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戦国タイムトンネル  作者: サクラ近衛将監
第三章 出陣

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3ー5 上月城をめぐる戦い その二

 因みに、上月城を中心とする山間部にも多数の伏兵が存在しているのだが、そちらは取り敢えず度外視して将兵が集まっている場所を集中して狙うのだ。

 翌日夜明けから対物ライフルによる指揮官級の将兵の狙撃と言う殺戮劇(さつりくげき)が始まった。


 50口径12.7㎜のライフル弾はものすごい破壊力を持っている。

 身体の中央にまともに当たれば、胴体が上下に分断されるほどの威力があるんだ。


 その日、二十丁の対物ライフルから撃ち出された弾は全部で200発に過ぎないが、総勢で287名の死傷者を出した。

 これは、目標の背後に居た者をも巻き込んで被害を大きくしたからだ。


 その日の夕刻には、狙撃ポイントから見える範囲の毛利軍がすべて撤退していなくなったのである。

 両川(吉川・小早川)の大将が不在のまま、半減した将兵の指揮官級の半身が次から次へと吹っ飛ばされ、たまたまその射線に居た将兵も巻き添えを食らえば、怖気(おぞけ)をふるうのも無理はない。


 銃の発射音は火縄銃よりも小さいものだが、やまびこで反響するためにどこが発射地点なのか毛利軍にはわからない。

 彼らも何かが飛んできて壊滅的な破壊を成しているとは知っていても、それが何かはわからなかった。


 撃たれた者の痕跡で、ある程度の攻撃方向はわかるが、そちらを見ても山と林しか見えないのだ。


 狙撃兵はギリースーツをまとっているから、三町も離れれば絶対に自然と見分けがつかないのだ。

 銃の発射音が聞こえるので銃によって撃たれているとは思っても、まさか十町以上も離れた個所から狙撃されているとは気づかないのだ。


 とどのつまり、わけのわからない事象が起きた時に思いつくのは、「これはきっと神罰に違いない。」ということだった。

 そうして、雑兵の一人が、その者のすぐそばにいた同輩が巻き添えを食らって吹っ飛び、その血飛沫を全身に浴びた際に発した言葉が、「こりゃ、神罰じゃぁ。ここに居ては皆が殺されるぅ。」であり、彼はそれを二度大声で叫んだ。


 その叫びは不安を感じていた他の将兵に一気に広まり、津波のように毛利軍は西へ西へと移動を始めたのであった。

 この段階で追撃もできるが、任務が果たせた以上、深追いは無用だ。


 俺は、すぐに上月城周辺の状況を確認の上で、上月城と姫路へ伝令を走らせた。

 因みに毛利方の忍びの者数名が上月城周辺に残っていたので、これは人知れず俺が式神を使って殲滅しておいた。


 姫路城への伝令は、トレール・バイクでできるだけ山中を進むのだが、途中龍野(たつの)太子(たいし)辺りで馬を調達し、青龍隊ののぼりをつけて姫路城に入るようにと指示している。

