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第1話 鼓動

前作「帝国の死神と呼ばれる俺の嫁候補が全員僻地に追放される件について」も完結保証で連載中です!

ぜひご覧ください。

崩壊から1年が経った。季節が巡っても、世界が元の姿を取り戻すことはなかった。


テレビもネットもとうに沈黙し、モールの外をうごめいているのは、音と光に群がる「ロスト」と呼ばれる感染者たちだけだ。




自衛隊のヘリコプターが最後に上空を飛んだのはいつだっただろうか。


空調の止まった巨大な密閉空間には、何十人もの洗われない体臭と、行き場を失った埃の匂いがねっとりと重く淀んでいた。




あとから逃げ込んできた者誰もが顔をしかめたその異臭も、今では日常の一部だ。嗅覚すらも、緩やかな死に向かって麻痺しきっている。




ハルトは薄暗いフードコートのプラスチック製チェアに腰掛け、虚無的に宙を見つめていた。冷え切った硬い座面が容赦なく尻から体温を奪っていくが、それに抗って姿勢を正す気力もない。




彼らが立て籠もっているのは、郊外の巨大ショッピングモールだ。分厚いシャッターと商品棚のバリケードで封鎖されたこの空間は、安全であると同時に、息の詰まるような牢獄だった。




生存者は数十名。自ら外へ出て死ぬ勇気もないが、明日への希望もない。


屋上に土を運び込んで食料を生産しようという案が過去になかったわけではない。だが、


「どうせ人類はもう終わりだ」


「畑を作って数年長く生き延びたところで、何の意味があるのか」


というどうしようもない諦めが、彼らからすべての気力を奪っていた。




未来のための労力など誰も払おうとはしない。ただ備蓄を食い潰し、いずれやってくる飢餓と死を待つだけの集団。それがこのモールの現状だった。




節電のため、照明は最低限しか点いていない。


薄暗闇の中、頭上には『笑顔あふれるファミリーモール!』と書かれた色褪せたポスターが、乾ききったテープで無残に剥がれかけている。




その隣には、半年前にバッテリーが切れ、針の止まった巨大なからくり時計が、ピエロの滑稽な笑顔のまま生存者たちを見下ろしていた。




夕刻の配給の時間。長机に等間隔で座った人々は、誰一人として言葉を交わさない。


ハルトの目の前には、配給された牛肉の大和煮の缶詰がある。温める燃料はなく、表面には白く固まった脂が分厚い層を作っていた。




斜め向かいの席では、アキと呼ばれる老女が、サビの浮いたスプーンで機械的に缶詰の底を引っ掻いている。ギシ、ギシという金属音が、静まり返ったフードコートに等間隔で響く。誰も他の人間のことなど気にしていない。




「ユキ、俺の乾パンも食えよ。最近、全然食べてないじゃないか」


ハルトは声を潜め、隣に座る小柄な恋人に自分の配給分を押しやった。


ユキはひどく痩せ細り、蛍光灯のわずかな光の下でも顔色が悪いのがわかる。うつむく彼女の目の下には、色濃いクマがどっぷりと張り付いていた。




「ううん……いい。ありがとう、ハルト」


ユキは力なく首を振り、乾パンを押し返した。声がひどく掠れている。




「いいってなんだよ。ここ数日ずっと配給を残してるだろ。栄養失調で倒れたらどうするんだ」


「少し、胃が疲れているだけ…心配しないで」


無理に笑いかけるユキだったが、直後、急に口元を両手で覆い、身を大きく屈めた。




「ウッ……」


押し殺したようなえずき。缶詰から漂う、酸化した脂と血生臭い匂いに当てられたらしかった。ユキの肩が小刻みに震え、必死に胃の底からの逆流を堪えている。




「おい、大丈夫か? やっぱどこか悪いんじゃないか。サワさんに診てもらおう」


「だ、ダメ!」




ユキは血相を変えてハルトの腕を掴んだ。骨張った指先が氷のように冷たい。


「大げさにしないで……。ただの胃もたれだから。私が病気なんてことになったら……また皆に、迷惑をかける」




彼女は怯えた小動物のような視線を周囲へ向けた。


等間隔に座る生存者たちは、ハルトとユキのやり取りに一切の関心を示さない。


誰一人こちらを見ず、黙々と冷たい脂を啜り続けている。彼らにとって他人の不調は、関わるだけ損なトラブルでしかなかった。




「でも、無理にでも食わないと……」


ハルトが焦りを滲ませて急かした時だった。


カチャリ、と。


ユキの手から滑り落ちたスプーンが、プラスチックのテーブルを弾いて床に転がった。




「ユキ?」


ハルトが顔を覗き込んだ次の瞬間、ユキの体が操り人形の糸が切れたように、ぐらりと横へ傾いた。


「おい! ユキ!」




硬いリノリウムの床に頭を打ちつける寸前、ハルトは反射的に手を伸ばし、彼女の細い体を抱きとめた。完全に気を失っており、だらりと垂れ下がった腕が鉛のように重い。


「ユキ! しっかりしろ! 誰か、誰か助けてくれ!」


ハルトの悲痛な声が響いた瞬間、空気が一変した。




ガタッ! ギギギギッ!


