3ー6 但馬から丹波へ
三木城攻めと上月城の戦いが終わり、一旦結ばれた毛利との講和だが、天正6年後半には出雲で紛争が起こり、いずれ講和が崩れることになる。
一方で、俺が率いる蒼龍隊は、トト様とともに但馬方面を鋭意攻略中や。
その一方で、明智光秀は、武田軍に呼応した荻野一族の征伐(丹波攻略)を信長から命じられているのだが、山間部が多いために攻略に難渋していた。
そのために、秀吉軍主力は播磨平定のために姫路に置いたままやったが、毛利との講和をきっかけに、信長から、陪臣であるトト様に対して西から丹波攻略の命が下った。
実はこの命令は、至極異例のことなんや。
信長公から秀吉叔父貴に対して、『長秀をして丹波攻略に強力せよ』と命じたからや。
普通の場合、方面指揮官に対して、その軍の一部をどこそこへ振り向けよという指示は有っても、その具体的割り振りまでは当該指揮官に一任するものなのじゃ。
信長公にしても、直臣である客将(与力)を戻せと命じることはあっても、陪臣を名指しで指名することはこれまでなかったことなのである。
おそらくは、信長公配下の軍監が、三木城攻略の一件をわかる範囲で知らせたに違いない。
それが故に攻略方法の詳細は知らずとも、山城の攻撃に有効な手立てを羽柴長秀軍が持っていると知って、派遣を命じたのやろな。
いずれにしても明確な命令が来た以上は、止むを得ない。
蒼龍隊もトト様の一部隊として出撃することになったわけや。
そもそも但馬攻略への出陣は、上月城の戦いの後に一旦長浜に帰還して、十分に静養してからのことやったから、輜重隊80名を含めて240名での出撃となり、そのままの勢力で丹波方面へと向かうことになる。
この数があれば、万の大軍でも蒼龍隊で制圧できる自信はあるぜ。
実はこの但馬と丹波での戦で、トト様は但馬にある生野銀山を手に入れたのじゃが、その際に竹田城など円山川左岸の制覇に結構な戦闘があり、蒼龍隊が活躍した。
生野銀山の金銀等については、俺は手出しをしていないんやで。
因みに生野銀山では、金、銀、銅、亜鉛、錫、方鉛鉱、石英、緑泥石なども産出されるんや。
尤もこの時代で、これらの産出物をどれだけ有効利用できるかは未知数なんやが、俺が手を出さずにトト様や秀吉叔父貴に任せることにする。
戦にはカネがかかるもんやからな。
織田家に寄進するにせよ、自ら金銀を採掘するにせよ、その支配権を握っておくことが重要なんや。
俺の場合、既に、土倉で金・銀・銅を秘密裏に掘り出しているから、必要が無いとも言えるんや。
土倉だけでも、既に金約10トンが採掘できている。
令和で言えば、グラムあたり2万円ぐらいやったはずじゃから、キロ当たり二千万円、トン当たりで200億円なので、概ね土倉だけでも二千億円相当の純金が採掘できたことになる。
異世界商店でこの10トンの純金を換金したポイントは二千八百億pで、令和で言えば四千五百億円近い買い物が可能なんやで。
このポイントでどんなものが買えるかと云うと、「飛鳥Ⅱ(50,000トン強)」の後継船「飛鳥Ⅲ(52,000トン)」が三隻から四隻ほど買えちゃうぐらいやな。
海自の「かが」も、異世界商店なら余裕で買えちゃうやろな。
まぁ、それ以外にあちらこちらで遠出するたびに金・銀・銅などを採掘しているから、俺の取得ポイントは、既に1兆pを超えているんだぜ。
従って、敢えて生野銀山に手を付ける必要はないという訳や。
余計な話ではあって、大っぴらにはできないが、俺が空間転移の術を覚えたことで、行ったことのある場所であれば、国内のほとんどどこへでも瞬時に移動が可能なんや。
ただ、まぁ、部隊を引き連れて転移できるかというとそこまでの能力はまだ無いんやが、実は奥の手が有って俺の亜空間倉庫を利用すれば、亜空間倉庫に入れたまま転移は可能なんよ。
また、空間転移も現時点では、距離的に200キロ圏内を一度で跳べる程度かな。
じゃが、この空間転移を連続すれば、近江から蝦夷地迄でも簡単に跳べるようになるんやで。
但し、先ほども言うたように一度行ったことのある地点が行く先になるから、どうしても一度はそこへ行くか、式神を先に行かせて、後から其処へ飛ぶという手間を掛けなければならないのが若干不自由かもな。
それでも例えば200キロ先の特定地点に行こうとすれば、式神を飛ばして一刻足らずの後には、目的地に跳べることになる。
俺が空間転移の術を覚えたので、場所によっては令和の新幹線よりも早いかもな。
新幹線は線路に沿って走らねばならないが、式神は空を飛ぶから障害物に関わりなく直線のコース取りができるからな。
例えば、岐阜から越後へ行くには、令和での新幹線でも岐阜羽島から東京経由新潟で4時間16分ほどかかるが、岐阜城から春日山城までおよそ230キロ程度だから、時速150キロ弱程度の式神では。1時間半ほどで春日山城へ到達できるんや。
つまりは、岐阜城の山の上にいても二時間もあれば上杉謙信に会いに行けるということやな。
少なくとも新幹線の駅から離れたところに向うとするならば、間違いなく式神を利用した空間転移が早いはずじゃ。
