第2話 あの夏の敗者
坪江南海は、やさしすぎる。
誰かが痛がっている顔を見た瞬間、
それを自分の外に置いておけない。
それは美徳だ。
でも戦場では、弱点になる。
今回は、南海の話です。
一
坂口利久が殺された。
そのニュースが画面の中にある。
文字は読める。意味も分かる。
なのに、現実として受け入れることができなかった。
坪江南海は、スマートフォンを握ったまま、しばらく動けなかった。
指先が冷える。
口の中が乾く。
心臓だけがやけに大きく鳴り続けている。
――福江市立福江南中学校教師・坂口利久、殺害。
その名前が目に入った瞬間、眠っていたものが一気に引きずり出された。
炎天下のコート。
白球の音。
逃げ場を失った二人の背中。
そして、あの低い声。
これは、ただの事件じゃない。
そう思ってしまった時点で、もう無関係ではいられなかった。
二
三十分前まで、南海は夢の中にいた。
あの夏のコートだった。
足裏に焼けた地面の熱。
白線の眩しさ。
汗に混じるライン剤の匂い。
ラケットがボールを叩く、乾いた音。
隣には友紀がいた。
一歩。
半歩。
視線。
呼吸。
何も言わなくても噛み合った。
次にどこへ走るか、体のほうが先に知っていた。
試合は勝った。
最後の一点が決まった瞬間、胸の奥まで夏が差し込んだ気がした。
――なのに。
夢は、いつもそこから壊れる。
コートの端に、坂口利久が立っていた。
短く刈り上げた黒髪。
日に焼けた顔。
怒鳴りもしないのに、空気だけが重くなる声。
坂口が、対戦相手の美和と遥を呼んだ。
二人がコートの端へ歩いていく。
その時点で、もう分かっていた。
始まる。
「なんで負ける」
「反省してるのか」
「顔に出てないぞ」
一言ごとに、空気が削れていく。
指導じゃない。
叱責でもない。
あれは、人を小さくするための声だった。
美和は唇を噛んでいた。
遥は俯いていた。
周りはみんな見ていた。
誰も止めなかった。
南海も、その中にいた。
助けなきゃいけない。
そう思った。
でも、動けなかった。
迷った。
その一秒ごとに、二人は削られていった。
隣で友紀が息を呑む。
一度だけ、目が合った。
その目には怒りがあった。
でも同時に、計算もあった。
ここで踏み込んで、どうする。
何ができる。
友紀は、先へ進むために考えられる。
南海は違った。
見てしまう。
受け取ってしまう。
誰かが痛がっている顔を見た瞬間、
それを自分の外に置いておけない。
坂口が最後に吐いた言葉だけは、今も夢の底に沈まない。
「弱い者は、価値がない」
本当にそう言ったのかは、もう分からない。
でも南海の中では、ずっとその声のままだった。
三
「お姉ちゃん、朝だよ!」
明るい声が、夢を裂いた。
南海は目を開ける。
白い天井。
カーテンの隙間から差す朝の光。
見慣れた部屋。
「ワンッ!」
扉が開き、赤い影が飛び込んでくる。
コタだった。前足をベッドにかけ、ひんやりした鼻先を南海の頬に押しつける。
「……コタ」
掠れた声で呼ぶと、コタはもう一度まっすぐに鳴いた。
その声は、あまりにも無垢だった。
今日が悪い日になるなんて、少しも疑っていない声だった。
扉の向こうで、妹の渚が笑う。
「起きた? ご飯できてるよ」
「……うん。今、行く」
渚は安心したように頷いて、軽い足音で廊下へ戻っていく。
コタもそのあとを追う。
残された部屋で、南海だけがしばらく動けなかった。
胸の奥に、まだ夢が残っている。
なんで今さら、と思う。
もう終わったことだ。
高校に入って、友紀とも一緒にいて、前に進んでいるはずなのに。
なのに忘れたふりをするたびに、夢は同じ場所まで戻ってくる。
南海は袖口を強く握った。
