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第4話 光を求めて

アキが不格好な手縫いのベビー肌着をユキに手渡したあの夜から、およそ二週間が経過していた。


モールの1階居住区であるフードコートを覆っていた、あの息が詰まるような絶対的な同調圧力と死への諦観は、劇的に変わったわけではない。




相変わらず生存者たちは薄暗い非常用照明の下で無言のまま冷たい缶詰を啜り、来るはずのない明日を待っている。




だが、あの分厚く凍りついていた空気に、確かに目視できるほどの「ヒビ」は入っていた。


配給の列に並ぶユキに対し、あからさまな舌打ちや汚物を見るような冷酷な視線が向けられることはなくなった。




すれ違いざまに、年配の女性がユキの膨らみ始めたお腹へ、ほんの一瞬だけ気遣うような視線を落とす。




ある朝には、誰かが自分の貴重な食料の一部――未開封のビスケットが数枚――を、無言でハルトたちのテントの前に置いていった。


それは「どうせ人類は終わる」という絶望のルールに対する、ささやかな、しかし確かな反逆だった。




妊娠4ヶ月に入ったユキは、激しかったつわりが少しずつ落ち着き始めていた。問題は寒さだった。




空調の止まったフードコートの床から這い上がってくる冷気は、妊婦の体力を確実に奪っていく。


今はまだ秋口だが、本格的な冬が来れば、あの薄いブルーシートのテントでは到底母子ともに耐えられない。




ハルトはこの日、居住区を護る巨大な鉄製バリケードの前に立っていた。


手には先端を鋭く削った鉄パイプ。腰のベルトには懐中電灯と予備の乾電池を括り付けている。




目的は、バリケードの向こう――未開拓の商業エリアにある「ホームセンター区画」への単独探索だ。




これからの季節、ユキの体を冷やさないための暖房器具と、暗いテント内を照らす長寿命のLEDランタン、それらを稼働させるための太陽光発電式大型ポータブルバッテリーを確保する必要があった。




深呼吸をし、重いシャッターの隙間から外へ出ようとしたその時。


「待て」


背後から掛けられた低く重い声に、ハルトの肩がビクッと跳ねた。




振り返ると、鈍く光るバールを手にしたリーダーのゲンゾウが立っていた。ハルトは反射的に鉄パイプを握り直す。無断での単独行動を咎められ、あるいは制止されるのだと思った。




だが、ゲンゾウはハルトを睨みつけることもなく、ただその横を通り過ぎた。


そして、バリケードの脇に立てかけられていた一台の業務用の「台車」を足で引っ掛け、ハルトの目の前へと無造作に蹴り寄せた。




「え……?」


「大型バッテリーは、手で運べるような重さじゃない。それを使え」




ゲンゾウは感情の読めない無骨な表情のまま、吐き捨てるように言った。


「重い荷物を引きずって歩けば音が鳴る。台車の車輪には油を差しておいた。……死に急ぐなよ」




ハルトが台車に視線を落とすと、四つのキャスターの軸受けには、黒く粘つく機械油がたっぷりと塗り込まれていた。これなら、暗闇のモールを移動しても車輪が軋む音は鳴らない。




ゲンゾウはそれ以上何も言わず、背を向けて居住区の奥へと歩き去っていった。健闘を祈るような言葉をかけたりは決してしない。しかし、彼の行動は間違いなく、命がけで家族を守ろうとするハルトへの「不器用なエール」だった。




「……ありがとうございます」


ハルトは、ゲンゾウの広い背中へ向かって深く頭を下げた。




「おいおい、感動の別れでもやってんのか?」


不意に、からかうような声が降ってきた。


見上げると、バリケードのシャッターの枠によじ登っていた若い男が、身軽な動作でハルトの目の前へと飛び降りてきた。




名はタツヤ。年齢は17、8歳。かつては金髪だったのだろうが、今は根元から黒い地毛がだらしなく伸びている。色褪せたパーカーに身を包んだこの不良少年は、フードコートでも斜に構え、大人たちを小馬鹿にしては単独行動をとっていたはぐれ者だ。


タツヤの手には、彼自身の背丈ほどもある長い鉄パイプが握られている。




「タツヤ……お前、なんでここに」


「勘違いすんなよ。俺はただの暇潰しだ。このカビ臭いテント村に一日中引きこもってんのにウンザリしてたところなんだよ」




タツヤはぶっきらぼうに言い放つと、ハルトから台車をひったくり、「案内しろよ」と顎で前方の暗闇をしゃくった。


素直に「手伝う」とは絶対に言わない。だが、彼の瞳の奥には、ハルトたちの姿とアキのあの夜の行動に密かに心を動かされた、不器用な少年なりの純粋な熱が宿っていた。




ハルトは少しだけ口元を綻ばせ、「足を引っ張るなよ」と短く返し、二人は連れ立ってバリケードの隙間を抜け、暗闇の広がる未開拓エリアへと足を踏み入れた。




居住区を一歩出ると、そこは完全に「死者の領域」だった。


光の届かないモールの通路は、広大ゆえに底知れぬ不気味さを漂わせている。床には逃げ惑った人々が落とした靴や、散乱した商品、そして乾ききった赤黒い血痕が点々と続いている。




