表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選ばれなかった者たちの牙  作者: 孔雀丸


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

3/12

【第3話】殺された理由

「十彩獣団」第三話を読んでくださり、ありがとうございます。

今話は戦闘ゼロの、会話だけの一話です。

鬼が暴れる回より書くのが難しかった、と正直に言います。

殴り合いなら、身体の動きで感情を代わりに表現できる。でも教室で座ったまま話し合う十人は、言葉だけで全部を運ばないといけない。

坂口利久という一人の教師が殺された。

その事実を前に、十人がそれぞれ違う場所から声を出す回です。

「殺された側に原因があったのか」という問いを、この話で意図的に開いたままにしています。答えを出すのは読者のみなさんです。ただ、歩美の「そこを曖昧にしたら、次に傷つく人まで見えなくなる」という言葉だけは、この作品の立場だと思っています。

重たい話ですが、最後まで読んでいただけたら嬉しいです。

 ぱき、と。

 廊下の板が鳴った。

 その乾いた音だけが、教室の空気から浮き上がっていた。

 五月最後の月曜日。

 恐竜の鬼が校舎を壊してから、十日が経っていた。

 授業は再開された。

 机も椅子も元に戻され、教師たちは「もう大丈夫だ」と言った。

 校内放送も、チャイムも、黒板に書かれる日付も、何もかも以前と同じ顔をしている。

 けれど慎悟には、それが薄い幕にしか見えなかった。

 東側の壁には補修材のまだらな跡。

 張り替えられた窓だけが妙に明るくて、かえって壊れた輪郭を目立たせている。

 廊下の一角は、まだ仮板のままだ。

 誰かがそこを踏むたび、ぱき、と鳴る。

 日常は戻ったんじゃない。

 壊れたものの上に、白い布を被せただけだ。


 昼休み。

 一年一組の教室には、半分ほどしか生徒が残っていなかった。

 なのに空気は、朝より重い。

 南海と友紀が窓際で机を寄せた。

 蓮が缶飲料を片手に戻り、翼がノートを閉じる。

 翔一はパンをくわえたまま近づき、健太は無言で席につく。

 歩美が静かに輪へ入り、綾実と伊織も遅れて腰を下ろした。

 誰かが呼んだわけじゃない。

 それでも、全員ここにいた。

 慎悟はその輪の、外でも内でもない場所に立っていた。

 軽口を叩く顔は、一人もいなかった。

 最初に口を開いたのは、翔一だった。

「……坂口先生の件、聞いたか」

 その一言で、教室の真ん中に見ないふりをしていたものが落ちた。

 坂口利久(さかぐちとしひさ)

