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第十話 チークキス

 星野綺羅薇と名乗ったその人は、僕と同じ歳の高校一年生だそうだ。髪は黒色のショートボブで小柄。年の割に痩せこけていて、膝なんか少しの衝撃で折れてしまいそうだった。


「こんな夜遅くに出歩いて、親とか心配しないの?」


「はは..。あのクズがするわけないじゃん」


 彼女は母子家庭の子だった。唯一の肉親である母は、夜職の都合上家に帰るのが遅い不規則な生活を送っている。そこら辺は遥香さんも同じだが、あの人は高級クラブのオーナーをしているらしい。


「でも一人でいると寂しいんだよね。ちょうど良い話し相手が見つかってよかったよ」


「なるほど。じゃあどんな話がしたいの? 数学? 物理?」


「ううん。昔の面白い出来事とか変わった経験について話さない?」


「あぁ、そういう事ね」


 僕は結構真面目に考えた。自分の過去の中から、とりわけ面白いと感じるものをいくつか引き出し語ってみせる。


「小学2年生の時にさ、円とか曲線を極限まで拡大したら直線にならないか? みたいな疑問を抱いて、微分の概念に辿り着いた事とかかな。僕それで理系分野に興味持ち始めて当時から中学生用の参考書をーー」


「ちょいちょいストップストップ! 私小3の掛け算あたりからつまづいた人間だよ。その微分..、の概念とかよくわからないしちっとも面白くない。他にないの?」


「...。ない。僕は昔から受験勉強しかしてこなかった。それが親から与えられた唯一の課題だったし、人並み以上にこなせばある程度の社会的地位は担保される。君にとってはつまらないと思うけどね」


「うーん。確かに、分からないことはつまらない。それに窮屈だよ。だって君、全然楽しそうじゃないし」


「え....」


「私は、そうだね。面白い事と言えば当てはまるのかもしれない..。まぁ、昔から馬鹿にされる事の多かった自分でも、唯一心の底から感動できた超奇跡的な経験があったな」


「どんな?」


「父親が死んだ時」



 やべえ奴。それが星野綺羅薇という女に対する印象だった。これまでの話を整理するに、学力は小学生低学年レベル。自傷癖があり、ネグレクトとDVを受けて育っている。ポケットから違法薬物のような粉が出てきた時には度肝を抜かれた。


 今までの人生でこんな奴とは関わってきた事がない。頭が悪い人間を見下しがちな僕でも、ここまで程度が悪すぎると寧ろ馬鹿にする事さえ申し訳なく思えてくる。


「ごめん」


「まぁ気に病むな。馬鹿にされるのは慣れっこだって前も言ったろ。それよりほれ。ここに来る前にコンビニ立ち寄って買ったんだ。一緒にお酒飲もうよ」


「....未成年飲酒。それを差し置いてもアルコールは脳と肝臓に悪いんだ」


「へへ..。ちっとも分かってないね。綺麗事だけじゃ罷り通らないのが人生の醍醐味だよ。辛くて苦しい現実は、これを飲んで忘れるのが一番良い。今日みたいな夜にぴったりでしょ?」


「....」


 僕は彼女に手渡された缶ビールに試しに口をつけてみた。苦くて美味しくないし、飲む度に喉がひりつくような感覚がある。こんなもので現実を忘れられたら苦労なんて初めからしないよと、そう言いたい気持ちを抑えた。


「プハッ..。お前は将来の事を何も考えてない。真っ当に生きろってよく言われるよ。けどさ、私は生まれた時点で将来の詰みは確定してたんだ。だから考えないんじゃない、考えたくないんだ」


「似たような言葉を、さっきも聞いた」


「はは。くどくてごめんねぇ..。アルコールが回って今は最高に幸せ! だけど、心の芯って言うのかな..。私の胸の奥の底が冷えてて駄目なんだよ。何で私はもっと普通に生きれないんだろうって..」


 星野の人生観は消極的だった。努力しても身になったものが一つもないという過去の経験を引きずった結果、初めから何かを始めようとする気力も無くなっていた。


 不良仲間と平日は深夜の公園に集い、酒と煙草に溺れる日々が明るい未来に繋がらないのは分かっている。それでも束の間の快楽に身を委ねないと恐怖で潰れてしまいそうになる。


