第3話 最初の一針
暗闇の厨房に、古い小麦粉の匂いをねじ伏せるほどの強烈な腐臭が充満していく。
『ガァ……ルル……』
首筋の肉がえぐれた元従業員のロストが、月明かりに照らされた冷たいタイルの上を這い寄ってくる。粘着質な血の混じった唾液が、顎からポタポタと落ちていた。
ユキの背中はすでに厨房のステンレス製シンクに張り付いていた。逃げ場はない。喉の奥で悲鳴が凍りつき、ガクガクと震える両手で、まだ膨らんでもいない自分のお腹を必死に覆い隠すことしかできなかった。
ロストの黒く変色した爪が、ユキの足首に触れようとした、その瞬間だった。
「うおおおおおっ!」
店舗跡の静寂を切り裂くような絶叫と共に、厨房の入り口から一つの影が弾丸のように飛び込んできた。ハルトだ。その手には、居住区のバリケードから強引に引き抜いてきた先端の尖った鉄パイプが握りしめられている。
ハルトは躊躇うことなくユキとロストの間に割って入り、手にした鉄パイプをロストの頭部へ向けて力任せに振り下ろした。
ガンッ! という鈍い金属音が響く。
だが、暗闇の中で放たれた素人の一撃は狙いを外し、ロストの肩口を浅く打つにとどまった。体勢を崩したハルトの足が、古い油の染み付いたタイルで無様に滑る。
『ギァアア!』
獲物を阻まれたロストが、怒り狂ったような叫び声を上げてハルトへ飛びかかった。強烈な腐臭と、異常なまでの膂力がハルトを押し倒す。二人の体は床を転げ回り、シンク下の棚に激突して大きな音を立てた。
「ハルト!」
ユキの悲鳴が上がる。
ロストの血まみれの顎がハルトの首筋へ迫る。ハルトは横に倒れたまま、必死に鉄パイプの柄を両手で握り、ロストの喉元に押し当てて牙を防いだ。
ギリギリと骨が軋む音がする。感染者の力は恐ろしく強く、ハルトの腕は限界までプルプルと震えていた。
噛まれれば終わる。死の恐怖がハルトの脳髄を麻痺させそうになる。だが、その腕のすぐ向こう側で、腹を抱えて震えるユキの姿が視界の端に映った。
(死ぬことよりも…彼女を失うことの方がずっと恐ろしい)
「俺の子に……ユキに触るなっ!!」
ハルトは血を吐くような絶叫を上げ、火事場の馬鹿力でロストの体を撥ね除けた。仰向けに転がったロストの上へ馬乗りになると、鉄パイプを両手で握り直し、その頭部へ向けて何度も、何度も、狂ったように振り下ろした。
グチャ、メチャッ、というおぞましい音が暗闇に響き渡る。
動かなくなっても、ハルトは殴るのをやめなかった。返り血が顔に飛び散り、呼吸がゼイゼイと千切れそうになるまで、彼はただ無心で腕を振り続けた。
やがて鉄パイプが手から滑り落ち、カラン、と虚しい音を立てて転がった。
「ハァ……ハァ……ッ」
ハルトは激しく肩で息をしながら、動かなくなった肉塊から転がり落ちるようにして離れた。そして、四つん這いのまま、這うようにしてユキのもとへすり寄った。
「ユキ……怪我は、ないか……?」
腰を抜かして座り込むユキの体を、泥と血にまみれた腕で強く抱きしめる。ハルトの体は激しい戦闘の余韻と恐怖で、小刻みに痙攣していた。
「ごめん……お前を、独りにするつもりじゃなかった」
ハルトの目から大粒の涙が溢れ、ユキの肩を濡らした。
「医者もいない、こんな地獄で産ませたら、お前が死んでしまうと思った……。でも、違った。お前を失うのが怖いからって、一番大切なものを切り捨てようとした俺が間違ってた」
ユキは目を見開いた。震えるハルトの腕の力強さと、不器用な言葉の羅列の中に、彼の嘘偽りのない狂おしいほどの愛情が詰まっていた。彼は保身のために堕胎を迫ったわけではなかった。本当に、心の底からユキの命を案じてくれていたのだ。
「俺も一緒に守る。何があっても、二人を死なせやしない」
その命がけの誓いを聞いた瞬間、ユキの中で張り詰めていた糸がふつりと切れた。
彼女は泣きじゃくりながら、ハルトの泥だらけの背中に腕を回し、その胸に顔を埋めた。冷え切った廃墟の厨房で、互いの体温だけが、暗闇を照らす唯一の光だった。
二人の間にあった決定的な亀裂は、涙と共に完全に溶け去っていた。