まぁ、新幹線については俺が導入したりしなけりゃ、当分お目見えすることは無かろう。
余計な話になったが、話を元に戻すと、光秀軍は天正三年からの丹波攻めで天正4年1月には荻野一族の主城黒井城に迫っていたんだが、今少し届かないうちに、波多野一族の裏切りによって敗退、撤退していたのじゃ。
未だに、丹波攻めが思うように功を奏していないことから、三木城での戦いが済んで、毛利と講話を結んだ余力のある秀吉軍に信長公から出撃指示があったのじゃが、ある意味で秀吉軍としては大変な事態じゃったのだ。
講和中と言いながらも西に強敵毛利軍が控え、今なお播磨でも多少の不和を抱え込んでいる状態で、頼りにする長秀の部隊を取り上げられるのだから秀吉叔父貴としては堪ったものではない。
尤も、秀吉叔父貴には官兵衛と半兵衛がついている。
まぁ、その竹中半兵衛も結核を患っておって、実のところ余命は二年ほどやったのが、俺が三木城攻略後の合間を縫って陣中の半兵衛を見舞い、その際に治癒師としての能力で快癒させた結果、持病の咳や発熱が収まっていたのである。
この後、半兵衛は、六十八歳まで生き延び、長く秀吉の軍師を務めることになる。
◇◇◇◇
一方で、一旦は、坂本城に戻った光秀ながら信長公に発破をかけられ、天正五年十月には再度東から丹波攻略を遂行する。
荻野一族も当初は善戦していたが、三木城の包囲戦が終わって、トト様の軍勢も西から侵攻したことにより、東西から織田勢に攻められて、対応ができずに波多野一族とともに翌年には、滅んだのじゃ。
この丹波攻略で、信長さんから発破をかけられた光秀軍は、かなりの損害を被りながらの黒井城攻略であったが、一方でトト様の軍勢はさしたる損害を受けてはいない。
主要な戦闘は、俺が蒼龍隊を率いて先頭に立っていたから、籠城する敵軍は左程長くは保たんのや。
但し、トト様は籠城する敵軍に懐柔策をまず持ち掛ける。
その上で相手が応じなければ攻撃をするから、一つの城を落とすのに概ね五日から十日程度を掛けている。
まぁ、進軍速度は遅いのだが確実ではあるな。
裏切りがあれば、すかさず蒼龍隊が出動して皆殺しにするから、三月程も経つと、向かうところ敵なしの状態で順調に西から進撃していたよ。
但し、丹波国内には、山城・出城がやたらと多いんだよね。
有名なところでは、天空の城で知られる丹波竹田城がある。
まぁ、これも降伏勧告から三日で敵軍が降伏して無血開城になったけどね。
敵軍も織田軍就中秀吉軍が無敵の攻城兵器を持っているらしいことは、噂話の情報で薄々知っているのや。
抵抗すれば間違いなく殲滅されることを知っていて抗する奴はほとんどいない。
しかも、策を弄して一旦降伏してから寝返っても、根切にされた事例が直近で三つもあれば、如何に謀略好きな丹波衆でも完全に降伏するしかなかった。
また、播磨国内の豪族の離反に備えて、但馬の養父から播磨に至る道路整備を行ったのもトト様である。
この道路は後に北へも伸び、豊岡を経て、丹後国宮津へ至る長大な道となる。
この道路を造ったことで播磨から長浜へ北周りの道ができたことになる。
この道路の普請には、蒼龍隊の別動隊である建設中隊約百名が大いに活躍した。
この道路の普請に際しては、実のところ、蒼龍隊の移動がスムーズにできるように整備したかったから、俺がトト様に具申して、蒼龍隊で整備をするようになったのじゃ。
ところが、この玄武隊の建設中隊を単なる普請をしているだけの作業員と侮って、結構襲撃してくるアホな地方豪族や盗賊集団が居たんや。
建設中隊には賄い要員で女子衆も十人程いるから、あるいはそれを狙ってのことかもしれないが、最初の一月余りで、延べ5百名ほどの襲撃者が、軒並み反撃を受けて殺戮されると、蒼龍隊の旗を見るだけで避けるようになったのは、ある意味で良いことやったな。
蒼龍隊の建設中隊と言いながら、自動小銃20丁が配分され、隊員全てに自動拳銃と銃弾80発を携行させているから、女子衆であっても一人で数人の野盗を片付けるのは朝飯前のことなんよ。
蒼龍隊の場合、基地外に出る要員については、全て戦闘行動ができるようにしている。
そうでない未熟者は留守番と決まっているんじゃ。
但し、丹波国の制覇は、前述したように天正六年の五月までかかった。
西から進軍したトト様の方が先に黒井城を落とすことも可能じゃったが、光秀に配慮して、わざと黒井城には近寄らなかったんや。
それでも調略により、続々と周囲の城に籠る豪族たちを寝返らせていたのは、トト様の慧眼の賜物やろな。
略無敵の秀吉軍が迫っていると知って、多くの豪族が生き残りを図るのは止むを得ないことじゃろう。
織田軍に対して反旗を翻した波多野氏と荻野一族は、信長公の怒りを買っているから今更降伏しても助からないと知って、徹底抗戦するのやが、味方が次々に少なくなると流石に籠城していた将兵も逃げ出すようになる。
その所為で、天正六年五月に明智軍は黒井城を落とし、丹波の制覇がなったわけや。