 南中の体育教師。女子テニス部顧問。

 知っている顔だった。

 ただそれだけのはずなのに、殺されたと聞いた瞬間、窓から差す光が急に冷たく見えた。

 慎悟は輪の中の顔を見た。

 翔一の声が重い理由はわかる。

 けれど、それだけじゃない。

 話題が出た瞬間、南海と友紀の肩がかすかに強張った。

 これは、教師が死んだ話じゃない。

 たぶん——

 見ていたのに、何もしなかった側の話だ。


「犯人の目星は」

 歩美が訊いた。

 小さな声だった。

 それでも、その一言はよく研いだ刃みたいに教室へ落ちた。

「ニュースじゃ、まだ捜査中」

 友紀が短く答える。

「遺体の状況が妙なんだよ」

 蓮が缶を机に置いた。

 こつ、と硬い音がした。

「刃物でやられた痕はある。でも傷の角度が変だ。現場も綺麗すぎる。第三者の痕跡が少なすぎるし、血痕の散り方も噛み合わない」

「綺麗すぎる?」

 伊織が問う。

 蓮は少しだけ目を伏せた。

「人間が人間を殺したにしては、整いすぎてる。なのに、一撃だけが異様だ。そこだけ、怒りが剥き出しになってる」

 翔一が眉をひそめる。

「鬼、ってことか」

「断言はしない」

 翼が答えた。

「だが、衝動ではない。誰でもよかった殺し方じゃない。坂口利久を、選んでいる」

「選んだってことか」

 健太の低い声に、翼がうなずく。

 窓の外では別のクラスが笑っていた。

 グラウンドからは運動部の声。

 五月の陽射しは明るく、床に四角い光を落としている。

 その明るさだけが、この教室には似合わなかった。

 やがて翔一が、ぽつりと言った。

「坂口先生、南中じゃ有名だったんだよ。いい意味じゃなくて」

「どういう意味」

 歩美の視線を受けて、翔一は奥歯を噛んだ。

「授業は普通。でも部活になると別人みたいだったって。負けたら終わりみたいに怒鳴るし、辞めた女子も何人かいたらしい」

「厳しい顧問、で済む話じゃないね」

 伊織の声は静かだった。

 翔一は首を振る。

「もっとひどい。逃げ場がない感じだ」

 その瞬間、南海の指先が膝の上で小さく震えた。

 慎悟は見逃さなかった。

 ただ怖い教師の話じゃない。

 記憶の奥に押し込めたものが、今、肉体に戻ってきている震えだった。


「"怖い"で片づけていい話なの」

 綾実が言った。

 感情の薄い声だった。

 けれど冷たいわけではない。

 曖昧にするな、と言っていた。

 翔一は息を詰め、それから話した。

「人格否定レベルだよ。試合のあとにコートの前で怒鳴る。ミスした子をみんなの前で詰める。泣いても止めない。逃げようとしたら、余計に追い込む」

「指導じゃない」

 伊織が言う。

「暴力だ」

「……俺もそう思う」

 南海は黙っていた。

 組んだ手の内側に汗が滲む。

 袖をつまんでいることに、自分でも気づいていない。

 友紀も黙っていた。

 窓の外を見ている。

 けれど本当に見ているのは今じゃない。

 もっと暑くて、逃げ場のない、あの夏のコートだ。

 翔一が二人の沈黙に気づいた。

「南海と友紀、何か知ってるのか」

 友紀はゆっくり振り向いた。

 笑っていない。

 泣いてもいない。

 ただ、古傷に指を置く前みたいな顔をしていた。

「見たことがある」

 空気が張る。

「中二の夏の試合。あたしと南海の相手が南中だった。試合のあと、坂口先生が部員を呼びつけて怒鳴ってた」

「どんなふうに」

 蓮の問いに、友紀は一度だけ息を止めた。

「技術の話じゃなかった」

 それだけで重かった。

