第6話 土と絶望
ハルトが台車を押して居住区のバリケードへと駆け込んだ時、周囲はまだ深い暗闇の中だった。
彼が持ち帰った大容量のポータブルバッテリーのスイッチを入れ、LEDランタンと小型ヒーターのケーブルを繋ぐ。カチリ、という音と共に、薄暗く冷え切っていたフードコートに眩しい純白の光と、嘘のような温風が広がった。
光と熱。失われて久しかった文明の恩恵に、生存者たちが驚きに目を見張る。だが、その中心でハルトは崩れ落ちるように膝をつき、獣のような嗚咽を漏らした。
「タツヤが……俺を逃がすために、家具売り場の奥で囮に……!」
血を吐くようなハルトの報告に、フードコートは水を打ったように静まり返った。
煌々としたランタンの光は、生存者たちの顔を容赦なく照らし出していた。そこにあったのは、青白く痩せこけ、自ら動くこともなくただ緩やかな死を待っているだけの、惨めな生ける屍たちの顔だった。
リーダーのゲンゾウは、眩しい光の下で自分たちの惨状を直視し、深く息を吐き出した。そして、手にしていた鉄製のバールをギリッと強く握り直す。
「……ガキ一人が、未来のために張った命だ。大人の俺たちがこの温風に当たって寝てるだけなら、もう死体と同じだ」
ゲンゾウの低く重い声に、数人の男たちが弾かれたように立ち上がった。彼らの手には鉄パイプやハンマーが握られている。誰一人、言葉は発さない。
だが、その目に宿る光は明確な意志を持っていた。
夜明け前。ゲンゾウを先頭にした決死隊がバリケードを越え、家具売り場の深部へと突入した。
現場に辿り着いた彼らの目に飛び込んできたのは、狂乱状態のロストの群れだった。十数体の死者たちは暗闇の一点に折り重なるように群がり、異常な執着で何かを食い破ろうとしている。
獲物であるタツヤに完全に気を取られている彼らは、背後から迫る大人たちの接近に全く気づいていなかった。
「今だ! 潰せ!」
ゲンゾウの怒声と共に、決死隊の完璧な奇襲が決まった。大人たちは恐怖に顔を引き攣らせ、泥と返り血にまみれながらも、無防備な背中を晒す群れに狂ったように武器を振り下ろし、凄惨な乱戦の末にロストを完全に殲滅した。
砕け散ったガラスと死体の山の奥。そこには、崩落した瓦礫の隙間にキャスター付きワゴンを巧みにはめ込み、即席のバリケードを構築して無傷で耐え抜いていたタツヤの姿があった。
不良少年は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも強気に「……遅えよ、クソジジイども」と悪態をつき、ハルトはその場に泣き崩れながら彼を強く抱きしめた。
タツヤの生還と、光と熱の確保。居住区にはかつてないほどの安堵と、かすかな希望の空気が流れていた。
だが、その日の午後。ゲンゾウはハルトをテントの外へ呼び出し、残酷な現実を突きつけた。
「光と熱が手に入っても、腹は膨れない。……備蓄食料は数ヶ月で完全に底を突く」
ゲンゾウの声は重く、乾いていた。
ハルトは迷わず答える。
「なら、俺がホームセンター区画から土を運びます。屋上のスペースで芋や野菜を作れば、少しでも食料の足しになるはずだ」
だが、ゲンゾウは無情にも首を横に振った。
「やめろ。絶対に無理だ」
「なぜですか! 土ならそこに……!」
「カロリーの問題だ。俺たちの今の配給は、ただ息をして、じっと座って命を維持するだけでも精一杯の、限界ギリギリの量なんだ」
ゲンゾウは、ハルトの痩せこけた肩をきつく掴んだ。
「そんな体で、一袋何十キロもある土を抱えて、階段を何十往復もして屋上まで運ぶ? ふざけるな。畑が実るよりずっと早く、お前は間違いなく過労と餓死でぶっ倒れるぞ。それに、仮に農業ができたとしても……」
そこまで言いかけて、ゲンゾウは奥歯を噛み締め、忌々しげにモールの外の方向――分厚いシャッターの向こう側へ視線を向けた。
「……いや、何でもない。とにかく、無茶はするな。お前が死んだら、ユキと赤ん坊はどうなる。残された二人が、この先どうやって生きていけるかを考えろ」
