第7話 屋上に咲く希望
非常階段での孤独な戦いは、すでに数日間に及んでいた。
ハルトの肉体は限界をとっくに超え、一歩足を踏み出すごとに膝が笑い、視界の端が黒く明滅した。
それでも彼は、自分の子供の食料を確保するために、二十キロの培養土を抱えて階段を登り続けた。
生まれてくるあの子を絶対に飢えさせない。その切実な父親としての思いだけが、彼を突き動かしていた。
だが、絶対的なカロリー不足は精神力で覆せるものではない。
「あ……」
非常階段の中腹。足の筋肉が完全に硬直し、ハルトは前のめりに崩れ落ちた。
鈍い音を立ててコンクリートに倒れ込み、重い土の袋が彼の背中にのしかかる。
指先一つ動かせない。
肺が痙攣したように空気を求め、視界が完全に白く染まっていく。
もう、立ち上がれない。
そう絶望した時だった。彼の視界の端に、ゆっくりと近づいてくる複数の足が見えた。
居住区の老人たち、その先頭には、アキが立っていた。彼女たちは膝をつき、震える皺くちゃの手を開いて、ハルトの手のひらに彼女たち自身の配給である角砂糖や、乾パンをのせた。
「私たちは、あんたのように重い土を運べない」
アキは、ハルトの泥だらけの頬を優しく撫でた。
「だから、この一口を、あんたの力に変えて使いなさい」
それは、ただの食べ物ではない。彼女たちが生き長らえるための時間を削って差し出されたものだ。
ハルトの目から熱い涙が溢れ出た。
「おばあちゃん……」
「おい、いつまで寝てんだよ」
背後から降ってきたぶっきらぼうな声に振り返ると、家具売り場での激闘で腕を吊り、包帯姿になったタツヤが立っていた。
タツヤは痛む体を庇いながら、ハルトの横に落ちていたもう一つの土の袋を片手で強引に担ぎ上げた。
「遅えぞ。さっさと歩け」
ハルトは握りしめた乾パンの欠片を口に放り込み、ガリッと噛み砕いた。
甘みと塩気が、枯渇した体に染み渡る。彼は咆哮と共に再び立ち上がった。もう、孤独ではなかった。
非常階段を登り切り、屋上のコンクリートの床に土の袋を下ろした時、ハルトの後ろには数人の生存者たちがついてきていた。
「ここに土を敷き詰めて、芋や野菜を植えるんだ」
「それは…やめておけ」
ハルトが荒い息を吐きながら無謀な計画を口走った時、集まった生存者の中から、痩せこけた中年の男が歩み出た。かつて農協(JA)の職員だったコウサクだ。
「コンクリートに直接土を敷けば、水はけの悪さと土の重みでいずれ天井が抜ける」
コウサクは眼鏡を押し上げ、物理的な事実をストレートに口にした。
「土は袋に入れたまま苗を植える『袋栽培』にしろ。そこに段ボールを細かく千切って混ぜて堆肥化し、カサ増しすれば、お前たちが階段で運ぶ土の量は三分の一で済む」
「三分の一だって? なんでそんな知識があるのに、今まで黙っていたんだ!」
ハルトが叫ぶと、コウサクの横にいつの間にか立っていたゲンゾウが重い口を開いた。
「計算はとっくに終わっていたんだよ」
ゲンゾウの視線を受け、コウサクが残酷な真実を告げる。
「袋栽培で芋や野菜は育つ。だが、閉鎖環境の少量の培養土は、数回の収穫で完全に栄養が枯渇して死ぬ。農園を維持するためには、土が死ぬ前に、あの分厚いシャッターの外へ出て、本物の地面から新しい土を命がけで掘り出し、屋上へ定期的に補給し続ける必要がある」
農業を始めるということは、安全なモールに立てこもることをやめ、外の死地へ継続的に踏み出すという果てしない苦難を受け入れることだった。
「絶望して死を待っていた過去のお前らに、その現実を突きつけて誰が動く?」
ゲンゾウが静かに言った。
「外の死地に出ろ。なんて言える状況じゃなかった。だから、俺たちはあえて農業という選択肢を封印していた」
リーダーたちは決して無能だったわけではない。コミュニティの士気を完全に折らないために、動けなかったのだ。
