第8話 死地への潜入
モール屋上に張られたテントの中。ブルーシートの上で、ユキは体を丸めて激しい痛みに耐えていた。額には大量の汗が浮かび、顔面は青ざめている。荒い呼吸と短い呻き声が、テントの中に響いていた。
足元には破水による大量の羊水が広がっている。
サワは、ユキの足元を確認し、深刻な顔でハルトを振り返った。
「予定日より早すぎる。陣痛はすでに強くなっているけれど、産道が全く開いていない。このまま強引に出産を進めれば、ユキの体は耐えきれない」
ハルトはサワに詰め寄った。
「どうすればいい。どうすればユキを助けられる」
「物理的に産道を広げるための専用の道具が必要だ。3キロ先にある中央病院の産婦人科へ行って、産科用の緊急医療キットを取ってきて。時間は数時間しかない」
ハルトは、ユキの震える手を強く握り、すぐに立ち上がった。テントの隅にあったリュックを背負い、先端を尖らせた鉄パイプを手にする。ユキと赤ん坊を、絶対に死なせない。
彼がテントを飛び出そうとした時、入り口を塞ぐようにゲンゾウとタツヤが立っていた。ゲンゾウの右手には重い鉄製のバールが握られている。タツヤの肩には長い鉄パイプが乗っていた。
「お前一人で行けば、病院に着く前にロストに囲まれて死ぬ」
ゲンゾウは低い声で言った。
「俺とタツヤが道を開く。前と後ろの警戒は俺たちに任せろ。お前は物を探すことと、ユキの元へ無事に帰ることだけを考えろ」
ハルトは深く頭を下げた。言葉を返す余裕はない。
数時間の猶予しかない。ハルト、ゲンゾウ、タツヤの3人は、外の道路へ足を踏み出した。
モールから3キロ先の『中央病院』へ至る道のりは、危険な障害物で溢れていた。
電力が失われた街は完全な暗闇だ。月明かりだけを頼りに、3人はひび割れたアスファルトの上を進む。道路には持ち主を失った車が何重にも連なり、道を塞いでいた。錆びた車体や散乱したゴミの陰にはロストが潜んでいる可能性があるため、彼らは極端に歩みを遅くし、足音を完全に消して進んだ。
1時間後、巨大なコンクリートの建物が視界に入った。地域で最も規模の大きい中央病院だ。
パンデミックが発生した初期、ここは感染者と負傷者が最も多く殺到した場所だった。そのため、病院の敷地内にはモールの比ではない異常な密度のロストが徘徊していた。正面玄関前の駐車場には、数百体のロストがひしめき合って立っている。
ガラス張りの正面玄関は完全に破壊され、建物の中から外へ、ロストたちが絶え間なく出入りしている。正面突破は絶対に不可能だった。
ゲンゾウの指示で、3人は敷地の外周フェンスに沿って裏手へ回った。医療廃棄物のコンテナが置かれた搬入口を見つける。ゲンゾウがバールを使い、音を立てないようにゆっくりとドアの隙間を広げ、鍵を壊し、3人は真っ暗な院内へ侵入した。
換気システムが止まってから長い月日が経っている。窓のない裏口の廊下は、光を一切通さない完全な暗闇だった。空気は重く淀んでいる。古い消毒液の強い薬品臭と、長期間放置された死体が発する強烈な腐臭が混ざり合い、直接鼻の奥を突いた。
3人は、腰に付けたフラッシュライトの光を最小限に絞った。光が漏れすぎないよう、レンズの半分を手で覆って足元だけを照らす。
廊下には、ひっくり返ったストレッチャーや、散乱したカルテの紙、点滴のスタンドが散らばっていた。
少しでも触れて音を立てれば、院内にいる無数のロストが殺到し、彼らは確実に死ぬ。3人は一歩を踏み出すごとの体重移動を極限まで慎重にし、床に落ちたガラス片やゴミを避けながら、壁伝いに目的の2階、産婦人科フロアを目指した。
非常階段の扉をゆっくりと開き、2階のフロアへ足を踏み入れる。フラッシュライトの細い光が、廊下の様子を照らし出した。
