第二十話 小三の夏②
「そっか..。多分僕はその時、未来が心配で仕方なかったんだろうね。あんな最低な事しておいて、どの面下げて来たんだよって話だけど、それでも我慢出来なかったんだ」
「....」
「ってあれ..? 渚沙はどうして泣いてるの?」
♢
未来は語り始めた。昔自分と付き合っていた人に裏切られ、心が壊れた事。そんな彼を見返すために無茶な努力を強制し続けている事。どれも嗚咽まじりで、声を聞き取るのがやっとだった。
「変わらないとダメなの..。今の私に、価値なんてないのよ..」
何度も聞いた彼女の口癖。それはただ単に、見返したいだなんて負の感情を指し示しているようには到底思えなかった。
それに、嘘を見抜くのが得意な私にしてみれば、さっき病室に駆け込んできた彼が、演技ではなく本心から彼女を気遣っている事も明らかだった。
馬鹿な自分に、彼が未来を罵り絶縁した理由までは分からない。けれど一つ確かな事があった。
「まだ、大好きなんだね....」
「え....」
「どうしてそんなに執着するの? 事情がどうであれ、未来の事を裏切ったような相手の為にそこまで頑張るのは可笑しいよ。何も変わろうとする必要無いでしょ」
「..........違うの」
それから、彼女は窓の方を向いて涙を流しながら呟いた。
「本当に嫌いなの。嫌いだって思わせて..。じゃないと私、愛してるって感情が溢れて止まらなくなる」
「....」
知っていた。理由は分からないけど、未来の恋心は相当根が深い。
「こんな気持ちになるのも久しぶりだな..。お母さんに持ってきて貰った日記に今の想いを綴ろう」
「..。未来って結構マメなんだね。その分厚さを見る感じ、相当書いてきたんじゃない?」
「うん。まだ3歳だった時からつけてるんだ。1日1ページ。私も結構、この継続力は誇りに思ってる」
「そっか..。偉いね....」
なんて呟いた刹那、鉛筆を走らせる未来の手が止まった。
「どうしたーー」
そこから先、私は今目の前で起きている光景をうまく理解することが出来なかった。
「ふざけやがって..。皆川、あいつはまた、私の事をバカにしに来たの..? ふふふ..。まぁ良いわ。将来はあいつなんか足元にも及ばない程の人になってやる。だけど..」
突如として、別人に入れ替わったようだった。光沢のない双眸に、狂気じみた引き攣った笑い。彼女は喉に手を突っ込んだかと思えば、さっき食べたばかりの病院食と私のお菓子を吐き出していた。
「ふふふ..。私、食べれないんだ。あの日から、口にモノを入れると吐き気が止まらなくなるの..。おかげで前より痩せれたわ。もう、誰にも豚だなんて言わせない」
「ひっ..」
この時初めて恐怖を抱いたが、既に手遅れだった。深く関わり過ぎた。初めて会った時に感じた印象に、もっと正直に従って逃げるべきだった。
「ねぇあんた、私にビビってるの?」
「ち、違う! ただ心配なのよ。無理しないで、何かあるなら私に相談して..」
「..。鈍いね。何かあるんじゃなくて、何かあったからこうなってるんだよ。相談して何になるの? 元に戻そうとか考えてる? 一度歪んだ人間は、もう二度と治らないのに..」
「.....」
未来は退院した。この時の異常を私は医師に伝えるべきだったんだ。けれど怖くて出来なかった。翌日、いつもの公園で彼女は相変わらず走り続けている。
倒れ込み、息も絶え絶えの彼女を日陰に運び水分を摂取させるのはいつも私の役目だった。また熱中症で倒れないか心配で、いつもつきっきりだった。
「まだ頑張れる。こんなところで、終わりたくない」
「待って未来..」
その後は決まって、近所の図書館に籠りっぱなしだ。私には内容が難しく理解できないものばかりだが、未来は驚異的な集中力で、次々とそれらの本を読破していった。
「ねぇ..」
ある日、私は彼女にこんなお願いをされた。
「私は多分、並の人よりも勉強が得意だと思う。中学の範囲まで予習済ませたし、いつでも学校に復帰できる。けどその事を誰にも言わないで。出来ないふりをし続けるの」
「なんで..?」
「決まってるでしょ。能ある鷹は、爪を隠すの..」
この時、未来は会ってまだ数ヶ月しか経ってないのに、以前と比べ見違えるほど美しい成長を遂げていた。お腹についていた肉は消え、過度な走り込みもしなくなった。
その代わり、私と一緒に図書館にいる時間が増えた。無論彼女の付き添いという形でだが、もう学校に通う意義を見出せなかった自分にとっても、今の状況は決して悪くない。
なのに、胸の内に消えない何かが溜まっていく。未来は本当に変わったのだろうか? いくら身体と能力が成長しても、一度壊れてツギハギだらけの心は、治っているのだろうか?
病院であんな姿を見てしまった以上、考えずにはいられなかった。
「ん....。運動も勉強も終えて、後はそんな自分をどう魅せるかよね。素の自分でいてもどうせみんなに嫌われておしまいだし、もっと万人受けするようなキャラを作らないと」
「そ、そんな事しないで良いんじゃないかな..? 私は演技してない、素の未来が好きだよ」
「えへへ..。そう言ってくれてありがとう。でも、私は変わらなくちゃダメだから」
「....」
変わってない。そういう精神の危うさが、ちっとも改善していないという言葉が喉元まで出かかった。ここまで頑張って、それでも満足出来ない。彼女の人生は永久に満たされないのだと悟った。
私が図書館に足を運ばなくなったのは、決定的な仲違いとなる理由があったからではない。怖気付いたからだ。未来が私にとっては想像も絶するほどの成果を上げても、彼女はそれを失敗だと一蹴する。
ならその失敗となる基準さえまともに達し得ない自分はなんなのだろう? いるだけで自信がなくなる。それが嫌で私は彼女の元から離れた。引き留められることも、特になかった。
ずっと、気づいていた。
私は彼女の眼中にさえ入っていない。近くにいるだけの雑踏に過ぎないんだ。




