第9話 決死の跳躍
「走れええええっ!」
ハルトの叫び声と同時に、3人は処置室から暗闇の廊下へ飛び出す。
だが、廊下に足を踏み出した瞬間、ハルトの視界に絶望的な光景が飛び込んでくる。
左手、先ほど登ってきた非常階段の方向を見る。非常階段の鉄の扉は押し破られ、そこから数十体ものロストが雪崩のように廊下へ溢れ出ている。床を這う者、立ったまま腕を伸ばす者、互いに折り重なって通路を完全に塞いでいる。
右手の中央通路に目を向ける。吹き抜けのエレベーターホールや反対側の病棟からも、床を叩く無数の足音と共に、おびただしい数の影が猛スピードで迫る。
挟み撃ち。逃げ道になるはずだった階段へのルートは、数秒の間に完全に消滅する。
前後から迫る死者たちとの距離は、すでに二十メートルもない。
「くそっ、戻るぞ!」
タツヤが鉄パイプを構えながら叫ぶ。だが、処置室に戻ったところで、スチール棚が倒れたあの狭い部屋ではすぐに壁際に追い詰められるだけだ。
「こっちだ!」
先頭を走るゲンゾウが叫び、通路のすぐ脇にある病室のドアノブに手をかける。開かない。ゲンゾウは躊躇することなく、足裏全体でドアノブの横を力任せに蹴りつける。
バキッ、という乾いた破壊音が響き、ラッチが吹き飛んで木製のドアが内側へ勢いよく跳ね上がる。
「入れ! 早く!」
ゲンゾウの怒声に従い、ハルトとタツヤが部屋の中へ滑り込む。最後に飛び込むゲンゾウが壊れたドアを力一杯引き戻し、自らの背中で全体重をかけて押さえつける。
部屋の中には4台のパイプベッドと、備え付けの棚、点滴スタンドが置かれている。
「物を集めろ! 扉を塞ぐぞ!」
ゲンゾウの指示と同時に、ハルトとタツヤが部屋の中の重量物に取り付く。2人で金属製のベッドの端を掴み、床を引きずってドアの前へ力任せに押し込む。そこへゲンゾウが大型の木製ロッカーを倒してベッドの上に重ねる。さらに点滴スタンドやスチール製の椅子を隙間に力任せに押し込み、即席のバリケードを組み上げる。
直後だ。
ドガァン!
凄まじい衝撃がドアに叩きつけられる。薄い金属板が内側に歪み、部屋全体がビリビリと震える。
『ガァアアア!』『オォオオ!』
無数の手のひらが扉の外側を乱打する音が響き渡る。蝶番がきしみ、破壊されたドアの隙間から、黒く変色した何本もの指が差し込まれて激しく蠢く。
ドン、ドン、と重い肉の塊が連続して体当たりを繰り返すたび、バリケードのベッドが数センチずつ内側へ押し戻されていく。木製ロッカーの合板に亀裂が走り、留め具のネジが一本、吹き飛んで床を転がる。
バリケードが耐えられるのは、あと数十秒といったところか。
「どうする……! ここじゃ袋のネズミだぞ!」
タツヤが鉄パイプを握りしめ、青ざめた顔でバリケードを押さえつけながら叫ぶ。
ゲンゾウはバリケードから手を離し、部屋の最奥にある窓へ視線を向ける。
「窓から飛ぶぞ」
「窓から……!?」
ハルトは目を見張る。ここは2階だ。地面までの高さは5メートル以上ある。夜の暗闇の中、コンクリートのアスファルトへ飛び降りれば、無事では済まない。
「下を見ろ!」
ゲンゾウが窓際へ走り、カーテンを引きちぎる。
ハルトが窓の外を見下ろす。
病室の真下には、1階の正面エントランスから外へ向かってせり出す、金属製の大きな雨よけの庇がある。窓枠から庇の屋根までの距離は、およそ2メートル半。
「あの庇に着地して、そこから地面へ滑り降りる。それしか逃げ道はない!」
ゲンゾウは言い放つと、手にする鉄製のバールを窓ガラスの中央へ向けて力任せに突き出す。
ガシャアアンッ!
激しい破砕音と共に、分厚いガラスに蜘蛛の巣状のヒビが走る。続けてタツヤが鉄パイプでガラスを叩き割り、外へ向けて蹴り飛ばす。冷たい夜の空気が一気に部屋の中へ流れ込んでくる。ゲンゾウは窓枠に残る鋭いガラスの破片を、バールで素早く叩き落とす。
その背後で、バリケードが激しい音を立てて崩れ始める。
木製のロッカーが真っ二つに割れ、ドアの隙間からロストの頭部が無理やりねじ込まれてくる。白濁した瞳がハルトたちを捉え、顎が空を噛んでカチカチと音を立てる。
「タツヤ、行け!」
ゲンゾウが叫ぶ。
タツヤは躊躇わない。窓枠に手をかけ、身を乗り出すと、そのまま外の暗闇へ向かって飛び降りる。
数瞬後、下からドスンという鈍い音が響く。
「ハルト、次はお前だ!」
ハルトは背負うリュックを前に回し、両腕で強く抱え込む。中には、ユキと赤ん坊の命を救うための医療キットが入っている。自分の体よりも、この箱を絶対に守らなければならない。
ハルトは窓に足をかけ、下の庇の屋根を見据える。
背後で、完全にバリケードが弾け飛ぶ音が響く。数体のロストが部屋の中へ倒れ込んでくる。
ハルトは暗闇へ向かって強く床を蹴る。
視界が急速に反転し、重力が体を下へと引きずり落とす。
ドガァンッ!