「ミスがどうとかじゃない。人として駄目だとか、お前に価値はないとか……そう言ってるのと同じだった」

 教室の温度が落ちる。

 焼けたコート。

 白線の上で揺れる熱気。

 金網の向こうの蝉の声。

 遠くで鳴るホイッスル。

 その全部を押し潰すみたいに、男の怒鳴り声だけが残っていた。

 南海は視線を落としたまま口を開く。

「あたしも、見てた」

 喉が震えた。

「その子、ずっと下向いてて……ラケット握った手、真っ白で。泣いてるのに、声だけは我慢してて。あたし、見てたのに……動けなかった」

 そこで言葉が切れた。

 あの日、自分の足は本当に地面へ縫いつけられていた。

 止めなきゃと思った。

 でも身体が前に出なかった。

 怖かったのだ。

 坂口が。

 あの怒鳴り声が。

 あの場にいる全員が黙っていることが。

 もし割って入れば、次は自分が標的になるとわかってしまったことが。

「……最低だよね」

 南海はかすれた声で言った。

「見てたのに、何もできなかった」

 友紀はすぐに否定しなかった。

 ただ、南海を見た。

 その沈黙の長さが、言葉より優しかった。

 慎悟は浅く息を吸う。

 誰かが傷つく場面を見たことがある。

 それでも手を伸ばせなかったことがある。

 たぶんそれは、ここにいる誰か一人だけの話じゃない。

 坂口が殺された理由を考えることは、

 自分たちがあの日、何者だったのかを考えることでもある。


「じゃあ」

 翔一が低く言った。

「そういう先生が、殺されたってことか」

 蓮が事実だけを並べる。

「坂口利久は、生前、生徒に精神的な暴力を続けていた可能性が高い。そして今、殺された」

 翼が続けた。

「因果関係を疑うのは自然だ。被害者を完全な無垢としては扱えない」

「待って」

 歩美の声で、全員がそちらを向く。

「それ、殺された側に原因があったって言ってるのと、どこが違うの」

「同じじゃない」

 蓮が答える。

「理由を考えることと、正当化することは別だ」

「別に聞こえない時もあるよ」

 歩美は引かなかった。

「傷ついた側には、とくに」

 短い沈黙が落ちた。

 歩美は続ける。

「どんな理由があっても、殺すことだけは駄目だよ。そこを曖昧にしたら、次に傷つく人まで見えなくなる」

 翼が口を開いた。

「だが、何が人をそこまで追い詰めたかを見なければ、止められない」

「だからって」

 歩美が言う。

「"仕方なかった"に寄っていくなら、同じだよ」

 机の端を、翔一が指でとんと叩く。

「俺が気になるのは、そこじゃねえ」

 顔を上げる。

「そんな教師だったとして。傷ついた生徒がいたとして。じゃあ、誰が止めたんだよ。学校は。親は。他の教師は」

「止めていない」

 翼が即答した。

「そこが一番おかしい」

「だろ」

 翔一の声が少し荒くなる。

「助けてくれって、誰に言えばよかったんだよ」

 誰も答えられなかった。

 答えがないことが、答えみたいだった。

 そこで初めて、健太が口を開いた。

「……助けを求める先がないってのは、わかる」

 押し殺した声だった。

 それでも重かった。

「力で押さえる側に、力のない側は勝てない。訴える先もない。逃げ場もない。そういうのが積もると、どっかで壊れる」

「経験あるの」

 歩美がそっと訊く。

「やられた側じゃない」

 健太は言った。

「見てた側だ。俺みたいなのは、周りから"お前が止めろ"って目で見られる。でも出たら出たで、それも別の暴力になる。黙ってても駄目、前に出ても駄目。ずっと、どうしろって思ってた」

