した。
四隻目は、西側堡塁を超えた本丸の石垣を狙うため、同じく西側堡塁の北東端まで進出し、本丸石垣を崩壊させて大門を破壊、なおかつ本丸内にある建造物を順次狙い撃ちにした。
二隻目が移動に5分ほど要して9時15分に射撃終了。
三隻目と四隻目が射撃地点の移動に約十分を要し、9時20分に射撃終了した。
終了した段階で大阪本願寺の拠点は全体の7割から8割程も崩壊していた。
この時点で、大阪本願寺に向かって織田軍に恭順をするならば白旗を上げよと通告し、白旗が上がらぬ場合は一刻後に再度の砲撃を行うと再度の通告を為した。
その上で、第二班に付近海域での遊弋を引き継ぎ、俺とトト様も第二班の指揮艇に移乗した上で、第一班のミサイル艇は姫路の第二基地に戻っていった。
第一班が基地に戻れば、第三班が出撃してきて大阪本願寺沖で待機することになっているから、概ね二時間後には現場海域に第三班が現れることだろう。
しかしながら、そのシフト予定は必要が無かったようだ。
砲撃終了から半時後、大阪本願寺の本丸に当たる倒壊した本堂付近に柱が立ち、大きな白旗が掲げられたのである。
ミサイル艇の380発余りの砲撃により、石山本願地寺はその砦としての機能をほぼ失ったのであった。
白旗を上げた一番の原因は、建物の崩壊に伴い随所で火災が発生し、食料蔵が燃えたことであった。
本堂近くの倉庫に食糧を集中させていたことが、裏目に出たのである。
砲撃の結果、負傷しながらも生き残った者が半分ほどいるが、その人数でもおそらく半月分ほどの食糧しか残されてはいないのである。
周囲を蒼龍隊水軍に包囲されているために、それ以上の食糧確保が難しいと判断されたからこそ、両手を挙げて降参したということである。
因みに、本願寺の頭目である顕如は生きていたが、好戦的な弟の教如は砲撃の直撃を受けて交戦派の側近もろとも爆死していた。
相手が恭順の意を表明したからには、織田軍としても応じなければならないが、そこは俺やトト様の役目ではなく、総大将の佐久間殿に後始末を丸投げじゃな。
織田軍の主力部隊は、その日の夕刻までには半ば廃墟と化した大阪本願寺の本丸に整然と入っていた。
元本願寺本殿が建てられていた前庭になる広場で顕如以下の高僧や武士たちが非武装で待っていた。
その後、顕如と織田軍諸将の連名で誓紙が交わされ、顕如以下の僧侶は大阪本願寺から退去すること、大阪本願寺の跡地は織田家の差配に委ねられることなどが決まったのである。
このため、佐久間殿を中心とする摂津及び大和の諸将からなる約五千の将兵が大阪本願寺跡に居残り、トト様など遠隔地からの与力衆は解散となった。
大阪本願寺を攻略した報告は、佐久間殿が安土へ急使を走らせたのである。
この結果、俺とトト様が姫路に戻ったんやが、半月後には信長公から呼び出しを受けたよ。
さてさて、こいつはある意味で一大事なのではあるのだが、どう乗り切るかやな。
軍勢を引き連れて安土に参るわけにも行かず、蒼龍隊12名とトト様の側近12名合わせて24名の供を従えて、俺とトト様は、安土へと向かった。
姫路から安土までの道のりは、いくつかの街道や山道も有るのだけれど、特段急ぐ旅でもなさそうなのでゆっくりと南回りの街道筋で行くことになった。
騎馬の旅ではあるが、休み休み行くために、人が歩くよりも少し早い程度の旅である。
西国街道から京街道へ、そこから彦根街道を通って安土城に至る道は、踏破距離44里程になるので、急いで三日、普通に旅して四日の道のりである。
途中の宿にて内緒話をトト様と行い、信長公が呼び出しをかけた理由を推測し、その対処方法を相談した。
単純に、『此度の本願寺攻めの功績見事なり、そなたらに褒美を取らす』という程度の呼び出しではないことはわかっている。
おそらく出されるであろう信長公の質問や無茶な指示命令に対して如何に対応するかが問題なのだ。
一応、大枠で5通りの方策を立て、その細分化でそれぞれの方策にさらに12通りほどの対策を立てた上でトト様にも了解を貰ったよ。
対応を誤れば、下手をすると親子そろって打ち首になりかねないからな。
最悪の場合、織田家との決別も考えており、その際は未だ十分な準備もできてはいないんだが、蒼龍隊隊ともども、どこかへ逃げ出すよ。
取り敢えずの逃亡先と言えば、信長公の手の及ばない蝦夷地あたりかな?
