第39話 一緒に
翌朝、空港の国際線出発ロビー。
平日の午前中ということもあって、フロアを行き交う人はまばらだった。
大きなキャリーケースを引き、黒いキャップを目深に被った蒼真くんと並んで、出発保安検査場へ続くガラス張りの通路を歩く。
「搭乗開始まで、あと三十分くらいだね」
「はい。チェックインも荷物の預け入れも、全部終わりました」
キャップのツバの下から覗く彼の表情は、昨夜私の胸元に顔を埋めて甘えていた男の子の面影をすっかり消し去り、これから世界へ挑むプロアスリートの引き締まった顔つきに戻っていた。
検査場のゲート前で立ち止まり、向き合う。
「向こうに着いたら、ホテルから連絡してね。時差もあるし、練習もあるだろうから、返信はいつでも大丈夫だから」
「……はい。亜紀さんも、仕事無理しないでください。ちゃんとご飯食べて、寝てくださいね」
いつものように、お互いを気遣う言葉を交わす。
ゲートへ向かおうと背を向けかけた蒼真くんが、ふいに足を止め、振り返った。
「……亜紀さん」
「ん? 忘れ物?」
私が首を傾げると、蒼真くんはキャップのツバを少し押し上げ、まっすぐに私の瞳を見つめてきた。
その切れ長の瞳に、どこか緊張したような、けれど確固たる強い意志の光が宿っている。
「……あの。帰ってきたら……一緒に住みませんか」
――トクン。
アナウンスが響く広いロビーの中で、その言葉だけが驚くほど鮮明に耳に届いた。
心臓が大きく跳ね上がり、呼吸が止まりそうになる。
「……え?」
「今回の遠征が終わったら、俺、本格的に次のシーズンの準備に入ります。……でも、帰ってくる場所が、亜紀さんのいる家がいいです。一緒に暮らしたいです」
不意打ちすぎる直球の申し出。
周囲の喧騒が一瞬で遠のき、頭の中が真っ白になっていく。
(一緒に……住む……?)
胸の奥から湧き上がる嬉しさと、同時に押し寄せてくる現実的なブレーキ。
(でも……蒼真くんはまだ二十歳で、現役の大学生で、プロゲーマーで……。それに、付き合ってまだ半年ちょっとしか経ってないのに……)
二十六歳の社会人マネージャーとしての現実的な計算とリスクヘッジの思考が、反射的に頭をもたげてしまう。
何より、これまでの人生で「誰かと生活を共にする」という決断を迫られたことがない。そもそもその決断が必要になったことすらない。
安全なお金や課金の世界に閉じこもっていた自分にとって、それはあまりにも眩しくて重い一歩だった。
私が言葉に詰まって立ち尽くしているのを見て、蒼真くんはふっと柔らかく目を細めた。
困らせてしまったことを察したように、耳の先を少し赤く染めながら、穏やかなトーンで口を開く。
「……今すぐ答えを出してほしいわけじゃないです。急に言ってすみません」
「う、ううん……」
「遠征中、ゆっくり考えてくれたら嬉しいです。……行ってきます」
そう言って小さく手を振ると、彼はキャリーケースのハンドルを握り直し、保安検査場のゲートへと進んでいった。
自動ドアが閉まり、彼の背中が見えなくなる。
初夏の乾いた風が吹き抜けるロビーで、私は胸の上にそっと手を当てた。
激しく早鐘を打つ鼓動が、手のひらを通して痛いほど伝わってきた。