現実を突きつけるゲンゾウの言葉には、確かな重みがあった。
だが、ハルトは奥歯を強く噛み締めた。このままじっとしていても、数ヶ月後には備蓄が尽き、全員が飢え死にするだけなのだ。生まれてくる子供に食べさせるものがない。ならば、命を削ってでもやるしかなかった。
ハルトはゲンゾウの制止を振り切り、台車を引いて単独で未開拓のホームセンター区画へ向かった。
最深部の園芸コーナーには、手付かずの土の山があるはずだ。
だがそこは、まだまともに探索もされていない危険地帯。死を覚悟して暗い通路を進むハルトだったが、やがて彼はある異変に気づいた。
無数のロストが蠢いているはずの通路に、動く影が一つもないのだ。
不気味なほど静まり返る空間。ハルトの脳裏に、数時間前の凄惨な光景がフラッシュバックする。
(……そうか)
あの夜明け。タツヤを救出するため、ゲンゾウたち決死隊と共に家具売り場の奥で奇襲し、殲滅した群れ。
彼らこそが、本来このホームセンター深部へ至るルートを塞いでいた死者たちだったのだ。
タツヤが自らを囮にし、彼に群がったところを大人たちが一網打尽にした。その命がけの行動の連鎖が、結果として、土のある場所へのルートを切り拓いていたのだ。
ハルトの目から熱いものが込み上げ、視界が滲んだ。
「無駄じゃ、なかったんだ……!」
彼は袖で乱暴に涙を拭うと、園芸コーナーに積まれた『培養土(一袋二十キロ)』を次々と台車に積み上げていった。
台車に満載の土を居住区の前まで運ぶことには成功した。だが、本当の地獄はここからだった。
電力が途絶えている以上、エレベーターは使えない。土を屋上へ運ぶには、暗く長い非常階段を人力で登り切るしかなかった。
ハルトは二十キロの培養土の袋を両腕で抱え込み、一段、また一段とコンクリートの階段を登り始める。
非常階段の入り口では、数人の生存者たちがその姿を痛ましく見守っていた。
彼らとて手伝いたい気持ちはある。しかし、極度の栄養失調状態にある彼らにとって、重労働は自らの寿命を直接削る自殺行為に等しい。手伝えば、数日のうちに確実に餓死してしまう。
彼らは歩み出ることができず、視線を落とすことしかできなかった。
誰にも頼れない、圧倒的な孤独と重力との戦い。
一往復、二往復。
ハルトの肉体は早くも悲鳴を上げていた。カロリーが圧倒的に足りていない筋肉は焼け焦げるように熱を持ち、小刻みに痙攣している。
息は千切れ、視界は白濁し、重いビニール袋を握り続けた手のひらには無数の血豆ができては潰れた。汗が目に入り、視界が歪む。
五往復目。
「ガッ……!」
非常階段の中腹で、ついにハルトの足がもつれ、硬いコンクリートの段差に両膝を打ちつけた。
抱え込んだ二十キロの土の重さが、鉛のように彼の体を床へと押し潰そうとする。肺が酸素を求めてひゅーひゅーと鳴り、意識が遠のきそうになる。
(もう、無理だ……。これ以上は、体が……)
ハルトの脳が限界を告げる。ゲンゾウの言う通りだ、このままでは本当に自分が先に死んでしまう。
だが、ハルトの朦朧とする意識の中に浮かんだのは、テントの中で膨らみ始めたユキの愛おしいお腹だった。
このまま何もしなければ、生まれてくる子供に与える食料はどこにもない。
自分は父親になるのだ。その事実が、砕けそうになる心に熱い火を灯した。
「俺が……あの子が食べるものを作るんだ。絶対に飢えさせない……!」
ハルトは、潰れた血豆から血を流しながら、鉄の手すりを力強く握りしめた。
血を吐くような切実な思いと共に、震える両足に力を込め、重力に逆らって再び立ち上がる。
泥と汗にまみれた顔を上げ、果てしなく続く非常階段のさらに上、屋上から差し込むわずかな光を目指して、ハルトは再び重い歩みを進め始めた。
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