その場合、トト様や家族を連れて行くかどうかだが、こいつはトト様とカカ様の判断に委ねるしかない。
◇◇◇◇
織田軍団の総帥である信長公だが、天正三年十一月には嫡男信忠に家督を譲っている。
従って、跡目の心配は無くなったから、隠居かと言うとそうではなく、実質的な差配は信長が行っているんや。
その意味では、岐阜及び尾張の大名が信長の嫡男信忠に変わっただけの話であり、周囲もそう見ているのである。
まぁ、信忠が家督を譲られたのが18歳(数えで19歳)の時だから、一応の大人とは認められていても実質的な裁量は余り無かったと言えるだろう。
21世紀で言えば成人したとはいえ。未だ高校三年生だもんね。
そりゃぁ、局地戦ならともかく周囲全てと戦っている状況の織田軍団をまとめることなど簡単にはできない相談やろう。
武田攻めでは相応の戦果もあげており、それなりの優秀(と思えるよう)な家老もつけてはいるんやが、織田全軍を指揮するにはもう少し経験が必要と言うわけや。
で、大殿と呼ばれるべき信長公ではあるが、その人物像についてはいろんな見方が有るようや。
俺は歴史家じゃないから詳しいことはわからないが、一つには人を見る目があったということ。
また、一度信用したならとことん信用するということと、裏切りは許さないということやろうか。
部下には、飽くまで実力主義、成果主義を押し付け、役に立たない者は容赦なく追い出した。
家臣の登用もある意味では革新的であって、身分に関わらず重用し、所謂親衛隊には織田家家臣団の嫡男以外(三男とか四男等)を登用している。
つまりは、織田家家臣団の譜代家臣が居ても、自分に最後まで付き従う家来を求めたわけである。
その所為もあってか、信長の若い頃は、徒党を組んで嫡男らしからぬ奇矯な行動をとって周囲からは顰蹙を買うとともに大うつけと呼ばれていたから、譜代家臣の主だった者(林秀貞、林通具、柴田勝家など)は品行方正と言われていた弟の織田信勝に靡いていたんだ。
そのために、織田家中を二分する勢力争いも起きたわけだ。
この辺を見て、後世の人は敢えて敵分子を炙り出したのではと見ている向きも多いのやろう。
信長の奇行は、飽くまで周囲(家中の内敵及び周辺国の外敵)をごまかすためとの後世の評価もあるのやが、真実は不明やな。
むしろ、実母である|土田御前が幼い頃から弟を溺愛して、信長に余り関心を寄せなかったことも信長の奇行に大いに影響が有ったかもしれないと思うんや。
親父は仕事(戦争)で忙しく、母親が弟だけを構っている状況では、ひがみ根性から非行に走ることだってあるやろな。
まぁ、その辺は別としても、性格的に短気であったのは事実のようやから、ある意味で俺とトト様はその対応に十分注意をすることが必要じゃろう。
一方で、頭の回転が速いお人やから、理を説けば、それなりに納得をする人物でもある。
但し、色々と抜けたところのある人物でもあるのではとも思うんや。
この先、天正10年には明智光秀の謀反により本能寺で自裁したとされているはずやが、ではなぜにそんなことになったのか?
周囲の敵にかまけて、実は信長の周辺には兵力がいなかったという事態が本能寺の変を引き起こしているように思えるのや。
まぁ、それだけ絶妙な時期を狙って光秀が謀反を起こしたということもあるんやが、そもそも身近に護衛集団を置かなかったことが信長の大いなる隙やと言えるのじゃろう。
但し、本能寺の変に際して、信長公の周囲に味方の将兵が全く居なかったというわけやないで。
大阪には、三男信孝が率いる四国征伐のための大軍が集められて居たし、嫡男信忠も京都に居た。
伊勢にはあまり出来の良くない次男信雄も居たんやが、危急を知って駆け付けるには遠い存在やったかな?
そもそも大兵を動かすには、周到な準備が必要やから、簡単には出動できないのが普通やねん。
光秀も坂本城から出陣するのに、中国攻めの与力をすると言う口実が有ったので大軍を動かしやすかった所為もあるのやろう。
然しながら、一方で、自分の家臣であっても、それなりの間諜を使って動向を探るぐらいのことを為していれば、本能寺の変は起こらなかったか、あるいは未然に防止できたかももしれんのや。
史実の上では、それまでも信長に謀反を企てた家臣は、荒木村重や松永久秀が居るし、家臣ではないが浅井長政の例もある。
下剋上の戦乱の世では何が起きるかわからないのにも関わらず、四囲の敵ばかり見て、足元をよく見ていなかったのが信長公の一つの失敗であると思うのや。




