第2話 拒絶と孤独
妊娠の発覚から一夜が明け、フードコートの空気は決定的に変質していた。
元々存在していた他者への無関心は、明確な「拒絶」へと姿を変えていた。配給の列に並ぶハルトとユキに向けられるのは、遠巻きな非難と怯えの視線だ。二人は居場所を失い、居住区の最も端にある薄暗い一角へと追いやられていた。
そこへ、リーダーのゲンゾウが数人の男たちと共に歩み寄ってきた。男たちの手には護身用の鉄パイプなどが握られているが、威圧するためというよりは、皆一様に重苦しく視線を伏せていた。
ゲンゾウはハルトたちの前に立つと、深く淀んだ目を向け、絞り出すように言った。
「……残酷なことを言うが、堕ろしてもらうしかない。拒むなら、モールの外へ出ていってくれ」
その声に悪意はなかった。あるのは、数十人の命を背負うリーダーとしての重圧と、どうしようもない苦渋だけだった。
「ふざけるな!」ハルトは弾かれたように立ち上がり、ゲンゾウの胸ぐらを力任せに掴んだ。
「今外に放り出されるなんて、死ねと言っているのと同じじゃないか! なぜそこまで……」
ゲンゾウは抵抗せず、ただ悲痛な顔でハルトを睨み返した。
「俺だって鬼にはなりたくない。だがな……」
ゲンゾウは、ハルトの手をゆっくりと外した。
「備蓄はもう底を突きかけてるんだ。妊婦には今の倍の食料と水が要るし、赤ん坊が産まれても食いつぶすばかりで生産には貢献できない。それに、万が一シャッターを破られた時、走れない妊婦や赤ん坊を誰が背負って逃げる? 俺たちにはもう、自分以外の命を余分に背負うだけの『力』が残ってないんだ。このままじゃ、ここにいる全員が共倒れになる。老人たちもだ」
「勝手なことを言うな!」
ハルトは血走った目でゲンゾウを睨みつけた。
「生産に貢献できないって……そもそもあんたたち、今まで自分から食べ物を作ろうなんて試みもしなかったじゃないか! 屋上で野菜を作ろうって話が出た時も、どうせ人類は終わりだって諦めて、ただ缶詰を食い潰してきただけだろ! なのに今更それを理由に、ユキの……俺たちの子を殺せって言うのか!」
ハルトの悲痛な叫びに、ゲンゾウは反論できず、ただ苦しげに顔を歪めた。
皆の命を預かっている以上、コミュニティを守らなければならない。だが、ハルトの言う通り、彼らが未来への努力を放棄したツケを、一番弱い立場のユキに払わせようとしているのも事実だった。
「……明日の朝までに決めてくれ。処置はサワに頼んである」
ゲンゾウが重い声で告げた直後、彼の背後から救急箱を持ったサワが静かに進み出た。彼女はハルトの怒りと絶望に満ちた視線を受け止めても、微塵も動じなかった。
「仮に食料の問題が解決したとしても、結論は同じよ、ハルト」
「サワさん、あんたまで……! あんたは元看護師だろ、命を助けるのが仕事じゃないのか!」
「だから言っているのよ」
「──医者もいない、抗生物質もない、輸血パックもない。そんな不衛生な環境で出産を強行すれば、ユキは間違いなく失血か感染症で死ぬわ。産ませることは、彼女を殺すことと同じなのよ」
その宣告は、ハルトの脳天をハンマーで殴りつけたような衝撃をもたらした。
目の前が真っ暗になり、膝から崩れ落ちそうになるのを必死に堪える。ゲンゾウに対する正論の反論も、サワの冷徹な医療的見地を前では無力だった。
愛する彼女自身が死ぬという現実に、ハルトの心は確実に粉砕された。
命を宿すことが、ここでは死刑宣告と同じだった。
周囲をブルーシートで覆っただけの、二人きりの薄暗いテント。
空調の止まった密閉空間には、カビと汗の染み付いた毛布の匂いが淀んでいる。
ハルトは頭を抱え、震える声で沈黙を破った。
「……サワさんの言う通りだ」
テントの隅で膝を抱えるユキの肩が、ビクッと跳ねた。
「ゲンゾウさんのやり方は残酷だ。俺たちも何もしてこなかった。でも……サワさんの言葉だけは真実だ。ここで産めば、お前は死ぬ」
