六日目—修復
今日は日曜日、待ちに待った休日だった。
だが、部屋に一人でいても、頭の中はスコトーマのことばかりで休まらない。窓の外を見ても、昨日見えた『層になった雲』の残像が脳裏にちらつき、自分の部屋さえどこか他人の場所のように感じられる。テレビをつけても内容は頭に入らず、ただ時間の経過をやり過ごすことしかできなかった。
昼過ぎ、テーブルの上に置いていたスマホが震えた。画面には、田中の名前が表示されている。
普段、休日に仕事の連絡以外でかかってくることなどない。俺は少し緊張しながら、通話ボタンを押した。
「……もしもし、田中か?」
『あっ、佐藤さん。急にすみません、今暇ですか?』
電話口の田中の声は、いつもより少し低く、どこか焦っているように聞こえた。
「ああ、大丈夫だ。何かあったのか?」
『……佐藤さん、昨日、あの動画……見ました?』
「……『すみませんでした』のやつか」
『そうっす。でも今朝見たら削除されてました。アーカイブも残ってない。俺、録画しとけばよかった』
「録画してどうするんだよ」
『確かめたかったんすよ。あれ、本当にあの人が撮ったのか、それとも——』
田中はそこで言葉を切り、深呼吸をする。スマホを握る手にじっとりと汗が滲んだ。
『佐藤さん、実は俺、あのポストのこと、もう見えなくなりました』
「……え?」
『見えないんです。ただの、錆びた郵便ポストにしか。赤い鉄の塊。でも、それが逆に怖くて。——「見えていた」ことの方が、本当だったんじゃないかって』
田中の声は、いつもの明るさが消えていた。代わりに、喉の奥に何かを押し込めているような、張り詰めた平然さがあった。
『俺、佐藤さんみたいに鋭くないんすよ。だから、まだ「見えてないふり」ができる。フィルター、半分だけ外したみたいな。でも佐藤さんは、もう全部外しちゃったんすね』
俺は答えなかった。答えられなかった。
『……今夜、佐藤さんの家に行ってもいいっすか?ビール持っていきますよ。一人でいると、なんか落ち着かなくて』
俺は断らなかった。一人でこの部屋の静寂に耐える自信が、今の俺にはなかったからだ。
***
夜になって、田中が家に来た。
「ビール、持ってきました。飲みましょうよ。二人で」
断る理由がなかった。田中はいつものように笑っていた。いつものように、明るく、少しうるさく。それに、少し救われる。
「わー、佐藤さんの家……あ、いや、なんでもないっす」
「散らかってるだろ。言いたかったら言えよ」
「いえ……あっ、猫飼ってるんすか?かわいいっすねー名前何ていうんすか?」
玄関で靴を脱ぎながら、田中が部屋の奥を見た。洋服タンスの上で丸まっていたクロが、珍しい客人に興味を示して降りてくる。
「ああ。クロっていうんだ。ここに引っ越してきたばっかの頃に拾ったんだよ」
「そうなんすかー触ってもいいっすか?」
田中がクロに手を伸ばすと、クロは一瞬だけ耳を後ろに倒した。
しかし数秒後、ゆっくりと近づき、田中の指先に鼻先をこすりつけた。
「あ、なついたっすね! かわいいー」
田中が撫でると、クロは目を細めて喉を鳴らした。
俺は少し安心した。
(よかった、クロはちゃんとクロのままだ……)
しかし、クロが田中から離れるとき、一度だけ、洋服タンスの方を見て、低く「ウー」と鳴いた。
田中はその声には気付かなかったようだった。
***
六畳のワンルームに二人の男がいると、いつも以上に狭く感じられた。
始めは、二人とも自然と本題を避けるように、仕事の愚痴や世間話、クロの話をしていた。
田中が持ってきた六缶パックのビールの一本目をほぼ二人同時に飲み干し、二本目を開けたタイミングで、田中が本題を切り出した。
「佐藤さん……黒瀬さん、言ってましたよね。『奴らは何もしていない。ただそこにいるだけ』って」
「ああ」
「だったら、見なきゃいいんじゃないすか。無視すればいい。だって、何もしてこないんなら」
「してこない……?」
俺はビールを一口飲んだ。喉を通る液体が、妙に生ぬるく感じた。