指先が白くなるほどに。
四
食卓には味噌汁の湯気が立っていた。
渚はもう席についていた。
コタは床に伏せたまま、尻尾だけで機嫌を伝えている。
「お姉ちゃん、顔色悪い」
箸を止めた渚が言う。
「悪い夢、見た」
「どんな夢?」
「中学のテニスの試合」
「勝ったの?」
南海は、一拍だけ黙った。
「……勝ったよ」
渚は不思議そうに首を傾げる。
「じゃあ、悪い夢じゃないじゃん」
南海は少しだけ笑って、うまく笑えなかった。
そうだ。
本当に勝っただけなら、悪い夢のはずがない。
でも自分の中では、ずっと終わっていない。
食事を終え、自室に戻る。
窓の外は穏やかな五月の朝だった。
スマートフォンを手に取ったのは、ただの習慣だった。
通知が一件。
何気なく開いて、南海は息を止めた。
――福江市立福江南中学校教師・坂口利久、殺害。
「……え」
喉から漏れたのは、声にならない息だけだった。
坂口利久。
その名前で、夢の中の景色が一気に引きずり出される。
炎天下。
白球の音。
あの低い声。
誰も止めなかった空気。
胸の奥で、何かが沈んだ。
これは、ただの事件じゃない。
そう思ってしまった時点で、もう無関係ではいられなかった。
五
誰に連絡するかなんて、考えるまでもなかった。
友紀。
指が震えて、最初の文字を打つのに時間がかかった。
『坂口先生のニュース、見た?』
送信した直後、浅く息を吐く。
既読がついたのは数分後だった。
『見た』
短い返事。
でも、その短さが逆に友紀らしかった。
南海は画面を見つめたまま、次の言葉を打てずにいた。
何を言えばいいのか分からない。
その間に、友紀から新しいメッセージが届く。
『たぶん、これで終わらない』
続けて、もう一通。
『放っておいたら駄目な気がする』
その一文が、南海の胸の奥に真っ直ぐ落ちた。
あの時、止められなかった。
見ていただけだった。
曖昧な線の前で迷って、誰かの痛みを見送った。
画面の向こうの友紀も、同じ夏を覚えている。
南海はようやく打ち返す。
『……私もそう思う』
既読はすぐについた。
『今日、会おう』
少し間を置いて、もう一通。
『たぶん私たち、もう無関係じゃない』
南海はその文字を、長く見つめた。
もう無関係じゃない。
それは怖い言葉だった。
でも同時に、逃げ道を塞いでくれる言葉でもあった。
六
机の引き出しを、南海はゆっくり開けた。
一番奥。
見ないようにしていたものがある。
中学時代の大会写真。
南海と友紀。
笑っている。
勝った直後の顔だった。
その脇に、古い名札。
擦れて薄くなった学校名。
指先で触れる。
胸が少しだけ痛む。
勝った。
でも、あの夏は終わらなかった。
助けられなかった。
止められなかった。
見ていただけだった。
その事実は変わらない。
変えられるのは、ここから先だけだ。
南海は写真を見つめたまま、静かに息を吸った。
守る、なんて綺麗な言葉は、まだ口にできない。
あの時の自分を知っているからだ。
それでも。
もう、見ているだけではいたくなかった。
スマートフォンが小さく震える。
友紀から、待ち合わせの場所が送られてくる。
南海は画面を閉じた。
写真を引き出しに戻し、今度は奥にしまわなかった。
過去が、ようやく現在に追いついてきたような気がした。
逃げなかったことにできるかどうかは、
これから自分が何をするかで決まる。
南海は立ち上がる。
そして、心の奥ではっきりと言葉にした。
――今度は、逃げない。
「弱い者は、価値がない」
坂口利久が本当にそう言ったのか、南海には確かめる術がない。
でも彼女の中では、ずっとその声のままだった。
そういう傷の書き方が、自分は好きです。
次回もお楽しみに。