プラスチックの椅子が床を激しく擦る音が立て続けに鳴る。徹底した無関心を貫いていた生存者たちが、一斉に立ち上がった。




だが、彼らがハルトたちに向けた視線に心配の色はない。そこにあるのは、露骨な恐怖と嫌悪だった。




「……おい、まさか…噛まれたのか?」


「外へ出たのか? いつ発症した!?」




ざわめきが波紋のように広がり、人々は一斉に二人から後ずさる。ある男は、自らの首筋に浮かび上がった架空の痒みに怯えるように、無意識に皮膚を掻きむしり始めた。


ある女は、つい先程まで見向きもしなかった隣の人間を盾にしようと、その背中に身をすくめて隠れる。誰の脳裏にあるのも「感染」という絶対的な恐怖だけだ。




「ちがう! ユキは外になんて出てない! ただ倒れただけだ!」


ハルトが叫ぶが、狂気と疑心暗鬼に飲まれた群衆には届かない。




人だかりを乱暴に掻き分け、大柄な男が進み出てきた。生存者のリーダーであるゲンゾウだ。


その手には、鈍く光る鉄製のバールが握られている。感染の疑いがある者は、発症前に脳を破壊する。それがこの狂ったコミュニティのルールだった。




「どけ、ハルト」


ゲンゾウがバールを持ち上げ、無慈悲に歩み寄る。


「やめろ! 近寄るな!」


ハルトはユキを背中に庇ったが、全身の震えは止まらなかった。




「そこまでよ。下がりなさい、ゲンゾウ」


鋭い声とともに、救急箱を抱えた小柄な女性が割って入った。元手術室看護師のサワだ。彼女は感情を殺した鉄仮面のような顔で、ハルトとゲンゾウの間に立った。




「私が診る。ゲンゾウ、あなたはそこで見ていなさい」


サワの有無を言わせぬ態度に、ゲンゾウは舌打ちをしてバールを少しだけ下げた。




「サワさん……頼む、ユキを……」


「近寄らないで。ハルト、あなたも離れなさい」




サワは手袋をはめた手で手際よくユキのバイタルを確認し始めた。首筋の脈を取り、瞳孔を確認し、腕まくりをして噛み傷や掻き傷がないかを執拗にチェックする。


数秒の後、サワはふうと息を吐いた。




「……外傷なし。熱もない。心拍は正常より少し弱いくらい。感染の兆候はゼロよ」


その言葉に、周囲からどっと安堵の溜息が漏れた。ゲンゾウもつまらなそうにバールを下ろして背を向ける。




だが、サワの顔に安堵の色はなかった。


極度の栄養失調と、倒れる直前の激しい吐き気。それらを見たサワは、ハルトを氷のような視線で見据えた。




「ハルト。包み隠さず答えなさい。あなたたち……最後に体を重ねたのはいつ?」


公衆の面前での唐突な問いに、ハルトは目を見開いた。


「な、何を言ってるんだ急に! ユキが倒れてるんだぞ!」


「いいから答えなさい!」




サワの強い口調に、ハルトはビクッと肩を震わせた。


「……3ヶ月前だ。ここへ逃げ込んでくる前の晩に……あの、1回だけだ」




ハルトの答えを聞いた瞬間、サワの顔から急速に血の気が引いていくのがわかった。彼女は絶望したようにぎゅっと目を閉じ、小さく天を仰いだ。




「……待ってなさい」


サワは救急箱の中から、ドラッグストア区画から回収していた細長いプラスチックの小箱を取り出した。




妊娠検査薬だった。


サワは意識が戻りかけているユキを強引に立たせ、その手に検査薬を握らせると、フードコートの奥にあるトイレへと連れて行った。


残されたハルトは、床に座り込んだまま呆然としている。




検査結果を待つ数分間。


巨大なからくり時計がとうに死んでいるせいで、フードコートには異様な静寂が落ちていた。いや、完全な無音ではない。誰かの腕にはめられた安物の腕時計が刻む秒針の音だけが、やけに大きく、規則的に鼓膜を叩いてくる。




カチ、カチ、カチ。


それに呼応するように、少し離れた場所に立つゲンゾウが、苛立たしげに鉄のバールでリノリウムの床をコツコツと叩き始めた。その無機質な音が、ハルトの胃をキリキリと締め付ける。




遠巻きに見つめる数十人の視線が、無数の冷たい刃となってハルトに突き刺さる。


新たな命の誕生。かつての世界であれば無条件に祝福されるべきことだ。しかし、今は違う。




閉鎖された空間で泣き声が響き渡れば、極限状態にある生存者たちの神経は容易く削り取られる。


万が一防壁が突破され、息を潜めてやり過ごさなければならない事態が起きても、赤ん坊の泣き声を止めることはできない。




そのうえ、妊婦と赤ん坊は食料を消費するだけで、戦うことも働くこともできない。「どうせ人類は終わる」と諦めきっているこのコミュニティにとって、未来の希望など、ただ限られた備蓄を食いつぶすだけの致命的な厄災でしかなかった。




永遠にも思えた時間が過ぎ、やがてトイレの扉が開き、サワが一人で戻ってきた。


その手には検査薬が握られている。




サワの表情は、死刑宣告を読み上げる執行人のように強張っていた。


彼女は検査薬をゆっくりと持ち上げた。


小さな窓には、くっきりと二本の赤い線が浮かび上がっている。




「……陽性よ。時期からして3ヶ月に入ってるわ」


その宣告が落ちた瞬間、コミュニティの空気は、感染疑惑の時よりもさらに深い絶望と拒絶に沈んだ。


誰の口からも、祝福の言葉は出なかった。



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