第5話 不良少年のオルゴール
タツヤの足元に転がった懐中電灯の光が、死者たちの白濁した瞳を不気味に照らし出している。
砕け散ったガラスの残骸を踏み鳴らし、十数体ものロストがタツヤを取り囲むように包囲網を縮めていた。生者の匂いに刺激された彼らの喉から、歓喜と飢えの入り混じった粘着質な呻き声が漏れる。
タツヤが覚悟を決め、目を閉じた瞬間だった。
「うおおおおおっ!」
暗闇を引き裂く咆哮と共に、ハルトが家具売り場の死角から弾丸のように飛び込んできた。
彼は手に持った鉄パイプをフルスイングし、タツヤの背後に迫っていた大柄なロストの側頭部を粉砕した。ドゴッという鈍い音と共に、死者が陳列棚に吹き飛ぶ。
「ハルト……っ!」
「立て、タツヤ! ぼーっとしてる暇はないぞ!」
ハルトはタツヤの腕を乱暴に引っ張り上げると、その背中に自分の背中をぴったりと合わせた。
周囲はすでにロストの群れで埋め尽くされている。ハルトの参戦に気づいた死者たちが、標的を二人へと定めて一斉に飛びかかってきた。
「くそったれが!」
タツヤは落ちていた鉄パイプを蹴り上げ、空中で掴み取ると、迫り来るロストの顔面に突き立てた。
二人は背中合わせのまま、狂ったように武器を振り回した。
殴り、突き飛ばし、蹴り倒す。だが、相手は痛みも恐怖も感じない死の操り人形だ。倒しても倒しても、暗闇の奥、ソファの陰やクローゼットの中から次々と新たな影が這い出してくる。
音に引き寄せられた新手だ。その数はあっという間に二十体を超え、家具売り場の通路を埋め尽くす「死の奔流」と化していた。
ガンッ!
ハルトの振り下ろした一撃がロストの硬い頭蓋骨に弾かれ、手にした鉄パイプが「く」の字にひしゃげた。
「しまっ……!」
体勢を崩したハルトへ、別のロストが爪を立てて襲いかかる。
「危ねえ!」
タツヤが横から体当たりをかまし、そのロストを本棚へと吹き飛ばした。だが、その代償としてタツヤ自身が別のロストの突進をまともに受け、硬い木製のダイニングテーブルの角に肩を激しく打ち付けた。
「ガッ……!」
「タツヤ!」
幸いにも爪や牙は届いていない。だが、その鈍い打撲音は、彼の機動力を確実に削ぎ落としていた。
圧倒的な数と暴力の前に、二人はジリジリと家具の隙間へと押し込まれていく。
ハルトの荒い呼吸が背中越しに伝わってくる。彼も限界が近い。
(……このままじゃ、二人とも死ぬ)
タツヤは、ひしゃげた鉄パイプを必死に振るうハルトの横顔を見た。
もしここでハルトが死ねば、誰がユキを守る? 誰があの通路に置かれた台車の上のバッテリーを、暗く冷たいテントへ届けるのだ。
自暴自棄に生き、どうせこのモールで無駄に飢え死にするだけだと思っていたタツヤの命。だが今、彼の心の中には、明確な「未来への使い道」が芽生えていた。
タツヤは歯を食いしばり、足元にあった頑丈なスチール製の『キャスター付きワゴン』の縁を強く握りしめた。ユキの赤ん坊のために持ち帰ろうとしていた、あのベビーベッド代わりのワゴンだ。
「ハァアアアッ!」
タツヤはワゴンのフレームに全体重を乗せ、ロストの群れの密集地帯へ向かって力任せに押し出した。
ゴツンッ!という重い衝突音と共に、ロストたちが数体まとめて弾き飛ばされ、分厚い包囲網に一瞬だけ、人一人が通れるほどの「隙間」が生まれた。
「ハルト、行け!」
タツヤは叫び、背後にいたハルトの胸を両手で力一杯突き飛ばした。
「なっ……! ふざけるな! 一緒に帰るんだ!」
体勢を崩しながらも、ハルトは血走った目で拒絶した。彼にとって、誰かを見捨てて自分だけが生き残るなどという選択肢は存在しない。
だが、タツヤは不敵な笑みを浮かべ、わざと憎まれ口を叩いた。
「勘違いすんな。俺はどうせ、こんなカビ臭い場所で長生きする気なんてなかったんだよ! 足手まといなんだよ、バッテリー持ってさっさと行け!」
タツヤはポケットに突っ込んでいた手を素早く引き抜いた。
その手の中に握られていたのは、先ほどワゴンの底から拾い上げた、泥だらけの小さなアクリルケース。
「ガキへのプレゼントだ! 落とすんじゃねえぞ!」
タツヤはそれを、ハルトの胸ぐらに向かって思い切り投げつけた。
ハルトが反射的に両手でその小さな箱を受け止めた瞬間、タツヤは完全にハルトに背を向け、キャスター付きワゴンを盾のように構えて走り出した。