「こんな事を人に言うの初めてなんだからね。絶対に、他の誰かには話さないで」


「うん..」


「じゃあ、また明日ね」


 そう言って、彼女は近付いてくる。これ以上の用事はないはずだが、何かあるのだろうか? そう思った刹那、背丈のほぼ等しい彼女の唇が僕の頬に触れた。


「今日話聞いてくれたお礼だよー。バイバイ!」



「それでぇ..。あの女との会話はどうだったの?」


 星野と別れてから適当にジョギングを済ませ、家に着いたのは深夜1時。いつも早寝を徹底している東雲がこんな夜更けまで起きているのは予想外だった。


「別に軽い身の上話を共有しただけだよ。特には..」


 最後のチークキスには触れないでおいた。理由は分からないけど、その事を東雲に話すのは気が引けたのだ。あくまで、他愛も無い話をしたという一点だけを強調し続ける。


「ふぅん..。それで別れ際に、向こうからキスされたんだぁ」


「そうそーー」


 思考が停止するというのは、まさにこのような状況を指すのだろう。何故そのことを知っている? 脳内は疑問符で埋め尽くされ全身を冷や汗が伝う。うまく言葉が紡げなかった。


 ヒターー


 生暖かい廊下の上を伝う足音がこちらに迫ってくる。


「興奮したぁ..? ふふっ..。皆川くんって本当にチョロいんだから。あれくらいの事で顔を真っ赤に染めちゃって、可愛いね。君は本当に、弱くて可愛いねぇ....」


「....。まさかお前、ずっと僕と星野の会話をどこかで盗み聞いてたのか..?」


 ヒタ、ヒターー


「何の事..? 私はね皆川くん、君を揶揄うつもりで冗談を言ったんだよ。ほら、”この前の事”もあるし..」


 嘘に決まっている。東雲はやはり、あの現場で一部始終を目撃したんだ。きっとまた僕が危険な目に遭わないかを見張る目的で、少なくとも心配はしてくれていた。なのにどうして、今はこんなに雰囲気が怖いんだ..?


「ねぇ....」


 東雲未来は、僕の目の前で静止した。お互いの心拍音、吐息までもが感じられる距離感だ。このままではまた向こうのペースに呑まれてしまう。そう思った僕は水を飲みに行くと言って踵を返そうとした。


「ねぇ。こっち向いてよ。雑魚」


 冷淡な語調。乱暴に伸びた腕が、自分の背後にある冷蔵庫を叩き中にある瓶の揺れる音がした。そちらに一瞬だけ気を取られ不意に横を向く。無防備になった頬に、東雲未来はゆっくりと唇を押し当ててきた。


「あ..」


 やめろと反射で言おうとして、何故か出てこなかった。随分と長い間、彼女は密着したまま離れない。前傾姿勢になって垂れた前髪が僕の横顔と肩を刺激する。湿り気のある感触が、じんわりと伝わっていく。


 星野のそれとは明らかに異なるそれに、胸の奥がざわついて可笑しくなりそうだった。もうそろそろ終わりにしてくれないと、理性を保っていられない。


「未来..」


「......。ふふ、こんなんで興奮するんだね君は」


「あまり揶揄うなよ..」


「..。へへへ」


 意外にもあっさりしていた。彼女は僕から顔を離し、ずりずりと後ずさっていく。結局いつものように自分ばかり煽られて終わりなのか? 自分はそこまで弱いのか? 


 深夜テンションと酒に酔った影響か、僕は少し正気じゃなかった。平時ならヘラヘラ笑ってかわしていたが、今日は我慢出来そうにない。素知らぬ顔で去っていく東雲未来の肩を強引に掴んでしまっていた。


 そしてすぐに後悔した。一瞬だけ、彼女がびくりと身体を震わせたのを布越しに感じて反射で手を離す。


「ご、ごめん..」


 それに対する返事は無かった。怒らせてしまったのだろうか? 僕には東雲未来が何を考えているのか、どうして自分もあんな行為に及んだのか、ちっとも理解出来なかった。

 

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