ゲンゾウは、ハルトとタツヤ、そして老人たちの顔を見回し、最後にニヤリと笑った。
「だが……今の士気なら、やれるかもしれねえな」
その日を境に、大人たちがついに立ち上がった。
ゲンゾウの指揮のもと、階段ではなくエレベーターシャフトを利用した「手動の滑車システム」が組み上げられ、男たちがロープを引いて一気に土を引き上げ始めた。
農業に不可欠な水問題に対しては、バールで屋上の『高架水槽(消火・雑用水)』のバルブをこじ開けた。
そして女性陣が、ホームセンターから持ち出したカラフルな『子供用ビニールプール』を屋上いっぱいに広げ、貯水網を構築した。
殺伐としたディストピアのコンクリートの上に、赤や青、黄色の鮮やかなビニールプールが並ぶ光景。
それは間違いなく、生存者たちが自らの手で作った希望の景色だった。
――それから、五ヶ月後。
季節は巡り、秋の気配が漂い始めていた。ユキは妊娠九ヶ月を迎え、臨月が間近に迫っている。
廃材とビニールプールが並ぶ屋上は、立派な農園へと成長していた。
後々カロリー源となるイモ類はもうすぐ収穫の時を迎える。
成長の早い葉物野菜や、豆類など数回作物の収穫を終えている。
コウサクの「土の枯渇」の警告を受けたゲンゾウ率いる探索隊は、農園の命脈を保つため、決死の連携でモールの外縁部へ突撃し、土を安全に掘り出しては滑車で屋上へ引き上げ、痩せたプランターへ継続的に土を補給する搬入ルートをすでに構築し終えていた。
死地へ踏み出すという恐怖は、未来を繋ぐための日々の労働によって完全に克服されていた。
ある夕暮れ時。外からの命がけの土の補給によって育った、色鮮やかなミニトマトが収穫された。
アキから赤いトマトを受け取り、ユキが美味しそうに頬張る。甘酸っぱい果汁に、彼女の顔にふわりと笑顔が咲いた。
「芋が育つまで、もうすぐだな」
泥だらけのゲンゾウやタツヤ、ハルトたちがそれを見て笑い合う。
絶望の砦は、自らの手で環境を維持・拡張する「希望の村」へと変化しつつあった。自分たちの子供の食料を確保し、絶対に飢えさせないというハルトの誓いは、コミュニティ全体の力によって結実しようとしていた。
ハルトとユキが希望と笑顔に包まれた。
その直後。
「あっ……」
ユキの表情が急にこわばり、手から食べかけのトマトがポロリと落ちた。
彼女は大きなお腹を抱え込むようにして、その場にうずくまる。
「ユキ!?」
ハルトが駆け寄るよりも早く、ユキの足元のコンクリートに大量の水が広がった。
予定日より数週間も早い破水である。激しい陣痛の始まり、平穏を取り戻していた屋上は、一瞬にしてパニックに陥った。
「運べ! テントへ急げ!」
ゲンゾウの怒声が響く中、ハルトとタツヤが即席の担架でユキを居住区へと運び下ろす。
青ざめた顔で苦しそうに荒い呼吸を繰り返すユキ。
知らせを聞いて駆けつけた元看護師のサワが、即座にバイタルを確認し、患部を診察する。だが、その直後、サワの顔面からサァッと血の気が引いた。
「どうした、サワさん! ユキは……赤ん坊は大丈夫なのか!」
すがるように叫ぶハルトに、サワは絶望的な表情で首を振った。
「予定より早すぎる。おそらくまだ、母体の出産準備が整っていない。極度の緊張と栄養状態のせいで、産道が硬直しているわ……!」
サワは、血のついた手でハルトの両肩を掴んだ。
「ハルト、例のリストの物資がないと、会陰切開ができない! 物理的に産道を開いて補助しなければ、赤ん坊は出てこられない。このままじゃ、数時間でユキも赤ん坊も死ぬわ!」
その無慈悲な宣告は、食料の安定という希望の絶頂にいたハルトを、再び絶望の底へと叩き落とした。
数時間のタイムリミット。
自分たちの子供を、愛する妻を、絶対に死なせはしない。
ハルトは血走った目でモールの外を睨みつけた。そこから三キロ先にある、ロストの巣窟と化した『中央病院』。
彼は、死地への決死の突入を心に決めた。




