第十九話 小三の夏①
勉強についていけなくて、学校をサボりがちになった小学三年生の夏。近所の公園で一人風船を膨らませて遊んでいた時、私は始めて彼女と出会った。
この時間帯に自分と同じ年の子が、池の周りを汗だくになりながら走っていく。身体には随分とまぁ立派な脂肪がついているし、顔だけ見ても可愛いとは言い難かった。
昔見てトラウマになった、千と千尋の神隠しに出てくる、豚になった千尋の両親の姿をどこか彷彿とさせる。
これは中々の素材を見つけたぞと思い、私は観察を続けた。雨の日も風の日も、彼女は決まって同じ時間に現れ池の周りを走る。最初は好奇心を抱いていたが、少しずつ恐怖を覚え始めた。
理由は至極当然。
明らかに限界を超えているであろうに、彼女は走るのをやめないからだ。何度も転んで、地面を這った次の日も、擦りむいた箇所に絆創膏を貼ってやって来る。
ついに傍観しているだけじゃ気が済まなくなった私は、彼女の走行ルートを塞ぎ話しかけた。
「何でそんなに走るの? 休まないと、熱中症で倒れちゃうよ」
「....うるさい。私に構わないで。邪魔だから、早くそこを退け」
一応初対面なんだけど、口調が随分荒々しい。少し性格にも難がある子なのかなと考えつつも、私は出来るだけ心配するフリをした。
「汗凄いしさ、日陰で少し横になろうよ。ね?」
「......」
それから、私は彼女を街路樹の元へ連れていった。自販機で買った水を渡し、首筋を濡らしたタオルで冷やす。
「ヒャアッ!」
初めて聞いた可愛らしい声だった。その姿が妙に愛おしく感じで、私は彼女をお膝の上に乗せて、少しの小休憩を挟む事にした。
「ここは涼しいね。蝉がうるさいし、今年の夏は異常なくらい暑いのに..」
「ううん。全然暑くないから。私、あの日から、辛いのもしんどいのも、何も感じなくなった」
「へぇ....」
彼女は”あの日”と言ったが、特に追及しなかった。きっと暗い内容だろうし、触れればこっちの気も病んでしまうと思ったからだ。
「君、名前はなんて言うの?」
「東雲未来。東に雲って書いて、『しののめ』って読む」
「そうなんだ。じゃあ未来って呼んでいい?」
「別に良いよ」
「よし。では早速..。未来、今からコンビニでアイスでも買いに行かない?」
「嫌だ..。アイス好きだけど、食べたら太っちゃうから私は良い..」
「あぁ..。未来は自分の体型気にしてる感じ..? まぁ、あれだけ走っておいてダイエット以外の目的があるとも考えにくいけどさ....」
「....」
「でも、いつも頑張ってるんだしご褒美も大事ーー」
「だからいらないって言ってるでしょ! 私に息抜きなんて必要ないの..。頑張らなきゃ。ここで変わらなきゃ。私きっと、自分の事もっと嫌いになるから..」
「全く極端だなぁ..。じゃあ限界まで走れば良いじゃない! 倒れても私知らないから」
なんて些細な口論を機に、私達の交流は断絶した。相変わらずランニングを続ける彼女は無視し川辺でシャボン玉を飛ばしたり、虫を捕まえたりして遊んでいた。
その日は、40度を超える酷暑日だった。
「あいつ、今日も走ってるのかな..?」
近場の図書館で涼んでいた時、不意に未来の事が気に掛かった。様子を見に行くくらいなら、しても良いと思った。この暑さで走るなんて自殺行為に等しい。
「....」
いないに決まっているよね。
案の定、正午の公園に人気はなかった。
「........」
雲一つない澄み切った青空な下、靴底が溶けそうなほど強烈な反射熱を帯びるアスファルト状の地面の上。
東雲未来は眠るように、静かに横たわっていた。
「未来....」
唇を震わせ、彼女の名を呼ぶ。近づき身体を揺さぶっても、異常に発熱した体温を感じるだけで意識は既にない。
「未来! ねぇ!! 起きてよ未来!!」
その声を偶然聞きつけた大人が救急車を呼んでくれなければ、多分彼女は死んでいた。重度の熱中症だそうだ。その原因は明白だし、いつかこうなる気はしていた。
なのに私は、『限界まで走れば良い』だなんて無責任な事を言ってしまった。
「ごめん..」
「別に君が謝る事じゃないよ」
病室の中、久しぶりに顔を見た東雲未来は以前よりも少し痩せた気がした。輪郭が鮮明になり、顔つきも綺麗になったと思う。この子は案外、美人に成長するかもしれない。
「それでさ、今日はお詫びの品としてアイス持ってきたの..」
「..だからいらないって前にも言った」
「違うの。水とフルーツの果汁を混ぜて氷にしただけ。私が作ったんだ。カロリーもほとんどないし、食べても太らないと思うよ」
「そう..。なら少しくらい食べる」
「うん。私も味見してみたんだけど、自信作なんだ。感想も聞かせて」
彼女の口元に氷の一つを移そうとした瞬間だった。
「未来! 大丈夫!! 熱中症で倒れたってさっき母さんに聞いて....」
「......」
線の細い、見るからに真面目そうな男の子が汗だくになりながら病室に駆け込んできた。名前を呼び捨てにしたり、彼女が倒れたと聞いただけでこの慌てようだ。もしかして..。
「気付いちゃった! もしかして、この子未来の彼氏....」
「....」
それが私にとって、人生で数多い過ちの一つだった。
取り返しのつかない私の発言に、不意に視線を逸らす男の子。ベッドの上で、つい先程まで穏やかな表情でアイスを食べようとしていた未来は奇声を発した。
「やめて! やめてやめてやめてやめてやめて!!!」
髪を毟りながら、ベッドに潜って激しく震え始めた。尋常じゃない様子に、私は何かを察する。呆然とした面持ちの男の子に向かって出て行けと叫んだ。お前がいるから、未来は可笑しくなっている。
いや、初めから彼女は少し壊れている節があった。だとしたらその元凶は多分..。
「未来..。あの子ならもう帰ったよ」
「お願い..。見ないで。今の私を見ないで!!」
「....未来」
「ダメなの..。私、今のままじゃダメなの....」
「未来お願い聞かせて。彼は誰なの? 彼と何があったの?」