翌朝。
薄暗い照明が点くモールの1階居住区に、重苦しい足音が響いた。
泥とドス黒い返り血にまみれたハルトが、疲れ果てたユキを背負って帰還したのだ。
その凄惨な姿に、配給の列に並ぼうとしていた生存者たちは息を呑み、一斉に道を空けた。昨夜の彼らが見せた露骨な嫌悪や非難は、ハルトが纏う常軌を逸した殺気と気迫の前に沈黙していた。
騒ぎを聞きつけ、リーダーのゲンゾウと、救急箱を持ったサワが進み出てきた。
ゲンゾウの手には、やはり鈍く光るバールが握られている。朝が来た。約束の「堕胎か追放か」の期限だ。
「……決めたか、ハルト」
ゲンゾウが重い声で問い詰める。サワは感情の読めない視線で、ユキの顔色を窺っていた。
ハルトはユキをゆっくりと壁際のプラスチックチェアに座らせると、振り返り、ゲンゾウたちを、そして遠巻きに見つめる数十人の生存者たちを真正面から睨み返した。
「堕ろさない」
その声は掠れていたが、底知れぬ力強さを宿していた。
「俺が食い物を探す! 俺が戦う! だから……こいつと腹の子には、指一本触れさせない!」
それは、現状維持という名の緩やかな死に浸りきっていたコミュニティ全体に対する、明確な宣戦布告だった。誰も未来のための労力を払おうとしないなら、俺が一人でこの命を養ってやるという狂気じみた決意。
圧倒的な同調圧力と、「生き残るための正論」がハルトたちを押し潰そうと空気を重くしていく。ゲンゾウがバールを握る手に力を込め、何かを言いかけた、その時だった。
ギシ、と。
静まり返ったフードコートの片隅で、プラスチックの椅子が鳴った。
ハルトが視線を向けると、ひたすらに無関心を貫き、虚ろな目で缶詰を啜っていたあの老婆、アキがゆっくりと立ち上がるところだった。
彼女は曲がった腰を引きずるようにして、重い足取りでハルトとユキの前へ歩み寄ってきた。周囲の生存者たちは、予想外の老女の行動に戸惑い、ただ沈黙して見守っている。
アキはユキの前に立つと、シワだらけの震える手を懐へ入れた。
そして、小さな布の塊を取り出し、ユキの冷え切った両手にそっと握らせた。
「え……?」
ユキが手元に視線を落とす。
それは、真っ白な布で作られた、小さな小さな肌着だった。
よく見ればそれは既製品ではない。アキが清潔な下着の生地をハサミで解体し、一晩かけて手縫いで繋ぎ合わせたものだった。
縫い目はガタガタで、ところどころ糸が引き攣れている。暗い豆電球の下で、老眼の目を細めながら、一針一針必死に縫い上げたことが痛いほど伝わってくる不格好な仕上がりだった。
「……目が悪くてね、少し歪になっちまった。体を、冷やさないようにしなさい」
アキはそう言うと、皺くちゃの顔を綻ばせ、ユキの頭を優しく撫でた。
ハルトは言葉を失った。
この備蓄を食いつぶすだけの絶望の砦で、誰もが「どうせ人類は終わる」と未来を放棄していたこの場所で。アキのその行動は、生まれてくる命に対する明確な『祝福』だった。
不格好な縫い目は、この死を待つだけの場所で繋がれた、初めての未来だった。
「おばあちゃん……ありがとう……っ」
ユキは小さな肌着を胸に抱きしめ、堪えきれずに嗚咽を漏らした。ハルトもまた、ボロボロと涙をこぼしながら、アキに向かって深く頭を下げた。
その光景を前に、ゲンゾウは握りしめていたバールをゆっくりと下ろした。彼にはもう、狂気の若者と、未来を祝福する老女を制圧する理由を見つけられなかった。
サワは複雑な表情で目を伏せ、小さくため息をついた後、救急箱の留め金をカチャリと外してユキのバイタルを診る準備を始めた。
周囲を取り囲んでいた生存者たちは、予想外の光景を前にただ押し黙っていた。彼らの目に急に希望や温かさが宿ったわけではない。しかし、前日まで向けられていた冷酷な拒絶の刃は、明らかな戸惑いによってわずかに鈍っていた。
「どうせすべて終わる」という、このコミュニティ全体に蔓延していた分厚い諦観。
その冷たく凍りついた空気に、今、ほんのわずかなヒビが入ったのだ。