 トレール・バイクについては、山中で隠し、スターター・キーを抜いておけば発見されても動かせない。


 まして、仙術で搭乗者を特定しているから、他の者が利用できるはずもないんだ。

 トレール・バイクには、位置通報のための発信機が設置してある。


 従って、後日当該場所に俺が拾いに来るか、それとも当人に拾いに行かせることになる。


 ◇◇◇◇


 蒼龍隊は、上月城と連絡を取りつつ、二位山城塞に駐留して、後続部隊が来るのを待ち受けた。

 二位山駐留が五日目になってようやく援軍が到着し、二位山城塞を明け渡すとともに、蒼龍隊は高倉山城の本陣に向かった。


 再度高倉山に本陣を構えた秀吉叔父貴からは多大なる賛辞を貰ったが、褒美に何が欲しいと聞かれたので、補給が必要であり、長浜に戻る許しと休暇が欲しいと願った。

 秀吉叔父は明らかに渋面を造りながらも渋々許しをくれたので、蒼龍隊を引き連れて、俺は長浜に戻ったのだった。


 俺の初陣はこうして成功裏に終わったが、毛利との戦は、この後間もなくして講和が結ばれた。

 実のところ、毛利輝元は、備中高松城の本丸御殿で就寝中に攻撃されて、天井の梁が壊れて天井が崩落、それに埋もれて大怪我を負ったのだった。


 式神の集めた情報では、毛利包囲軍に残った約1万の将兵で主だった侍大将の約半数が殺されており、毛利軍としては非常に大きな打撃を受けたことから、これ以上の戦闘継続が難しかったようである。

 秀吉軍2万に対し、毛利軍が動員できる将兵は2万5千以上と数では優勢なのだが、その実態は指揮する者が不足して、実働部隊は約7割を切ると予想され、実質1万7千人の兵力と見込まれ、この段階での秀吉軍との全面戦闘は不利と判断されたのだった。


 特に、訳のわからない理不尽な攻撃に、包囲軍将兵の半数が(おび)えている状況では戦にならないのである。

 ために講和の話を持ってきたのは、毛利側であった。


 秀吉叔父貴としても、三木城を中心に播磨の各地で反旗を翻されたことから、播磨国内での統制と引き締めを図る必要があり、信長公と連絡を取って、当面の講和に応じたのだった。

 特に、俺から言った「背後にはご注意を」と言う言葉が効いたようだ。

 

 この背後と言う意味は、荒木村重を刺すのだが、そこは曖昧にしている。

 荒木村重は、勇猛な武将ではあるし、それなりに優秀だ。


 しかしながら、秀吉とは馬が合わない上に、助働き(すけばたらき)だけの出陣では、織田軍での序列が上がらないのだ。

 それゆえに史実では三木城包囲軍から勝手に離脱し、そのことで処罰がなされると臣下から脅されて反逆に打って出たと言われている。


 実際にはもっと計算高い奴のはずだから、毛利や本願寺の連中とも連絡を取り合っていたんだろうと思うよ

 その当時は、織田軍も東西南北に敵を抱えていてなかなか動けない時期であったし、三木城の反乱と毛利軍の東進で危機に立たされていたので、摂津での反乱はある意味絶妙なタイミングだったかもしれない。


 しかしながら、彼は疑心暗鬼の故に時世を読み違えた人物だったのだろう。

 いずれにせよ、農民上がりの小男秀吉に指図されることが大嫌いな村重であったことは間違いない。


 信長にしろ、秀吉叔父貴にしろ、とにかく周囲に敵を造りやすい体質のようだ。

 その点、トト様は、何故か周囲に好かれ、信用され、色々と頼られていた存在だった筈だ。


 少なくとも俺が聞いた郷土史家の話ではそうだった。

 今回の俺の初陣は、ある意味で突出した戦果を挙げたから、周囲の(ねた)みややっかみの対象になるわけで、俺としてはできるだけそれらを避けたいから、青龍隊全員で早目の戦線離脱を計ったわけだ。