二人は懐中電灯の光を床に落とし、足音を殺しながらホームセンター区画へと進んだ。


園芸用品の土の匂いと、行き場を失って淀んだ埃の匂いが鼻を突く。


ハルトが前方の陳列棚を警戒しながら進む中、タツヤは口では「暗くて何も見えねえ」「ホコリ臭い」と文句を垂れながらも、ハルトの死角となる背後を的確にカバーしていた。


彼は粗暴な振る舞いとは裏腹に、勘が鋭く運動神経も良かった。




道中、タツヤがぽつりと呟いた。


「……ガキが産まれたら、この息の詰まる空気も、少しはマシになるかもな」




ハルトは手を止め、タツヤの横顔を見た。斜に構えて周囲を突き放していた不良少年が漏らした、新しい命に対する不器用な期待。


彼もまた、未来を諦めきったあの閉塞した世界が壊れることを、心の底で待ち望んでいたのだ。




「ああ。きっとユキも喜ぶ」


ハルトが深く頷くと、タツヤは「けっ」と照れ隠しのように顔を背けた。


キャンプ用品と防災グッズのコーナーに辿り着いたハルトは、陳列棚の奥に目的のものを発見した。黒い筐体の、車中泊などに使われる大容量のポータブル電源。そして、巨大なLEDランタンだ。




「よし……あったぞ」


ハルトは安堵の息を漏らし、重いバッテリーを台車へと乗せた。ゲンゾウの用意してくれた台車がなければ、これを持って帰り道を無音で歩くことなど不可能だっただろう。




ハルトはバッテリーのスイッチを入れ、試しにLEDランタンのケーブルを繋いでみた。


カチリ、という小さな音と共に、眩いばかりの純白の光が周囲の暗闇を鮮やかに切り裂いた。




「うおっ、まぶしっ!」


タツヤが目を細め、腕で光を遮る。


「……すげえな。こんな明るい光を見たの、何ヶ月ぶりだ?」




ランタンの光は、二人の顔についた汚れや、周囲の陳列棚の埃までをもくっきりと照らし出していた。


ささやかな達成感を分かち合い、ハルトはランタンのスイッチを切って台車に積み込んだ。




「さて、あとはこれを固定して……タツヤ、そっちの荷締めベルトを……」


ハルトが振り返った時、背後にいるはずのタツヤの姿はなかった。




「タツヤ……?」


周囲を見回すが、暗闇の中に少年のシルエットは見当たらない。嫌な予感が胸をざわつかせた。




その頃、タツヤはハルトから離れ、ホームセンター区画のさらに奥に隣接する「大型家具売り場」へと一人で足を踏み入れていた。


懐中電灯の細い光を頼りに、ソファやダイニングテーブルが迷路のように配置された展示スペースを進んでいく。


彼の目的は、明確だった。赤ん坊を寝かせるための「ベビーベッド」を持ち帰ることだ。




(あの冷たい床じゃ、赤ん坊が可哀想だろ)


タツヤは心の中でそう悪態をついた。大人たちは「どうせ死ぬ」だの「備蓄がもたない」だのと理屈ばかり捏ねるが、タツヤに言わせればそんなものは知ったことではない。


産まれてくる命には、それにふさわしい温かい場所が必要だ。




ハルトとユキの驚く顔を想像し、タツヤの足取りは自然と早まっていた。彼なりの不器用なサプライズだった。


やがて、埃を被ったベビー用品の展示スペースに辿り着いた。懐中電灯の光が、純白の木枠で作られた立派なベビーベッドを照らし出す。




「よし、あったぞ……」


タツヤは鉄パイプを床に置き、木枠に手を掛けた。だが、すぐに顔をしかめる。




一年間、湿気と乾燥を繰り返したモールの環境下で、木製のフレームはひどく傷み、あちこちの接合部がグラグラと緩んでいた。それに、改めて実物を前にすると大きすぎる。あれではハルトたちの狭いテントには到底入らない。




