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七日目—開眼

 翌朝、スマホのアラームで目が覚めた。


 憂鬱な月曜日。カーテンの隙間から薄い朝日が差し込んでいる。昨夜の田中との会話は、夢だったように感じられた。いや、夢じゃない。冷蔵庫を開けるとビールが二缶並んでいる。


 会社に行く準備をして、ドアを開けようとした時、ふと足元に白いものが落ちているのに気づいた。


 拾い上げると、それは会社の社員証だった。田中の顔写真が貼られている。


(おいおい田中の奴、落としてったのかよ……)


 俺は社員証を握りしめたまま、スマホを手に取り田中に連絡しようと発信ボタンを押す。それと同時に部屋の中から、着信音がした。音のした方に目を向ける。


 洋服タンスが、あった。


 黒くて四角い。使っていない。服は衣装ケースに入れっぱなしだ。


 ——だが、洋服タンスの扉が、わずかに開いていた。


 昨日までは、閉まっていた。確かに。ずっと。田中が帰る時も、クロが丸まっていた時も、閉まっていた。


 今、わずかに——指一本分ほど——開いている。そこから、着信音が鳴り続けている。


 中から、微かに「カサリ」と音がした。


 俺は、社員証を握ったまま、洋服タンスに近づいた。一歩。もう一歩。手を伸ばした。


 開けるか、開けないか。


(見るな。見たら、もう——)


 指先が、扉に触れる。冷たい。木の質感。だが、どこか生き物の肌のような、ぬるりとした感触。


 その瞬間、社員証が震えた。いや、震えているのは、俺の手だ。


「……佐藤さん」


 洋服タンスの中から、聞こえた。


 低い。掠れた。——田中の声だった。


「開けて、ください」


 俺は、飛び退いた。社員証を落とし、布団に倒れ込んで耳を塞いだ。目を閉じた。何も見ない。何も聞かない。そうすれば、きっと——


 恐怖と、極限のストレスのせいだろうか。急激に脳のシャッターが下りるように、俺の意識はぷつりと途切れた。


 ***


 ——次に目を覚ました時、窓の外の光は少し高くなっていた。

 全身をぐっしょりと冷や汗が濡らしている。夢か現実かも判然としない。心臓の鼓動だけが、異常なほど速く脈打っていた。だが、もうこれ以上は耐えられそうになかった。

 額にはじっとりと冷たい汗が張り付いている。スマホを拾い上げて画面を確認すると、時刻はすでに始業時間を回ろうとしていた。

 画面に、田中からのメッセージが表示されている。


『佐藤さんの家に俺の社員証落ちてませんか?会社に着いてからないのに気付いて、とりあえず今日は臨時入館証発行してもらったんでもし佐藤さんの家にあったら回収しといてください』


 大きく安堵のため息をつく。何だ、やっぱりさっき見たものは現実じゃなかった。いや、それはそれで大変だ。休みを取って今日こそ覚悟を決めてちゃんと病院に行こう、うん。


 上司に電話して体調不良だと言った。田中から俺の調子が悪そうだったと聞いていたらしい上司は『ゆっくり休めよ』と言ってくれた。


「よし!もうお前なんか怖くねーぞ、ただの洋服タンスだ」


 そう言ってベッドから起き上がり洋服タンスの方を見ると、クロが洋服タンスの上に座っていた。いつものお気に入りの位置から俺を見下ろしている。


 ……座り方が変だった。猫らしくない、不自然な角度で、後ろ足を曲げ、前足をまっすぐ体の前に並べて——まるで、人間が正座をしているように。


「クロ……?」


 俺が呼んでも、クロは耳を動かさない。ただ、洋服タンスの上で、黄色い目を細めて俺を見ている。


「やめてくれよ……」


 そう呟いて一度クロから視線を逸らす。あれはただの洋服タンス。あれはいつものクロ。見間違えただけだ。そう自分に言い聞かせてもう一度視線を戻す——視線の先の洋服タンスの表面が、動いていた。


 昨日まで洋服タンスにしか見えなかったそれが、まるで生き物のように蠢いている。


 思わず飛び退くと棚にぶつかり、古い漫画が崩れ落ちた。落ちた本の表紙に描かれているキャラクターも、タイトルもぐちゃぐちゃに崩れている。その瞬間、歪んだ姿のキャラクターが俺を見て笑った気がした。


 今までは気付かなかっただけだ。部屋の隅々、棚の隙間、布団の影——そこに、複数の「何か」が静かに佇んでいる。


(どうすればいい……どうすれば、元に戻れる……)


