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第五話 忘れた名前 

「へぇ、合気道部ね。あんたの事だからどうせ、エロゲ同好会かパソコン部だと思ってた」


 風呂上がり、モフモフのパジャマに身を包んだ東雲はアイスを食べている。タブレットで最近流行ってるという何が面白いのか1ミリも理解出来ない恋愛リアリティーショーを見ながらだ。


「エロゲを馬鹿にするな。少なくとも今お前が見ている奴よりは面白い」


「別に馬鹿にしてないよ。ただ、あんたって武道やるキャラ? もっと陰湿な、男しかいないジメーっとした所で、よく分からない物をコソコソ作ってるイメージだったから」


 今朝、部活の意義についてエレベーター前で言い争って以来、彼女の僕に対する風当たりはやたらと強くなった気がする。遠回しではなく、純粋に罵倒してくるのだ。


「....」


「あぁキモいキモい。雑魚の思考回路は理解出来ないわぁ..。けど変に力付けないでよね。穏やかじゃないチー牛とか何するか分からなくて、ガチで一番怖いから」


「別に暴力振いたくて合気道選んだわけじゃないよ..。第一、合気道ってそういうのじゃないし....」


「ふーん....」


 あまり興味なさそうに頷くと、東雲未来はタブレットの画面に向き直った。


「まぁ、少なくとも勉強漬けになるよりかはマシなんじゃない?」


 そうやって、ほぼ独り言のように呟く。僕もお風呂に入ろうと思ったので、部屋の外に出ようとした時だった。


「浴槽の水、飲まないでね」


「お前な。僕の頭はそこまで性欲に支配されてねーよ」


「....? 水分補給は近くのウォーターサーバーを使ってくださいって意図だったんだけど。だって、お風呂入ると喉渇くでしょ。それとも何か、別の妄想をしていたのかな〜?」


「..。違う、誰が好き好んでーー」


 と言いかけてやめた。これではまた喧嘩になりそうだし、入浴前に嫌な気分になるのは避けたかった。


「ふふ。まぁ炭酸入浴剤入れてあるから、飲めないっていうのが正解なんだけどね。じゃ、ごゆっくり〜」


「....」


 腹が立つ女だ。また此方の逞しい想像力につけ込んで煽ってくる。しかし、元来風呂好きな自分としては炭酸風呂にしてくれるだけで随分ありがたい。身体が芯まで温まる。


「ふぅ....」



「良い風呂だった。ゆっくり出来たよ、ありがとう..」


「ん、それは良かった」


 夜風が涼しい。東雲未来は相変わらずタブレット端末で何かの動画を見ていたが、今度は有線のイヤホンに繋がれていたため肝心の音声を聞き取る事は出来なかった。


「ね。これは単純な疑問だから、別に聞き流してくれても構わないんだけどさ」


「なんだ?」


「私ね..。あんたの両親、正直ちょっとおかしいと思うの。いきなり株で大失敗して、それであんたのお母さんは 愛想尽かして実家に戻ったらしいけど、要するにあんたを置いて一人で出て行ったんでしょ?」


「まぁ、ね..」


「別に私は君の家族を否定したいわけじゃないんだよ。でもさ、考えても理解出来ないんだよ。私の母さんは、ずっと女手一つでここまで育ててくれたから..」


「うん。遥香さんが良い人だっていう事は僕も知ってる」


「......勿論。それで今は、あんたのお母さんでもあるのよ」


「はは..。やめろよ。今そういう事言われたら、多分泣くと思う」


 自分が家族に捨てられたという自覚。父はともかくとして、母の実家からも引き取って貰えず、こうして赤の他人の家の世話になっているという現実。


「ふふ。君は本当に涙脆いね? ざぁこ」


 次の瞬間、僕の身体は仰向けに倒された。頭の下に熱を帯びた柔らかい物体があり、視界には東雲未来の胸下と顔全体が写っている。これは膝枕をされているのだと気付くのに時間はかからなかった。


「顔赤くなってるし、息も荒くなってる。女子にこういう事されるの、初めてなんだぁ」


「まぁね....」


 なんとか平静を取り繕うとしても、彼女が煽るたびに興奮の熱が冷めなかった。


「髪、クルクルだね。湿ってるし、ちゃんとドライヤーあててる? 自然に乾かそうとか思ってるでしょ。今日で終わりにして。明日からは、私のヘアーオイルも貸してあげるから」


「さ、触らないで..」


「ニキビ多いねぇ。洗顔とかしてないでしょ? 朝と夜の2回、泡で皮脂を落として、美容液と美容クリームを塗る。これで改善されていくとは思うよ」


 彼女の手が、僕の顔をなぞる。貼り付けたような笑顔で、今度は耳たぶに触れてきた。


「こーんなに敏感で、よわよわな反応して、情けないと思わないわけ?」


「し、仕方ないだろ。僕はその....。こういう経験が全くないから....」


「ふーん。そっか。童貞だから仕方ないよねぇ。よわっちい弱者男性くん」


「は? じ、じゃあ、そういうお前はどうなんだ....?」


 すると、東雲未来の顔はみるみるうちに強張っていった。膝や指先からのやんわりとした熱も失せ、刺々しい目つきで僕の顔を睨んでからこう言った。


「変態。そういうの、マジうざいから」


「いや..。だって君が先..。う、ご、ごめんなさい....」


「私さ、初めては本当に好きな人に捧げてるって決めてるの。モテもしない、ただ満たされない愛と性欲に日々悶々としているだけのあんたと同列に括らないで欲しい」


「あっ..」


 大半の人間は、自身の経験の無さがコンプレックスになってるから怒るものだと思っていたが、彼女は違った。経験自体は無いものの、経験しようと"思えば"すぐに出来る。


 いくら望んでも、背伸びしたって手に入らない。自分なんかとはーー


「うっ....」


「え、そこで泣くの..?」



「僕が泣いたって事、学校で言いふらすなよ」


「言うわけないじゃん。私そこまで性格の悪い女じゃないんだけど」


「初めて知った」


「あんた私の事なんだと思ってたわけ?」


 正直、あの公園で漏らした自分の本音を聞かれる以前の記憶はあまりない。クラスの中心人物で、顔はまぁ普通に可愛くて性格も明るい。有象無象の集団と群れる俗物くらいにしか考えてなかった。


「まぁ、名前を知らないくらいには何とも思ってなかったよ」


 事実。


 彼女と出会った時と同じ。何気なく発した一言だった。


「........」


 沈黙が走る。この間は不味いと本能が察知し、何とか会話を取り繕おうとさっきの迂闊な発言に捕捉する。


「前までは一度も話した事なかっただろ? 自分さ、結構人の名前覚えるのとか苦手なんだ。授業中も内職してるから自己紹介もほとんど聞き逃しちゃってさ〜」


「........」


「あの、僕、なんか気に障るようなこと言っちゃった..?」


「......」


 なんで、そんな顔をする? 


 初めて見る、東雲未来の引き攣った笑みは、幸福や希望とは真反対の色に満ちていた。あらゆる事を悟ると同時に全てに絶望し、まるで自らの破滅を望んでいるかのような表情だ。


 僕はこいつと、どこかで会った事があるのか?


 東雲未来。しののめみらい....。


 そういえば、東雲を『しののめ』と読む事に気付いたのは、中学時代に見た何かのアニメキャラに同姓の奴がいたからだ。変わった読み方だから、その時までずっと読み違えていた。


 とううん、みらい....。


「お前、とううん、未来なのか....?」




 

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