第十一話 強迫観念
♢星野視点
考えるのなんて馬鹿らしい。相手の気持ちを知ったところで、母親が私を殴る理由なんて分かりきっている。痛みには慣れた。今の自分は、普通の人間よりも”鈍い”んだと思う。
唯一の楽しみがあるとすれば、錆び付いたバルコニーの手摺りにもたれ掛かり、酒を飲みながら見上げる夜空だ。私の苗字にも入っている星というものに酷く惹かれるのは運命なのかもしれない。
「綺麗だなぁ..」
平日は皆川君とは会えない。あの後彼から懇願され、一緒にあの公園で話すのは土日の深夜のみになった。それでも本来であれば週一の提案だったから、大分譲歩してくれたのだと思う。
やっぱ私は迷惑なんだ。生まれてこの方、誰かから愛されたという自覚がない。そのせいか自分が居るだけで誰かを不快な気持ちにさせていると本気で思い込んでいる。なんて卑屈な根性がもっと嫌いになる。
負の循環だ。酒を飲んでも、最近は鬱屈とした気分が抜けていかない。ここ最近、特に東雲未来という女にボコられてからはますます酷くなっている。何なのだろう、この感情は....。
♢
「あらあら? いつの間にか仲良くなって、お母さん嬉しいわ!」
憂鬱な月曜日の朝、東雲家では一家三人、僕という異物を抱えながらも微笑ましい姿を保っていた。具体的にどんな変化があったのかと聞かれれば、東雲未来が初めて僕の挨拶に応えてくれたのだ。
「....別に仲良くなってないし。コイツは他人よ」
「そんな恥ずかしがらなくても良いじゃない? あの日記、まだ捨ててないわよ」
遥香さんが地雷を踏む。それに激昂した未来が暴れ狂う姿を想像し身構えたが、想定外の事態が発生した。顔面を紅潮させ、何も言わず箸を口元に運ぶ手は震えている。
「屈辱よ。こんな奴を好いてた時期があっただなんて。こんな雑魚!」
「言い過ぎよ未来。皆川くんに失礼でしょ。今すぐに謝りなさい」
よく考えれば異常な空間だ。元カノと同じ食卓を囲み、僕への罵倒をその母親が叱責している。それにしたって今日の東雲未来はどこか変だった。いつもならこんな日常会話で感情的にならないのに。
「皆川ごめん..。今日身体の調子悪くてイライラするんだよね。熱測って良い?」
体温計が測定を始める。結果は37.4°の微熱だった。
「今日学校休むわ。多分また風邪引いたんだと思う。頭痛いから、少し寝てくる」
扉を閉める音。未来は結構学校の事が好きだし、軽い体調不良なら無理をおしてでも登校しそうなものだ。先ほどまでは虚勢を張っていただけで、ずっとしんどいのを我慢していたのか?
それよりも、僕は彼女が風邪を引くのを初めて見た気がする。小学校時代は、不登校になる以前はずっと皆勤賞だったのを覚えているし、元気で病気とは無縁のやつだと思っていた。
「痩せてから増えたのよ..」
僕の様子を見て何かを悟ったのか、遥香さんが話し始めた。
「あの子、ほら..、自分の体型に酷いコンプレックスを抱いてた時期があったじゃない..。そのせいか、今でも極端に食事制限かけたり、無理な運動を続けているの。だから多分、昔と比べて免疫が下がっているんだと思う..」
「....。何か栄養を摂らせないと..」
「えぇ。それが私の役割だって分かってはいるんだけどね..、作り置きして仕事に行って帰ってきても、冷蔵庫の中にあるものがほとんど手を付けられてない事とか、最近は更に増えた気がする」
「そうなんですか..」
僕が何とかしてみよう。彼女を周囲の同調圧力に屈し、豚と罵ったのは自分も同じだ。責任の一端はある。学校の授業という『講義音声聞き流し内職時間』が半日分削られるのは惜しいが、遥香さんには内緒で学校をサボった。
♢
「未来、入るよ」
彼女に続いて部屋に入ったが、返事はない。その代わり、室内は彼女の体温によるものか蒸し暑く、女性特有の匂いが充満した部屋に様変わりしている。東雲未来は二段ベッドの下で荒い呼吸音を立てていた。
「つらいよな。何か作ろうか?」
「....」
意識が曖昧なのだろう。酒を飲んで酔っ払った時のような焦点の定まらない目で僕の顔をじっと見据えてくる。
「いらない。さっき朝ごはん食べたもん。間食挟むと熱が余計に上がるし、それに太るから..」
「別に今のお前は太ってないだろ。運動もしてるし、もっと食べたほうが良いと思うよ」
「うるさいな。そうやってぶくぶく太らせて、動きが鈍くなったらどう責任取るのよ? 男のあんたには分からないかもしれないけどね、女性は体型を維持するために特に気を使わないといけないの!」
「....。とは言ってもさ、限度ってものがあるだろ..。遥香さんも心配してたよ、最近のお前、体調不良になりがちらしいじゃん。もしかしてだけどさ....」
その言葉が不意に紡がれたのは、星野と多少なりとも話した事がきっかけかもしれない。
「危ない薬とかに、手を出してないよな..」
「....。なんでそーー」
ポツリと呟き、ハッとした表情で口元を抑える。答えは既に出たも同然だった。もはや誤魔化しの効かない状況下で、東雲未来の顔は真っ青になっていた。
「詳しく聞かせてくれないかな?」
「何の事を?」
「しらばっくれるな。詳しい事は僕も分かんないけど、仮にお前が痩せる薬みたいなの飲んでたら....。今の体調不良はその副作用の可能性が高いだろ。やめた方が良い」
「だからなんで私が薬を使っている前提で話を進めるのかな? 雑魚は黙って、私の美しい身体にただ見惚れていれば良いの。こんなに頑張ったんだから、ほら....」
パジャマの端に手をかけ持ち上げる。下着の下から僅かに覗くお腹はくびれていて、色も白い。あまりにも一瞬の出来事で思考は止まり、思わずその箇所に釘付けとなった。
「興奮した? 豚の腹肉にさ。目の前で土下座したら、触らせてあげてもーー」
「話をすり替えるな..。薬なんかに頼って手に入れた身体なんて偽物だ! 僕は太ってたお前の方が、全然可愛くて好きだったよ。どうして、そんな風になっちゃったんだ....」
「....」
彼女は静かに俯いた。まるでお前のせいだと責めているような、無言の主張だった。
「そうかよ。じゃあ、ずっとお前は自分の行動を誰かのせいにして生きていけば良いじゃん。そっちの方が楽なんでしょ。君が可笑しいのは僕のせいなんだって、そう考えていた方が後ろめたい事も正当化できるしね」
「私はまだ何も言ってない」
「言わなくても分かるよ。その察してくれみたいな受け身の態度、本当に”雑魚”みたいで嫌になる」
「ふふっ..。皆川に雑魚呼ばわりなんて、私も堕ちたものね」
「その自覚があるなら、まず君が痩せるためにしている事を話せよ」
「嫌だね..。絶対に話さない」
ここまで拒絶されたら、彼女にはどう説得しても閉口し続けるだろう。とはいえ本当に薬を摂取しているなら、黙って見過ごす訳にもいかない。思考を巡らせた最中、脳裏にある人物の顔が浮かぶ。
”あいつ”なら、何か知っているかもしれない。
僕はなりふり構わずに部屋を飛び出し、元から着ていた制服と空の鞄を持って、星野綺羅薇が通う県内最底辺の高校に行く準備を始めた。