 その言葉は、南海の胸にも重く落ちた。

 見ていただけの痛み。

 何もできなかった側の罪悪感。

 綾実がカードの縁を指でなぞる。

 ぴたり、とその指が止まった。

「昨日、一枚引いた」

 全員が綾実を見る。

「この件を考えながら引いて、出たのは"塔"」

「崩壊のカードだろ」

 翔一が言う。

「そう。外からの衝撃で、一気に壊れる」

 綾実は淡々と続けた。

「でも、壊れたあとにしか見えないものもある。崩れたから終わる嘘もある」

 伊織が背筋を伸ばした。

「もし鬼が関わっているなら、これはただの殺人じゃない」

「無差別でもない」

 翼が言う。

「坂口利久を狙っている。選んでいる」

 選ぶ。

 その言葉が、南海の胸で引っかかった。

 友紀と目が合う。

 焼けたコート。

 うつむいた部員。

 謝っているのに終わらない叱責。

 唇を噛んでいた美和。

 目を伏せたまま立っていた遥。

 忘れられないんじゃない。

 刺さったまま、抜けないのだ。

「もし」

 南海は小さく言った。

「もし、あの子たちの中の誰かが、ずっとあのままだったら」

 誰も急かさなかった。

 それは推理じゃない。

 ようやく形になった恐怖だった。


「もし、殺された理由が本当に坂口先生のしたことにあるなら」

 南海は今度ははっきり言った。

「あたしたち、あの場で何かできたのかな」

「できなかった」

 友紀が即答した。

 刃みたいに迷いがなかった。

「でも——」

「できなかった。それが事実」

 友紀は南海をまっすぐ見た。

「後悔していい。忘れなくていい。でも、あのときの自分を責め続けても前には進まない」

 南海の喉が詰まる。

 友紀は続けた。

「許せない記憶は、そのままでいい。だったら、次に使えばいい」

 その一言で、南海の胸の痛みが少しだけ形を持った。

 逃げたいだけの痛みじゃなくなる。

 置いていかれるだけの傷じゃなくなる。

「じゃあ、何する」

 翔一が言った。

「具体的に」

「まずは情報」

 蓮が答える。

「事件の詳細。鬼との関連。坂口の過去。接点があった生徒。切り離して考えるのは無理だ」

「教師側の記録は当てにならないかもしれない」

 翼が言う。

「当たるなら生徒側だ」

「でも、それ」

 歩美が視線を落とす。

「傷をもう一回開くことになるかもしれないよ」

「それでも」

 伊織の声は静かだった。

「何も知らないままでいる方が無責任だ」

 健太が短くうなずく。

「止めるなら、ちゃんと知るしかねえ」

 綾実は窓の外を見たまま言った。

「もう始まってるんだと思う」

 誰に向けたとも知れない声だった。

「誰かの怒りが、もう人を殺した。なら次は、その怒りに名前を与える奴が出る」

 慎悟は、その言葉で顔を上げた。

 怒りに名前を与える。

 それは救いに似ている。

 お前は悪くない、と囁く声。

 悪いのは世界だと、やさしい顔で言ってくる声。

 もしそんな声が、行き場を失った誰かのそばに立ったなら。

 それは本当に救いなのか。

 慎悟は気づく。

 選べる人間だけが、選択を語れる。

 追い詰められた人間には、最初から道が一つに見えることがある。

 けれど——

 その一つしか見えない道を、誰かが用意していたのだとしたら。


 慎悟は一歩、前へ出た。

 輪の外でも内でもない場所から、はっきりと中心へ。

 全員の視線が集まる。

 綺麗な答えじゃない。

 たぶん正解でもない。

 でも、このまま黙っていたら、自分たちはまた"知っていただけの側"に戻る。

 それだけは嫌だった。

「知らなかったで終わらせるな」

 教室の空気が止まる。

「坂口が何をしてきたのか。誰が傷ついたのか。誰が怒りを抱えたまま置き去りにされたのか。そこまで見て、それでも俺たちは決める」

 誰も動かなかった。

 慎悟は続ける。

「壊すしかないなら、それは道じゃない」

 短く言い切る。

「次は、俺たちが止める」

 それだけだった。

 けれど十分だった。

 健太がうなずく。

 翔一が拳を握る。

 歩美の目に、かすかな強さが戻る。

 蓮は何も言わない。だが、その沈黙はもう迷いじゃない。

 翼はまっすぐ前を見た。

 伊織は背筋を伸ばし、綾実は静かにカードを伏せる。

 友紀は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 そのとき、始業のチャイムが鳴った。


 いつもなら、そこで昼休みは終わる。

 机を戻し、教科書を開き、"何事もなかった今日"が再開する。

 でも今だけは、誰一人すぐに動けなかった。

 南海は窓の外を見た。

 五月の空は、痛いほど青い。

 その下で、補修跡だけがひどく白く浮いている。

 坂口利久は死んだ。

 その事実はもう変わらない。

 けれど、誰かの痛みが刃に変わったのだとしたら。

 その誰かは、まだどこかにいる。

 あの日のコートで下を向いていた誰かかもしれない。

 助けを求めても届かなかった誰かかもしれない。

 あるいは、別の場所で同じように追い詰められていた誰かかもしれない。

 もう、知らなかったでは済まされない。

 南海はそっと目を閉じた。

 動けなかった自分も。

 見ていただけの自分も。

 全部きれいに置いていけるほど、器用じゃない。

 でも、それでいい。

 消えないなら、連れていくしかない。

 傷のままじゃなく、次に手を伸ばすための重さとして。

 目を開ける。

 この事件の先に何があるのか。

 怒りを抱えた人間に、誰がどんな言葉を渡したのか。

 そして、自分たちがそれにどう立つのか。

 今度は、自分の目で見届ける。

 そう決めた瞬間、教室の景色がほんの少しだけ変わった。

 壊れたままの学校。

 補修跡の残る壁。

 乾いた音の鳴る廊下。

 偽物みたいだった日常の中に、たしかにひとつだけ本物が生まれていた。

 南海はその意志を抱くように、静かに席を立った。

読んでくださり、ありがとうございました。

南海の「見てたのに、何もできなかった」という言葉が、この話の核心です。

誰かが傷つく場面を目の前にして、それでも足が出なかった経験は、多くの人が持っているはずだと思いながら書きました。臆病だったんじゃなく、怖かった。そしてその怖さは、あとになって罪悪感の形に変わる。

南海はずっとその重さを抱えていた。

友紀の「できなかった。それが事実」という返しは、免罪でも断罪でもないつもりです。ただ地面に足をつける、それだけの言葉として書いています。

健太が「やられた側じゃない、見てた側だ」と話す場面も、個人的に大事にした一節です。彼の重さは種類が違う。でも、同じくらい本物です。

今話で名前だけ出てきた「美和」と「遥」、そして坂口に傷ついたその他の誰かは、今後の物語に関わってきます。覚えておいていただけると、後の話が少し違って見えると思います。

次話は、新たな犠牲者が発生する話です。

また次の話でお会いできますように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