強烈な金属音と共に、ハルトの足と腰が金属製の庇に叩きつけられる。
薄いトタンと鉄骨の屋根が大きく凹み、落下の凄まじい衝撃を吸収する。肺の空気が強制的に吐き出され、目の前が真っ白になる。だが、ハルトは両腕の力を決して緩めず、胸の医療キットを守り切る。
直後、最後に飛び降りるゲンゾウの巨体が庇に落ち、屋根全体が激しくきしむ。
庇の屋根は、雨水を外へ流すために前方へ傾斜している。ハルトの体は勢いを止められず、濡れた金属の上を滑り落ちていく。
屋根の端から投げ出され、そのまま1階の地面、アスファルトの上へと転がり落ちる。
背中と肩を地面に強く打ち付け、ハルトは地面に倒れ伏す。
すぐに立ち上がろうとする。一秒でも早くここから離れなければならない。
ハルトは地面に手をつき、右足に力を込めて立ち上がろうとする。
その瞬間だ。
「ぐっ……あああっ!」
右の足首から膝にかけて、激痛が突き抜ける。
落下の瞬間に不自然な角度で負荷がかかったのか、足の感覚が麻痺するほどの激痛が走る。足に全く力が入らない。膝が外側へ折れるように崩れ、ハルトは再び冷たいアスファルトの上へ倒れ込む。
自力で立ち上がることが、完全に不可能になっている。
「ハルト!」
先に着地するタツヤと、屋根から滑り落ちてくるゲンゾウが駆け寄ってくる。
ハルトは脂汗を流しながら、必死に胸のリュックを確認する。チャックを開け、中を探る。箱に破損はない。中の医療キットは無事だ。
「キットは……無事です……!」
ハルトは息を喘がせながら言う。
だが、安堵の時間は一瞬たりとも与えられない。
2階から庇へ飛び降りた際の巨大な金属音と、屋根が凹む破壊音。それは、深夜の静まり返る屋外に、雷鳴のように響き渡っている。
病院の正面玄関前、そして広大な駐車場を埋め尽くす無数のロストたちが、一斉に動きを止める。
そして次の瞬間、何百という白濁した瞳が、庇の下に倒れ込む3人へと一斉に向けられる。
『ガァアア……』
『アァァァ……』
地鳴りのような呻き声が重なり合い、駐車場全体を震わせる。
正面玄関のガラスの破片を踏み越え、駐車された車の隙間から、無数のロストたちが一斉に歩調を速めて群がり始める。
3人を取り囲むように、全方位から死者の波が押し寄せてくる。
「立て、ハルト! 走るぞ!」
タツヤがハルトの左腕を自分の肩に回し、無理やり引き上げようとする。
ゲンゾウも右側からハルトの脇を抱え込む。2人はハルトの体を宙に浮かせるようにして、前へ進もうと足を動かす。
だが、進まない。
ハルトの右足が地面を引きずり、成人男性一人の全体重が2人の肩に重くのしかかる。
走ることは到底不可能だ。早足で歩くのが限界だ。
前方から迫るロストの群れとの距離は、すでに三十メートルを切っている。左右からも回り込まれ、包囲網が急速に縮まっていく。この速度では、病院の敷地を出る前に必ず追いつかれ、全員が押し潰される。
ハルトは歯を食いしばり、痛みに耐えながら、自分の両肩を支える2人の腕を力任せに振り払う。
「放せ!」
ハルトは地面に転がり落ち、2人を鋭く見上げる。
「ハルト!?」
タツヤが驚愕の声を上げる。
ハルトは背負うリュックのベルトを肩から引き抜き、それをゲンゾウの胸元へ力一杯押し付ける。
「これを持って行け! 俺を置いて先に行け!」
「何を言ってやがる!」
タツヤが怒鳴る。
「見ろよ! このままじゃ3人とも死ぬ!」
ハルトは血走る目で、迫り来る無数の影を指差す。
「俺はもう走れない! でも、ゲンゾウさんとタツヤなら逃げ切れる! これを……このキットを、ユキのところへ持って帰ってくれ! あいつと赤ん坊を助けてくれ! 頼むから……!」
それは、命を懸ける懇願だ。
自分がここで死んでも、医療キットが届き、妻と子が生き延びてくれるならそれでいい。父親として、命を繋ぐための唯一の選択だ。
だが、ゲンゾウは押し付けられたリュックを掴み直すと、ハルトの胸ぐらを荒々しく掴み上げる。
「ふざけるな!」
ゲンゾウの怒声が、夜の闇に炸裂する。
「置いていくわけがないだろう! お前が死んで、そのキットだけ持ち帰って、ユキに何て言えばいい! 誰がその子供を育てるんだ! 父親のお前が生きて帰らなきゃ、何の意味もねえんだよ!」
ゲンゾウの目は赤く充血している。彼はハルトを絶対に見捨てない。かつてモールの暗闇で未来を諦めかけていた大人たちが、命を懸けて繋ごうとしているのは、ハルトを含めた家族の未来そのものだ。
しかし、現実は無慈悲だ。
群れの先頭は、十数メートル先まで迫っている。
腐敗する肉の強烈な悪臭が風に乗って鼻を突く。死者たちの爪が、牙が、月明かりの下で鈍く光る。逃げ道は完全に塞がれ、3人は駐車場の片隅で完全に孤立している。
武器を構えるゲンゾウ。鉄パイプを握りしめ、前へ出るタツヤ。
地面に這いつくばるハルトの視界が、絶望で歪む。
ここまで来て、全員が死ぬのか。