そこには、休眠状態のロストたちが無数に存在していた。壁に寄りかかって立つ者、床に座り込んでいる者、ストレッチャーの上に倒れ伏している者。彼らは微動だにせず、ただ低い呼吸音だけを漏らしている。3人は言葉を交わすことなく、目配せだけで前進を始めた。
死者たちとの距離はわずか数十センチしかない。ロストの腐った肉の臭いと、乾いた血の臭いが直接顔に吹きかかる。少しでも服が壁に擦れる音を立てるか、足元のゴミを踏めば、彼らは目を覚ます。ハルトは額から流れる冷や汗を拭うこともせず、タツヤとゲンゾウの足跡を正確にたどって前進した。
長い廊下を抜け、「産婦人科」のプレートが掛かった部屋の前に到達した。
半開きになったドアの隙間から中を確認する。部屋の中に動く影はない。タツヤがドアの外に立ち、廊下の左右を警戒する。ハルトとゲンゾウが処置室の中へ入った。
室内には薬品庫や医療器具の収納棚が並んでいる。ハルトは焦る気持ちを抑え、引き出しのレールが金属音を立てないよう、ゆっくりと一つずつ中身を確認していった。消毒液、ガーゼ、注射器。目当ての物ではない。ゲンゾウも反対側の棚を探している。
数分後、ハルトは奥の壁際に置かれた大型のキャビネットを開けた。下段のスペースに、目的の産科用緊急医療キットの箱が保管されていた。
ハルトの震える手が、その箱を掴み出した。
「あった……」
ハルトは安堵で息を漏らし、箱をリュックの奥深くに押し込んだ。これでユキを助けられる。赤ん坊を無事に産ませることができる。一番の目的は達成された。
ハルトはゲンゾウに向かって頷き、撤退の合図を送った。ゲンゾウも短く頷き、部屋の出口へ向かって歩き出した。二人は足音を殺し、慎重に処置室を出ようとした。
その時、部屋の出口付近を歩いていたゲンゾウの肩が、通路の横に設置されていた医療用のスチール棚の角にわずかに触れた。
ゲンゾウが体重をかけたわけではない。歩く際の小さな振動が伝わっただけだった。しかし、そのわずかな振動が引き金となった。
パンデミック以降、換気されず湿気にさらされ続けた病院内の設備は、見た目以上にひどく劣化していた。スチール棚を支える四本の脚のうち、根元が完全に錆びて腐食しきっていた一本が、棚の重さに耐えきれずに唐突にへし折れた。
ギシッ、という短い金属音。
次の瞬間、高さ2メートル近い重いスチール棚が、支えを失って通路の真ん中へ向かって大きく傾いた。ハルトとゲンゾウが手を伸ばすよりも早く、スチール棚は床に向かって倒れ込んだ。
棚の上に置かれていた多数の金属製のトレイ、ガラス瓶、備品の詰まったプラスチックケースが一斉に落下した。
ガシャアアアアッ!
パリィンッ!
強烈な金属音とガラスの破砕音が、静まり返っていた完全な暗闇の院内に凄まじい音量で響き渡った。
ハルト、ゲンゾウ、そして廊下にいたタツヤの3人は、その場で完全に動きを止めた。一瞬の、耳が痛くなるような静寂。
次の瞬間だった。
『ガァアアアアアアッ!』
『アァァアアアッ!』
1階から。2階の廊下から。そして上の階から。院内にひしめき合っていた数百の休眠状態のロストたちが、獲物の立てた巨大な音に反応し、一斉に狂乱の絶叫を上げた。
床を叩く無数の足音が、全方位から物理的な振動を伴って湧き起こる。周囲の廊下から、部屋の入り口へ向かって、数え切れないほどのロストの群れが殺到してくる気配が迫る。
ハルトはリュックを強く抱きしめ、鉄パイプを握り直した。ここで立ち止まれば、確実に死ぬ。ユキも、赤ん坊も助からない。
「走れええええっ!」
ハルトの絶叫が響き渡る。3人は暗闇の廊下へ飛び出し、死者の群れを振り切るための決死の逃走を開始した。