 まぁ、いつまでも逃げてはいられないから、補給が終わって一段落したら、また出かけるんだけどね。

 今回の三木城の反乱では、おそらく毛利方の調略が効いているんだが、その発端となっているのがおそらくは足利義昭だ。


 信長に京都から追い出されはしたものの知名度は高いから、毛利はそれを有効に使っている。

 足利幕府を擁護(ようご)している毛利こそ義のある軍であると他所(よそ)には吹聴(ふいちょう)しているわけだ。


 中国地方と言う広大な領地を、維持するにあたっては、地方にいる大勢の豪族の助けが必要なわけで、毛利は播磨、因幡などの豪族を盾に使ったのである。

 無論、相応の支援もしているが、史実では毛利軍本隊は余り痛みを貰っていないのだ。


 これを広大な中国地方全域で延々と続けられると、秀吉軍の限られた兵力では侵攻が非常に難しくなっただろう。

だが、今回は違う。

 毛利軍の両川(りょうせん)の上級指揮官に多大の損害を与えたのである。


 毛利が軍を再編するには暫くの時が必要だろう。


 ◇◇◇◇


 足利義昭は、信長にとっては、ある意味で天敵ともいえる存在であろう。

 領域拡張中の信長は、絶えず周囲から脅かされていた。


 そのキーマンとなっていたのが足利義昭である。

 左程の実力も持たぬのに、武田信玄、一向宗、北畠や北陸勢など信長包囲網によって信長を弱体化させようと計ったのは京都にいる頃からであり、京都を追い出されて放浪し、最終的に毛利領備後国に落ち延びてからも謙信や顕如を動かし、また播磨における反旗も大本は義昭の策謀で、毛利がそれに便乗しているのだろう。


 追放された義昭の代わりに、天正三年に織田信長に対して右近衛大将の宣下がなされ、実質的に征夷大将軍と同等の官位を信長が得ていたし、翌年には左大臣、翌々年には右大臣の官位を得ていたので、未だ征夷大将軍の位階を鞆幕府が握っていたとしても実質的には信長の天下であった。


 征夷大将軍とは、本来、夷敵(いてき)を征伐する臨時の将軍職であって、世襲のものではなかったのだが、鎌倉以降の武家社会において世襲が続いただけの話である。

 従って、朝廷も義昭の追放を契機に、これ幸いと足利から織田へと乗り換えたに過ぎなかった。


 信長にとっても、中国攻めを担う叔父貴やトト様にとっても、裏で実の無い権勢により諸将を(たぶら)かす存在は非常に危険でもある。

 史実では織田軍はそれら全てを撥ね返しているようにも見えるが、あるいは本能寺の変の背後には義昭の存在があったかも知れないのだ。


 (しこう)して、俺はそうした懸念を払拭(ふっしょく)すべく義昭の暗殺に動くことにしたよ。

 式神を飛ばした先に俺自身が空間転移し、更に遠方へと式神を飛ばす。


 その方法で、半日とかからずに義昭が御座所としている(とも)へ移動したのである。

 丑三つ時、不可視に隠形のまま、睡眠中の義昭の部屋に接近、式神を飛ばして義昭を暗殺した。


 死因は、脳に至る頸動脈の酸素を奪ったことによる酸欠死である。

 僅かに三秒ほどで意識を失い、五分後には死に至った。


 この時代のどんな名医が見ようとも、義昭の死因は病死である。

 毒の服用は考えられず、眠るように死んでいるので、死因は病死としか言いようがないのである。


 これにより天正四年に置かれた亡命政府である鞆幕府はこの日消滅した。

 時に天正六年水無月(6月)七日のことであった。


 取り敢えず、後々まで(たた)りそうな義昭を、表舞台から強制的に排除したわけである。

 史実では、慶長二年(1597年)八月に義昭が病死しているのだが、それよりも19年早い逝去であった。


 ◇◇◇◇


 足利幕府の残滓(ざんし)は、この後何度か再起しようとはするが、時世は既に足利から離れており、足利の子孫による幕府再興はならなかった。

 因みに左大臣や右大臣、それに右近衛大将軍だからと言って幕府を開く必要も無かったので、信長は官位と職の(じつ)だけを受け取って、敢えて幕府は開かなかった。


 では政治はこの後どうなのかと云うと、実質的に信長がある程度差配しながらも、時世の流れに任せただけの話である。

 そもそも乱世と言われる戦国時代には、守護職や地頭などは名目に過ぎず、その実態がほぼ失われているし、貴族の持つ荘園も地方豪族に奪われたままなのである。


 むしろ寺社領が地方豪族にも増して広大な領域を支配しているほどであった。

 従って、形骸的(けいがいてき)な幕府が有ろうがなかろうが、世の中は勝手に動いてゆく。


 信長若しくはその後継者による天下統一が成るまでは、実質的に乱世のままでも差し支えないのだった。


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