ハルトの目から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。それは自己保身の涙ではなかった。愛する者が苦しみながら死んでいく未来を突きつけられ、何もできない己の無力さに対する、血を吐くような絶望の涙だった。
「医者も薬もないここで産むのは、お前が死ぬってことだ! 俺はお前を失いたくない、だから……堕ろすしかないんだよ!」
泣き崩れ、すがるように伸ばされた彼の手を、ユキは怯えたように避けた。
お腹を庇うようにして、小動物のように後ずさる。
腹に宿った小さな命への母性に目覚め始めていたユキにとって、その言葉は決定的な「拒絶」に他ならなかった。
世界中が敵に回っても、彼だけは味方でいてくれる。一緒に、この命を守ろうと言ってくれる。そう信じていた。信じていたのに。
「……あなただけは、一緒に守ってくれると思ったのに」
ユキの目から静かに一筋の涙が伝い落ちる。深く傷ついたその声は、ハルトの胸を鋭い刃のように切り裂いた。二人の間にあるわずかな距離が、今は絶対に埋められない巨大な亀裂となって横たわっていた。
その夜の深夜。
明日の朝には、サワによる堕胎処置が迫っている。
居住区全体が死んだように寝静まる中、ユキは音を立てずに毛布を抜け出した。隣では、泣き疲れたハルトが浅い呼吸で眠っている。
彼のやつれた寝顔を最後にもう一度だけ見つめ、ユキは静かにテントを出た。
監視の目を盗み、居住区の境界に築かれたバリケードのわずかな隙間をすり抜ける。そこから先は、安全が確保されていない未開拓の商業エリアだ。
それから数十分後。ハルトはふと目を覚ました。
隣にあるはずの温もりがなく、冷え切った毛布だけが残されていることに気づいた瞬間、彼の心臓は早鐘のように打ち始めた。
「ユキ……?」
返事はない。血相を変えてテントを飛び出したハルトは、暗闇のモール内を狂ったように探し回り始めた。
彼が血眼で探すその頃、ユキは――。
安全圏外にある「旧生パスタ専門店」の店舗跡に身を隠していた。
かつては家族連れや恋人たちで賑わい、笑顔があふれていたであろうその場所も、今は無残に荒れ果てている。厨房の壁には「焼きたてパンと茹でたてパスタ!」と書かれた陽気なポップが、虚しく色褪せて貼られていた。
外からの青白い月明かりだけが、割れた窓ガラス越しに冷たいタイルの床を照らしている。
ユキは厨房の片隅に座り込み、膝を抱えた。
冷え切った床の感触が、彼女の孤独をより一層際立たせる。まだ膨らんでもいない平らなお腹を両手でそっとさすりながら、彼女は声を殺して泣き続けた。
「ごめんね、ごめんね……」
誰からも望まれない命。父親にすら拒絶された命。
それでも、自分だけはこの子を守る。たとえこの冷たい廃墟で孤独に飢え死にすることになっても、愛する人から逃げ続けてでも。
ユキは暗闇の中で、静かに、しかし決して折れない決意を固めていた。
静寂に包まれた厨房。
ユキが袖口で涙を拭い、小さく息を吐き出した、その時だった。
古い小麦粉の匂いに混じって、鼻の奥にまとわりつくような生暖かい腐臭が漂ってきた。
『ズル……ズル……』
背後にある、光の届かないバックヤード(従業員用通路)の暗がりから、微かな異音が響いた。
靴底を硬い床に擦りつけるような、不規則で重い足音。
それに混じって、喉の奥で粘着質な血が泡立つような、低い呻き声が聞こえた。
『ガァ……ルル……』
ユキの全身の血液が、一瞬にして凍りついた。
息を呑み、目を見開いたまま振り返る。
バックヤードの漆黒の闇の中から、不気味なシルエットがゆっくりと這い出てきた。
休眠状態にあった一体のロストが、ユキの微かな声と匂いに反応して目を覚ましたのだ。
月明かりに照らされたその姿は、かつてこの店の従業員だったのだろうか、ボロボロになった黒いエプロンを身につけ、首筋からは赤黒い肉がごっそりと欠落していた。
逃げ場のない密室の厨房。
這い寄る死の気配を前に、ユキの悲鳴は恐怖で喉の奥に凍りつき、音になることなく暗闇に呑み込まれた。
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