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選ばれなかった者たちの牙  作者: 孔雀丸


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2/12

第2話 あの夏の敗者

坪江南海は、やさしすぎる。

誰かが痛がっている顔を見た瞬間、

それを自分の外に置いておけない。

それは美徳だ。

でも戦場では、弱点になる。

今回は、南海の話です。

 一

 坂口利久(さかぐちとしひさ)が殺された。

 そのニュースが画面の中にある。

 文字は読める。意味も分かる。

 なのに、現実として受け入れることができなかった。

 坪江南海(つぼえみなみ)は、スマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。

 指先が冷える。

 口の中が乾く。

 心臓だけがやけに大きく鳴り続けている。

 ――福江市立福江南中学校教師・坂口利久、殺害。

 その名前が目に入った瞬間、眠っていたものが一気に引きずり出された。

 炎天下のコート。

 白球の音。

 逃げ場を失った二人の背中。

 そして、あの低い声。

 これは、ただの事件じゃない。

 そう思ってしまった時点で、もう無関係ではいられなかった。


 二

 三十分前まで、南海は夢の中にいた。

 あの夏のコートだった。

 足裏に焼けた地面の熱。

 白線の眩しさ。

 汗に混じるライン剤の匂い。

 ラケットがボールを叩く、乾いた音。

 隣には友紀(ゆき)がいた。

 一歩。

 半歩。

 視線。

 呼吸。

 何も言わなくても噛み合った。

 次にどこへ走るか、体のほうが先に知っていた。

 試合は勝った。

 最後の一点が決まった瞬間、胸の奥まで夏が差し込んだ気がした。

 ――なのに。

 夢は、いつもそこから壊れる。

 コートの端に、坂口利久が立っていた。

 短く刈り上げた黒髪。

 日に焼けた顔。

 怒鳴りもしないのに、空気だけが重くなる声。

 坂口が、対戦相手の美和(みわ)(はるか)を呼んだ。

 二人がコートの端へ歩いていく。

 その時点で、もう分かっていた。

 始まる。

「なんで負ける」

「反省してるのか」

「顔に出てないぞ」

 一言ごとに、空気が削れていく。

 指導じゃない。

 叱責でもない。

 あれは、人を小さくするための声だった。

 美和は唇を噛んでいた。

 遥は俯いていた。

 周りはみんな見ていた。

 誰も止めなかった。

 南海も、その中にいた。

 助けなきゃいけない。

 そう思った。

 でも、動けなかった。

 迷った。

 その一秒ごとに、二人は削られていった。

 隣で友紀が息を呑む。

 一度だけ、目が合った。

 その目には怒りがあった。

 でも同時に、計算もあった。

 ここで踏み込んで、どうする。

 何ができる。

 友紀は、先へ進むために考えられる。

 南海は違った。

 見てしまう。

 受け取ってしまう。

 誰かが痛がっている顔を見た瞬間、

 それを自分の外に置いておけない。

 坂口が最後に吐いた言葉だけは、今も夢の底に沈まない。

「弱い者は、価値がない」

 本当にそう言ったのかは、もう分からない。

 でも南海の中では、ずっとその声のままだった。


 三

「お姉ちゃん、朝だよ!」

 明るい声が、夢を裂いた。

 南海は目を開ける。

 白い天井。

 カーテンの隙間から差す朝の光。

 見慣れた部屋。

「ワンッ!」

 扉が開き、赤い影が飛び込んでくる。

 コタだった。前足をベッドにかけ、ひんやりした鼻先を南海の頬に押しつける。

「……コタ」

 掠れた声で呼ぶと、コタはもう一度まっすぐに鳴いた。

 その声は、あまりにも無垢だった。

 今日が悪い日になるなんて、少しも疑っていない声だった。

 扉の向こうで、妹の(なぎさ)が笑う。

「起きた? ご飯できてるよ」

「……うん。今、行く」

 渚は安心したように頷いて、軽い足音で廊下へ戻っていく。

 コタもそのあとを追う。

 残された部屋で、南海だけがしばらく動けなかった。

 胸の奥に、まだ夢が残っている。

 なんで今さら、と思う。

 もう終わったことだ。

