第40話 条件じゃなくて
蒼真くんが遠征へ旅立ってから、一週間が過ぎていた。
オフィスでの私の業務は、表面上は何一つ滞りなく回っていた。
次のプロモーションの企画書をレビューし、定例会議で的確に課題を洗い出し、部下からの相談に淀みなく指示を出す。
マネージャーとしての『篠宮亜紀』の仮面は、完璧に機能していた。
けれど、ふとした瞬間に視線が机の上のスマホへと滑り落ちる。
画面の向こう、連日ストレート勝ちを収めて決勝へと駒を進めている彼の勇姿。そして、遠征先から届く穏やかな連絡。
『焦らなくていいので』
彼の優しい言葉が、頭の中でずっと静かに響いていた。
(一緒に暮らす……)
六歳という年齢差。
彼はまだ大学生で、現役のプロゲーマー。
付き合ってまだ半年ちょっとしか経っていないという事実。
もし一緒に住んで、お互いの生活習慣や価値観のズレでダメになってしまったら?
もし私の存在が、これから世界へ羽ばたこうとしている彼の重荷や足かせになってしまったら?
リスクヘッジと費用対効果、確率計算ばかりが頭を巡り、足がすくんで動けなくなっていた。
◇
その日の夜。
ギルドのチャットで、私が「お疲れ様です〜」と短くスタンプを送った直後のことだった。
レイナから、個別のダイレクトメッセージが届いた。
『あんた、なんか元気ないでしょ』
あまりに唐突で鋭い一撃に、心臓が跳ね上がる。
『え、そんなことないですよ!』
『嘘おっしゃい。チャットの文末のテンションが明らかに低いのよ。……明日、土曜でしょ。少しだけ直接会って話す?』
画面の文字を見つめて、息を呑む。
これまで毎晩のようにゲームの画面越しで顔を合わせ、言葉を交わしてきた仲間。
けれど、リアルの場で二人きりで会うのは、これが初めてだった。
『あたし、昼過ぎなら子供を旦那に預けて一時間くらい抜けられるから。都内のカフェでよければ』
ぶっきらぼうで、けれど確かな温もりのある誘いに、私は迷わず『行きます』と返信を打ち込んだ。
◇
翌日の午後。
駅前のオープンテラス付きのカフェで、私はアイスティーのグラスを前に落ち着かない心地で座っていた。
「――お待たせ。アキ」
頭上から降ってきた声に顔を上げると、そこに立っていたのは、涼やかな目元が印象的な黒髪ショートの女性だった。
シンプルな白シャツにワイドパンツをさらりと着こなし、シュッとした大人の色気を纏っている。
「……レイナ、さん?」
「そうよ。画面の中のアバターとあんまり変わんないでしょ?」
ふっと口元を緩めて対面の席に滑り込んできた彼女は、アイスラテを注文するなり、頬杖をついてまっすぐに私を見つめてきた。
「生のアキは、真面目で美人さんね。……で? 何があったわけ。ソラと喧嘩でもした?」
ゲームの中のチャットと全く同じ、飾らないテンポ。
けれど、目の前にいる生身の彼女から伝わってくる落ち着いた空気感に、張り詰めていた肩の力がふっと抜けていくのを感じた。
「……喧嘩じゃなくて。……一緒に住まないかって、言われたんです」
「……はあ!?」
レイナの目が一瞬で丸くなり、それから喉の奥でくくっと笑いが漏れた。
「やるじゃないの、ソラ。あの奥手な坊やが、ずいぶん思い切ったこと言ったわね。……で、あんたはどうしてそんなお通夜みたいな顔してんのよ」
「……返事、まだできてなくて」
私はグラスの水滴を指先でなぞりながら、胸の奥に澱のように溜まっていた不安を、ポツポツと言葉にして吐き出した。
「嬉しいはずなのに……すごく怖いんです。蒼真くんはまだ学生で、プロゲーマーで……付き合って半年だし、もし上手くいかなくなったらとか、彼の将来の邪魔になったらとか……条件やリスクのことばかり考えちゃって。何の保証もないのに、飛び込む勇気が出ないんです」
言い終えると、テーブルの上に静かな沈黙が落ちた。
◇
運ばれてきたアイスラテのストローをくわえ、レイナは一口飲んでから、ふうと息を吐き出した。
「あんたさ、相変わらず頭でっかちね」
呆れたような、けれど底抜けに優しい声。
「保証なんてないわよ。あたしだって今の旦那と結婚した時、なんの保証もなかったわ」
「……怖くなかったんですか?」
「怖い以外の何物でもないわよ。旦那の仕事だっていつどうなるか分かんなかったし、周りからはもっと落ち着いてからにしろって散々言われたわ。でもね、完璧な条件が揃う日なんて、待ってたって一生来ないのよ」
レイナは視線を上げ、テラスの外を行き交う人々を穏やかな目で見つめた。
「未来の保証があるから一緒にいるんじゃないの。先がどうなるか分からないけど、それでもこの人と一緒にいたいから、一緒にいるのよ。それ以外の理由なんて、全部おまけみたいなもんじゃない」
――トクン、と胸の奥が熱く軋んだ。
(……それでも、一緒にいたいから)
脳裏に、かつて喫茶店で姫川ミアと対峙した時の記憶が鮮明に蘇る。
積み重ねた時間やプロとしての共通項という「圧倒的な条件の差」を突きつけてきたミアに対して、私は胸を張って答えたはずだ。
『蒼真くんが私にくれたのは、そういう条件や計算のどれでもなかった』
『何者でもない私を、ただ一人の人間として、真っ直ぐに選んでくれた』
――課金で手に入るような、安全で確実なスペックなんかじゃない。
傷つくのが怖くて、計算や条件の鎧で身を守ろうとしていた過去の自分と決別したはずだったのに。
いざ自分が人生の大きな一歩を踏み出す段になって、また昔のように「安全な保証」を探して逃げようとしていたのは、他ならぬ自分自身だったのだ。
◇
「……私、また計算しようとしてました」
ぽつりと零した私に、レイナは満足そうに口元を吊り上げた。
「気づいたなら上出来よ。あんなに真っ直ぐにあんたのこと見てる男、そうそういないんだから。頭じゃなくて、自分の心で決めなさい」
手元の腕時計を見たレイナが、「あ、そろそろ行かなきゃ」と席を立つ。
「伝票、あたしが払っとくから。アキ、あんたの出す答え、楽しみにしてるわよ」
颯爽と手を振って歩いていく彼女の背中を見送りながら、私は深く息を吸い込んだ。
胸の奥を重く塞いでいた霧が、綺麗に晴れていく。
まだ完全に言葉にはまとまっていなくても、向かうべき場所はもう、はっきりと見えていた。