 答えは分かっていた。気付かなければよかった。見なければよかった。意識しなければよかった。


 だが、もう遅い。シロクマを一度思い浮かべてしまったら、もう「考えない」ことはできない。


 スコトーマは剥がれ落ちてしまった。


 もう見えないふりはできない。


 考えるなと言われても、もう遅い。


『シロクマ』は、頭の中にいる。


 俺は布団に潜り込んだ。目を閉じた。耳を塞いだ。何も見ない。何も聞かない。そうすれば、きっと——


 ……何かが、部屋の中で動く気配がした。


 聞きたくないのに、聞こえない方が余程恐ろしくて、耳をそばだてて気配を探ってしまう。


 カサリ。カサリ。カサリ。


 誰かが這いずるような音。誰かが立ち上がるような音。誰かが——近づいてくる音。


「……これはクロが洋服タンスから降りてきておもちゃで遊んでる音!そうだ、あそこにあるのはただの洋服タンスで!クロはいつものかわいいクロで!さっき見えたものは違う!違う!目の錯覚!見間違えただけだ、見間違えただけだ!」


 目を閉じたまま、俺は震える声でそう繰り返す。


 見てはいけない。見たら終わりだ。見たら、もう——


「……見てもいいんですよ」


 耳元で、囁くような声。冷たい息が頬に触れる。


「私たちは、ずっとここにいましたから」


 俺は小さく悲鳴を上げてベッドから転がり落ちた。


 目を開ける。


 部屋は、変わっていた。


 いや、変わっていたのは部屋ではない。俺の『見方』が変わったのだ。スコトーマが解けた。フィルターが外れた。目の前の世界の、本当の姿が、今、初めて見えている。


 部屋の隅にあった『洋服タンス』は、最初から洋服タンスなどではなかった。

 それは、何本もの関節を器用に折り畳み、そこに佇む黒い肉塊だった。脳は俺を狂気から守るために、こいつを『観音開きの洋服タンス』という記号に翻訳し、俺の視界に投影していたに過ぎない。

 扉だった部位が完全に開き、中からたくさんの、赤い目のようなものがこちらを見ている。


 部屋の隅々に、彼らがいた。


 ベッドの下。ソファの背後。本棚の陰。窓のカーテンの皺の中。天井の角。床の隙間。——どこにでも。どこにでも、彼らはいた。そこにいるはずのない者がいても、我々は疑問に思わない。いや、思うことができない。——それが、彼らの原理だった。


 だが今、俺は見えている。全部、見えている。


 ベッドの下から、細長い腕が伸びていた。白い、紐のような指が、俺の足首に触れる。冷たい。湿った。生き物の肌のような感触——洋服タンスを触った時と、同じ感触。


 ソファの背後に立っていたものが、前に出てきた。観葉植物のような形をしている。表面に細かい凹凸がある。縦に長く、人の背丈くらい。側面に、何か……節のようなものが並んでいる。表面がゆっくりと波打っている。節だと思ったものは、瞬きをしていた。


 玄関にいたコート掛けが、這い出してきた。くすんだ灰色をした、細長い円柱状の物体だ。よく見ると、細い「脚」のようなものが、不自然な角度で何本も床に突き刺さっている。


 椅子の背もたれに掛けっぱなしにしていた黒い上着。だと思っていたものは、俺の上着ではなかった。そもそも俺はそんな上着を持っていない。

 それは、椅子に覆い被さるようにして、じっと丸まっていた「奴ら」の背中だった。


 それらはどれも、今までずっと視界に入っていたはずなのに、俺の脳が勝手に「洋服タンス」「ベッドの下に落ちているゴミ」「観葉植物」「コート掛け」「脱ぎ散らかした服」のような『無害な日常品』として処理していたらしい。だがもう駄目だ。シロクマを考えまいとすればするほど、白い毛並みがくっきりと浮かぶように、俺は奴らの輪郭を、質量を、吐き出す息の匂いさえも感じ取ってしまう。


「……ニャア」


 聞き慣れた、クロの鳴き声、のはずの『音』。だが、今の俺には、それが『クロの鳴き声』に聞こえなかった。クロの方が見れない。見たくない。現実を見たくない。しかし本能が「彼を確認すべきだ」と警鐘を鳴らす。


 ゆっくりと、クロのいる方を見る。


 ——そこにいたのは、『クロ』じゃなかった。


 俺は声も出せず、ベッドに飛び込み布団を被るとただ布団を握りしめた。


 俺の部屋には、ずっと前から、彼らがいた。俺が気付かなかっただけで。引っ越してきた初日から。いや、もしかしたら——引っ越す前から。ずっと。


 逃げ場はどこにもない。元々、ずっと一緒に暮らしていたのだから。


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