 高校に入って、友紀とも一緒にいて、前に進んでいるはずなのに。

 なのに忘れたふりをするたびに、夢は同じ場所まで戻ってくる。

 南海は袖口を強く握った。

 指先が白くなるほどに。


 四

 食卓には味噌汁の湯気が立っていた。

 渚はもう席についていた。

 コタは床に伏せたまま、尻尾だけで機嫌を伝えている。

「お姉ちゃん、顔色悪い」

 箸を止めた渚が言う。

「悪い夢、見た」

「どんな夢?」

「中学のテニスの試合」

「勝ったの?」

 南海は、一拍だけ黙った。

「……勝ったよ」

 渚は不思議そうに首を傾げる。

「じゃあ、悪い夢じゃないじゃん」

 南海は少しだけ笑って、うまく笑えなかった。

 そうだ。

 本当に勝っただけなら、悪い夢のはずがない。

 でも自分の中では、ずっと終わっていない。

 食事を終え、自室に戻る。

 窓の外は穏やかな五月の朝だった。

 スマートフォンを手に取ったのは、ただの習慣だった。

 通知が一件。

 何気なく開いて、南海は息を止めた。

 ――福江市立福江南中学校教師・坂口利久、殺害。

「……え」

 喉から漏れたのは、声にならない息だけだった。

 坂口利久。

 その名前で、夢の中の景色が一気に引きずり出される。

 炎天下。

 白球の音。

 あの低い声。

 誰も止めなかった空気。

 胸の奥で、何かが沈んだ。

 これは、ただの事件じゃない。

 そう思ってしまった時点で、もう無関係ではいられなかった。


 五

 誰に連絡するかなんて、考えるまでもなかった。

 友紀。

 指が震えて、最初の文字を打つのに時間がかかった。

『坂口先生のニュース、見た?』

 送信した直後、浅く息を吐く。

 既読がついたのは数分後だった。

『見た』

 短い返事。

 でも、その短さが逆に友紀らしかった。

 南海は画面を見つめたまま、次の言葉を打てずにいた。

 何を言えばいいのか分からない。

 その間に、友紀から新しいメッセージが届く。

『たぶん、これで終わらない』

 続けて、もう一通。

『放っておいたら駄目な気がする』

 その一文が、南海の胸の奥に真っ直ぐ落ちた。

 あの時、止められなかった。

 見ていただけだった。

 曖昧な線の前で迷って、誰かの痛みを見送った。

 画面の向こうの友紀も、同じ夏を覚えている。

 南海はようやく打ち返す。

『……私もそう思う』

 既読はすぐについた。

『今日、会おう』

 少し間を置いて、もう一通。

『たぶん私たち、もう無関係じゃない』

 南海はその文字を、長く見つめた。

 もう無関係じゃない。

 それは怖い言葉だった。

 でも同時に、逃げ道を塞いでくれる言葉でもあった。


 六

 机の引き出しを、南海はゆっくり開けた。

 一番奥。

 見ないようにしていたものがある。

 中学時代の大会写真。

 南海と友紀。

 笑っている。

 勝った直後の顔だった。

 その脇に、古い名札。

 擦れて薄くなった学校名。

 指先で触れる。

 胸が少しだけ痛む。

 勝った。

 でも、あの夏は終わらなかった。

 助けられなかった。

 止められなかった。

 見ていただけだった。

 その事実は変わらない。

 変えられるのは、ここから先だけだ。

 南海は写真を見つめたまま、静かに息を吸った。

 守る、なんて綺麗な言葉は、まだ口にできない。

 あの時の自分を知っているからだ。

 それでも。

 もう、見ているだけではいたくなかった。

 スマートフォンが小さく震える。

 友紀から、待ち合わせの場所が送られてくる。

 南海は画面を閉じた。

 写真を引き出しに戻し、今度は奥にしまわなかった。

 過去が、ようやく現在に追いついてきたような気がした。

 逃げなかったことにできるかどうかは、

 これから自分が何をするかで決まる。

 南海は立ち上がる。

 そして、心の奥ではっきりと言葉にした。

 ――今度は、逃げない。

「弱い者は、価値がない」

坂口利久が本当にそう言ったのか、南海には確かめる術がない。

でも彼女の中では、ずっとその声のままだった。

そういう傷の書き方が、自分は好きです。

次回もお楽しみに。

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