「田中。お前、電車で見たことないか?人の形をしたまま、瞬きもしない奴を」
「……見たくないっす」
「見たくない、か」
「見たら、もう戻れないんでしょ?スコトーマって、一度外したら元に戻せないんすよ。シロクマ、思い浮かべちゃったらもう——」
田中は自分の言葉に塞ぎ込んだように、黙ってビールを飲んだ。缶を握る指が、白くなっている。
「佐藤さん、俺、実はうちの近所の公園で、ベンチに座ってる人を見たんです。いつも朝からいる人なんすよ。お年寄りの、いつも同じ服着てる人。でも、ある日、いつもと違った。影が、二つあった。本人の影と、もう一つ、違う形の影が」
「……見たのか」
「見ちゃったんです。でも、無理やり目を逸らした。スマホの画面に集中した。必死で。——それからは、絶対にその人を見ないようにして。そうしたら、視界の端に移るその人の影が一つに戻ったんです。まだ、間に合うんす。見たことに、しないこと。認識したことに、しないこと」
田中の声は、震えていた。俺は初めて知った。こいつは、俺よりずっと怖がりで、ずっと必死で、ずっと『普通』を保とうとしている。
「佐藤さんも、無理やり戻した方がいいっすよ。今なら、まだ」
「どうやって戻るんだ」
「わかんないっす。でも、あれ以上見ないこと。ポストも、見ないこと。見慣れたものを、改めて見ないこと。脳に、『関係ない』って命令すること」
俺は、洋服タンスの方を見た。クロが、また、洋服タンスの方を見ていた。
「……無理だ」
「そうっすよね」
田中は、乾いた笑いを浮かべた。二人で、しばらく黙ってビールを飲んだ。缶が空く音が、部屋に響く。
***
21時を回った頃、田中が帰る支度をし始めた。
「今日はありがとうございました。佐藤さんと話せて、少し楽になったっす」
「ああ。……気を付けて帰れよ」
「はい。あ、そうだ」
玄関で靴を履きながら、田中が振り返った。いつもの、少し呆けたような笑いを浮かべた顔で。
「佐藤さん、俺思ったんですけど……たまに、時計の秒針の音が妙に気になって仕方ないときってあるじゃないですか。でもしばらくしたら元通り、気にならなくなってる。だから、大丈夫っすよ。今回も、時間が経てばきっと元に戻りますって」
「……ああ」
ドアが閉まる。足音が階段を降りていく。しばらくして、外で車が通る音。それから静寂。
俺は、空になったビール缶を片付けようとして、手を止めた。
——二つあった。
テーブルの上に、空き缶が二つ並んでいる。俺が飲んだのは、確かに二本。田中も二本。それで四本のはずなのに、テーブルの上には空き缶が二つしかない。
床に落ちてる?いや、ない。
頭が混乱する。数え直す。確かに、田中が持ってきたのは六缶パック。そこから、二本ずつ——
(いや、俺たち、それぞれ一本ずつ飲んだのか?じゃあ残りは?)
記憶が曖昧だ。いや、飲んだのは二本ずつのはずだ。合わせて四本。ならあと二本は?
冷蔵庫を開ける。中に、俺がストックしているのとは別の、未開封のビールの缶が二つ並んでいる。俺が入れた?それとも田中か?
(六本中四本空いたら、残りは二本。合ってる……残りの二つの空き缶はどこに行った?)
もう一度辺りを見回し、床に這いつくばってベッドの下を覗き込んだ。
二つの転がった空き缶を見付けてホッとしながら手を伸ばした。
「っていうかきったな!奥の方めっちゃ埃溜まってんじゃん……埃だけじゃなくて何かの切れ端とか何かの紐みたいなゴミもいっぱい落ちてる……クロがたまに潜り込むこともあるし掃除しないとな……」
俺は安堵の息を吐いた。駄目だ、疑心暗鬼で頭がおかしくなっている。少し落ち着こう。
風呂に入り、歯を磨き、布団に潜り込んだ。クロは、いつものように足元で丸まっていた。だが、洋服タンスの方を、まだ見ている。
「……クロ、もう寝ろ」
「ニャア」
短く鳴いて、クロは目を閉じた。
俺も目を閉じた。アルコールのせいか、それとも田中と話したことで気が晴れたのか、今夜は冷蔵庫の音が気にならなかった。




