3ー7 丹波攻略後のあれこれ
この丹波攻略については、信長公に羽柴長秀の功績が比較的大きく見えたのは仕方がないことじゃった。
その分、光秀は苦労した割には信長公には認められなかったことにもなる。
史実では、後に恩賞として、光秀には坂本城の五万石に丹波一国の24万石が加増されて29万石になったはずなんやが、今回は丹波国西部域の約8万石が減らされていた。
その減らされた分の恩賞が、トト様に与えられたんじゃ。
トト様は秀吉叔父貴の直臣ではあるが、丹波攻めの際に抑えた丹波柏原及び氷上地区並びに笹山地区の半分、それに川辺郡と合わせて約8万石の領主になったわけやな。
特に石高の多いのは三木城に近い川辺郡で、ここだけで5万石近いはずじゃ。
このため、これ以外の地域で、荻野一族の主城黒井城があった黒井地区および、波多野一族の主城八上城があった八上地区より以東の丹波の地域は光秀の所領となったのや。
いずれにしろトト様が丹波西部に所領を任された以上は、秀吉叔父貴の直臣でありながら、信長公の直臣に近い立場になったともいえる。
しかも領主としての職責を担うためには、現地に行かねばならないことになるわけや。
トト様と秀吉叔父貴が相談の上、但馬攻略と丹波の領地を見守るために比較的近い場所にある朝来にトト様の拠点を置くことで合意したようや。
したがって、俺を含めて蒼龍隊は、朝来近辺に移転しなければならなくなったようやな。
蒼龍隊が俺の親衛隊である以上は、俺の拠点に移らねばならないのは当然だよな。
さてさて、田村山に変わる拠点を豊岡近辺で探さねばならないようやな。
尤も、田村山の拠点は縮小して支部の形で残すことにしている。
長浜周辺での蒼龍隊の知名度が上がっているので、未だに、隊員を希望する者が途絶えては居ないのじゃ。
従って、そうした隊員となることを希望するための徴募事務所としての役割もあって、田村山の拠点は残すことにしたんや。
それはさておき、三月ほどの期間、丹波での後処理を任せた後、信長公は光秀に山陰の出雲及び石見の攻略を任せたのじゃった。
ところで、天正六年八月には、丹後と但馬の境で紛争が起きていた。
山名祐豊が、織田軍に反旗を翻したからである。
史実ではこの反乱は、天正七年に起きるはずやったはず。
やはり俺と言う存在が歴史に介入したことにより、色々と変化が起きて時期が早まっておるのもありそうやな。
朝来の拠点整備を図っていたトト様の軍勢は、急遽、出石、有子山城に向けて出張ることになった。
有子山城は、豊岡の南東方向にある山城や。
山名祐豊も二度目の造反とあって、翌月には滅亡したよ。
有子山城を懸命に普請中やったけどね。
山名祐豊については有子山城に籠城していたんやが、蒼龍隊の攻撃であっけなく爆死した。
山陰道については明智光秀が征くので、トト様の軍勢は豊岡周辺に威勢を張るために当座は朝来近辺を根城とし必要に応じて出石城に籠ることになった。
史実だと竹田城を暫く預かるはずなんだけれど、その辺も少し違うようやね。
まぁ、史実よりも一年から二年ほど先にものごとが進んでいるからやむを得ないところもある。
但し、織田軍に反抗する者達からすると、秀吉軍であろうと明智軍であろうと織田軍勢に変わりはなく、その武威を恐れて、但馬と因幡東部近辺までは略無血開城で平らげた感じだな。
光秀も出雲に至る道がほぼ抵抗力を失っていたから随分と助かったはずだ。
尤も、出雲から石見に至る道は明らかに毛利勢の勢力圏だからこれからが大変やろうな。
秀吉叔父貴も晩年には、臣下の武将に同じようなことをしたんやが、信長公は、優秀な武人の臣下は遠くに置く傾向がある。
おそらくは光秀も武将として優秀であるがために、いずれ坂本城を取り上げられることになるのやろうな。
それゆえに、山陰の出雲・石見を切り取り次第としたという説が後世に流れているんや。
生憎と、今回は、光秀がどのような具体的指示を信長公から受けたかは定かではないんやが、少なくとも、玄海がかつての情報として覚えていたのは、中国攻めの手伝いを命じられたことだけであり、坂本城や亀山城を返還せよとは命じられていなかったようなんや。
従って、何故に本能寺の変で光秀が信長に反旗を翻したのかは玄海も知らぬことらしい。
一説には信長の勘気を恐れての行動だとも、一生一隅の機会で天下取りを目指したとも称されているが、定かではない。