「こっちだ、化け物ども!! 腹減ってんだろ、食ってみろや!!」
タツヤは狂ったように叫びながら、わざとワゴンを商品棚やガラスケースに激突させ、凄まじい破壊音を撒き散らしながらモールのさらに奥深く、ハルトの逃げ道とは正反対の暗闇へと駆け出していった。
『ガァアアアアッ!!』
凄まじい音に引き寄せられ、二十体を超えるロストの群れが雪崩を打って方向を変える。彼らはハルトには目もくれず、巨大な波となってタツヤの背中を追って家具売り場の奥へと消えていった。
「タツヤァアアアッ!!」
ハルトの絶叫が、暗闇の通路に空しく響き渡る。
追いかけようと一歩を踏み出したハルトの足が、ピタリと止まった。
彼の手の中には、タツヤが投げ渡した泥だらけのオルゴールがある。そして振り返れば、通路の先には、ゲンゾウが用意してくれた台車に乗った、ユキを寒さから救うための大型バッテリーがある。
タツヤが命を賭けて繋いだもの。自分がここでタツヤを追って死ねば、ユキも、腹の中の赤ん坊も確実に死ぬ。
「……うぁあああっ……!」
ハルトは獣のような嗚咽を漏らし、血が滲むほど唇を噛み締めた。
そして、涙で視界を滲ませながら踵を返し、台車のハンドルを掴むと、居住区へ向けて全力で走り出した。
油を差された車輪は一切の音を立てない。それは皮肉なほどにスムーズで、ハルトの逃走を助けていた。
一方、モールの深部へと走るタツヤの息は、すでに限界に達していた。
「ハァッ……ハァッ……!」
打撲を負った肩が炎のように熱く、呼吸をするたびに肺が悲鳴を上げる。
ワゴンを盾にして無我夢中で走り続けたが、モールの複雑な構造と暗闇が、彼の方向感覚を狂わせていた。
やがて、タツヤの足が急ブレーキをかけた。
「……マジかよ」
懐中電灯を失った暗闇の中でも、そこが「行き止まり」であることはわかった。
目の前には、パンデミック初期の暴動で破壊されたのか、天井から崩落した巨大な鉄骨と瓦礫の山が通路を完全に塞いでいた。左右は強固なコンクリートの壁。
完全に退路を断たれた。袋小路だ。
ズリッ……ズルズルッ……。
振り返ると、数十メートル後方の暗闇から、無数の摩擦音と呻き声が押し寄せてくる。
ロストの群れだ。逃げ場のないタツヤを確実に仕留めるため、彼らは通路幅いっぱいに広がり、巨大な肉の壁となって這い寄ってきていた。
死が、物理的な質量を持って彼に迫っている。
視点が交差する。
薄暗いモールの通路を、台車を押してひたすらに走るハルト。
泥と返り血にまみれた彼の頬を、とめどなく涙が伝い落ちていた。
その時、ハルトの手元――彼が上着のポケットにねじ込んだ小さなアクリルケースから、微かな音が鳴り始めた。
タツヤがハルトへ投げつけた際の衝撃で、ゼンマイのストッパーが外れたのだ。
ポロン……ポロロン……。
無機質で血生臭いモールの暗闇に、澄み切った、場違いなほど美しいオルゴールの音色が響き渡った。
それは、誰もが知る穏やかな子守唄のメロディだった。
「タツヤ……っ、タツヤ……!!」
ハルトは泣き叫びながら、その優しい音色と共に、未来を待つユキの元へと走り続ける。
自暴自棄だった不良少年が、自らの命と引き換えに守り抜いた「未来への灯火」を、絶対に絶やさないために。
──崩落した瓦礫の前に立ち尽くすタツヤ。
『アァァア……ガァアアッ!』
目の前まで迫ったロストの群れが、いよいよタツヤの全身を食い破ろうと飢えた両腕を伸ばしてくる。腐臭が鼻腔を塞ぎ、死者の白濁した瞳が彼を捉えていた。
だが、タツヤは恐怖に目を閉じることも、後ずさることもなかった。
彼は血に塗れた手で、ベビーベッド代わりのスチールワゴンの縁を力強く握り直した。それは彼が命を懸けて守り抜いた誇りであり、未来への祈りそのものだった。
タツヤの脳裏に、遠く離れたハルトの元で鳴っているであろう、あの優しいオルゴールのメロディが幻聴のように響いていた。
彼は、迫り来る無数の死者たちを真っ向から見据え、口の端を吊り上げて不敵に笑った。
「……少しは、マシな世界に産まれてこいよ」
呟きが暗闇に溶けた直後、無数の赤黒いシルエットが一斉に宙を舞い、彼に向かって跳躍した。
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