「ちっ、これじゃ使えねえか……」


タツヤは舌打ちをし、代わりになるものはないかと懐中電灯の光を周囲に巡らせた。




目についたのは、隣の収納家具コーナーに置かれていた、マットな質感のスチール製キャスター付きワゴンだった。




「……これなら、いけるか」


タツヤはワゴンに近づき、その深さと頑丈な作りを確認した。中に毛布を敷き詰めれば、立派なベッド代わりになる。何より小回りが利くから、いざという時は赤ん坊を乗せたまま押して逃げることもできる。




「よし、これをもらっていくか」


ワゴンを引き出そうと手を伸ばした時、そのすぐ隣の商品ディスプレイに置かれている小さな箱が目に留まった。


透明なアクリルケースに入った、ゼンマイ式のオルゴールだった。




「……こんなもんまで置いてあんのか」


タツヤは少し迷ったが、それも一緒にワゴンの底へ入れた。胎教には音楽が良いと、昔テレビか何かで聞いたことがあった。こんな音のない乾ききった世界に産まれてくる赤ん坊に、せめて綺麗な音くらい聞かせてやりたいと思ったのだ。




タツヤは鉄パイプを小脇に抱え、ワゴンの縁に両手を掛けた。


そのまま手前に引き出そうと、体重をかけてグッと引っ張る。


――その純粋な善意が、最悪の引き金を引くことになるとも知らずに。




ガリッ、と硬い音がした。


一年間放置されていたワゴンの車輪が、床に落ちていたタイルの破片に深く引っ掛かったのだ。


タツヤが力任せに引いた反動で、ワゴンは前に進む代わりに、大きくバランスを崩して横へと傾いた。




「あっ――」


制止する間も無く、重いワゴンは隣に配置されていた「大型ガラスディスプレイ」の陳列棚へ、そのスチールの角を激突させた。




ガシャアアアアンッ!!


パリンッ!! バリバリバリッ!!


粉々に砕け散る分厚いガラスの破砕音と、棚の上の商品が滝のように雪崩れ落ちる轟音が、静まり返った家具売り場のフロアに凄まじい反響を伴って鳴り響いた。




タツヤの全身の血液が、一瞬にして氷点下まで凍りついた。


息が止まり、見開かれた瞳孔が絶望に収縮する。やってしまった。この死の世界において「大きな音を立てる」ということが何を意味するのか、嫌というほど知っていたはずなのに。




静寂を取り戻した暗闇の中で、タツヤは震える手を伸ばし、床に落ちた鉄パイプを拾い上げようとした。


だが、静寂は数秒と持たなかった。




ズル……、と。


すぐ斜め前にある、展示用のL字型ソファの「裏側」から、布が擦れるような低い音がした。


ガタッ……。


右手のクローゼットの扉が内側から押し開けられ、ギーッと嫌な蝶番の音を立てる。




『ガァ……』


『アァァア……』


家具売り場の至る所から、おぞましい呻き声が連鎖的に上がり始めた。


ソファの陰、ベッドの下、巨大な棚の隙間。光の届かないこの快適な家具の迷宮は、彼らにとって絶好の「寝床」だったのだ。




長期間休眠状態にあった十数体ものロストの群れが、タツヤの立てた轟音によって一斉に深い眠りから目を覚ました。




「嘘だろ……」


タツヤが懐中電灯を振り向けると、光の円の中に、白濁した死者の瞳がいくつも浮かび上がった。


一人、また一人と、関節を不自然に鳴らしながら立ち上がる死者たち。




彼らの首は一様に、音源であるタツヤの方角へと向けられていた。


暗闇の中で、無数の赤黒いシルエットがタツヤを取り囲むように起き上がっていく。




一方、遠く離れたホームセンター区画でバッテリーの固定を終えようとしていたハルトは、家具売り場から響き渡ったガラスの破砕音に血相を変えていた。




「タツヤ!!」


ハルトは台車を放り出し、鉄パイプを握りしめて家具売り場へと全速力で駆け出した。


陳列棚を蹴り飛ばし、迷路のような通路を最短距離で駆け抜ける。頼む、無事でいてくれ。あの不器用で優しい少年を、こんなところで死なせるわけにはいかない。




だが、息を切らして現場の入り口に飛び込んだハルトの目に飛び込んできたのは、あまりにも絶望的な光景だった。


砕け散ったガラスの残骸の奥。




タツヤの目の前で、十数体ものロストの群れが、彼を囲むように完全に退路を塞いでいた。逃げ場はどこにもない。休眠から目覚めた死者たちが、生者の匂いに歓喜の喉を鳴らし、ゆっくりと、確実に包囲網を狭めていく。




「ハル、ト……」


立ち尽くすタツヤの手から懐中電灯が滑り落ち、光が床を転がる。


狂乱の暗闇の中で、不良少年の命の灯火が、今まさに吹き消されようとしていた。

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