特に陰謀説では、背後に誰ぞがいたとも称されているが、玄海の情報には何も無いのだ。
光秀は秀吉叔父貴よりも十歳ほど高齢だったから、中国攻めに於いて、その下に着くのを嫌ったとも言えるかもしれない。
そう言えば、三木城の戦いが早めに済んだために、史実では有った筈の荒木村重の反乱は無かったんやなぁ。
史実では、三木城を包囲中に、荒木は勝手に陣を離れ摂津国に戻ったのやが、これが勘気に触れると家臣に言われ反旗を翻したとも言われるが、そもそも陣中を抜ける前にそんなことは気づいていたはずであり、覚悟の上の戦線離脱やろう。
この時点で毛利とつながっていたのは間違いないことやろな。
だが、三木城が目の前で呆気なく落とされると、荒木村重も保身のために簡単には反乱を起こせなくなった。
反乱を起こせば籠城しても一日か二日で城が落とされるのを目の当たりで見たのやから、余程勝利の確証が無ければ、反乱など起こしようがないのや。
まして荒木の場合には、左程の有力将兵が付いているわけでもないことから、毛利その他から強力な援軍が期待できないならば反乱は無理である。
毛利の手先で死ぬよりは、織田軍の手先で生き残っていた方が良いと考えるのは当たり前の話である。
ところで、明智軍二万が出雲に迫った時点で、秀吉軍も西進を開始したんや。
この時代、講和なんぞは、ただの紙切れである。
都合によって、毛利も織田も平気で破るものなのだ。
特に、信長公の意向に沿わないとあれば、その臣は自ら進んでその敵を成敗するしかない。
織田信長の命を受けて、四国への調略も間もなく動き出しそうな気配があるんや。
それにしても、そんなに戦ばかり吹っ掛けなくても良いと思うんやけどなぁ。
その所為で、近江、尾張、山城には織田軍の将兵が少ないんやぞ。
有力諸将を東西南北で戦をさせてりゃ、本家本元ががら空きになるのは当然のことや。
畿内が何となく危いと知りつつも、俺は、敢えて、信長を守るための手は打っていない。
信長が謀反その他で討たれるなら、そこまでの男であり、それも運命というものや。
但し、未だ引っ越しの済んでいない蒼龍隊の基地である田村山はどんなことがあっても守り抜くし、カカ様のいる長浜も守る。
仮にその二つに攻めてくるような敵が居るなら殲滅することにしている。
留守番部隊にも命じている最優先の自衛計画なのじゃ。
この際には、脅威度に応じて段階的にじゃが、使える武器は何でも使うことになっている。
仮に十万の大軍が田村山に押し寄せても撃退は可能だと見ているよ。
12.7㎜重機関銃を複数並べられて発砲されたら近づく者は全てなぎ倒されることになる。
田村山の木陰に隠してある昇降可能な12か所の歩哨塔には、各二基の重機関銃が設置してあるんや。
無論、宿舎の屋上にも10基の機関銃が据え付けてある。
普段は、カバーを被って偽装されているが、五秒もあれば発砲することが可能なんじゃ。
より遠方を狙うには、迫撃砲多数と二基の155㎜砲じゃろうな。
長浜が危ない時には、水陸両用車24両を出撃させることもできる。
古い映画の「戦国〇衛隊」と違って、複数の車両がいれば、多数の決死隊に取り巻かれても戦車は攻略不能や。
大津方面や坂本方面から水軍が押し寄せても、水陸両用車で簡単に蹴散らせる。
知らずに出張った将兵が気の毒というものやな。
そんな場合は、捕虜にすると面倒だから捕虜にはしないで殺戮する。
本拠地に手を出したなら、当然それなりの報いを受けてもらわねば困るというものじゃろう。
因みに12.7㎜重機関銃は220万p、迫撃砲は430万p、155㎜砲(約10トン)は一億二千万pだぜ。
ついでに言うと、弾薬もタダじゃあないからな。
武器弾薬は、結構高いんじゃが、いずれにせよ異世界商店では半値以下やな。
一体どんな基準で値をつけているのかわからないんやが、兵器関係は食糧よりも割引率が高いように思うし、玄海もそう証言しているな。
玄海も俺が令和に生きていた頃の実勢価格をそれなりに情報として知っているからな。
但し、単に伝令・伝授役としての役目しか与えられていなかった筈の玄海が、どうして実勢価格を知っているのかは謎や。
別に玄海が異世界商店とリンクしていたわけじゃないようやからな。
国津神の影響によって変化した式神という奴は、かなり妙な存在ではあるな。




