第38話 行ってきます
大型グローバル案件は無事にローンチを迎え、オフィスには穏やかな達成感が漂っていた。
午後のお茶休憩、給湯室のカウンターで宮本と並んでアイスコーヒーを飲んでいた時、ふと思い出して口を開いた。
「そういえばね、宮本くん。蒼真くん、今度海外遠征に行くことになったんだ」
「へえ! 国際大会? すげえじゃん、日本代表クラスってことだろ」
「うん。アジアパシフィックのインビテーショナル大会に招待されたみたいで、二週間くらい韓国とシンガポールに行くんだって」
かつての私なら、周囲に恋人の話をすること自体を頑なに拒んでいただろう。
けれど今では、こうして気の置けない同期に自然と彼の活躍を話せている。
「二週間かー。ちょっと寂しくなるな」
「まあね。でも、彼にとってすごく大きなチャンスだから、全力で応援したいんだ」
「いい顔して言うねえ。彼氏も、そんな風に応援してもらえたら百人力だろ」
からかうように笑う宮本に、私は気恥ずかしさを隠しながらも、素直に頷き返した。
◇
遠征出発の前夜。
私は合鍵を使って蒼真くんのマンションを訪れていた。
リビングの床には、遠征用の大きな黒いキャリーケースが広げられている。
チームのユニフォーム、予備のキーボードやマウスパッド、日用品。几帳面に詰められた荷物をチェックしながら、蒼真くんが振り返った。
「パスポートよし、変換プラグよし……忘れ物、ないはず」
「胃腸薬と目薬は入れた?」
「あ、それ忘れてました。入れておきます」
手際よく荷物を整える彼を手伝いながら、ふと前回の自分の出張を思い出す。
(今度は、私が『行ってらっしゃい』を言う番なんだな)
「……準備、終わりました」
キャリーケースのファスナーを閉めた蒼真くんが、床に座ったまま、ソファに腰掛ける私の膝の上にそっと両手を重ねてきた。
切れ長の瞳が、まっすぐに私を見上げてくる。
「……二週間、日本を離れます」
「うん。画面越しだけど、応援してるからね」
「はい。……あの」
少しだけ躊躇うように間を置いたあと、彼は私の手を自分の頬へと引き寄せた。
素肌の温もりが手のひらに伝わる。
「……亜紀さんの顔、ちゃんと焼き付けてから行く」
「もう、大げさだなあ。たった二週間だよ?」
「たった二週間でも、俺には長いです」
少しだけ口を尖らせるその表情が、ストイックなプロゲーマーと、恋人の前でだけ見せる甘えん坊な横顔を行き来していて、胸の奥がキュンと締め付けられる。
「怪我もしないで、ご飯もちゃんと食べて、勝って帰ってきてね」
「……はい。約束します」
言って、蒼真くんは膝立ちになり、私の唇にそっと口づけを落とした。
触れ合うだけの優しいキス。けれど一度離れたあと、今度は逃げ場を塞ぐように、深く、熱を閉じ込めるように重ねられる。
「……っ」
息が漏れた瞬間、大きな手のひらが私の背中に回された。
そのままゆっくりと押し倒されるようにして、身体がソファのクッションに沈み込む。
視界いっぱいに広がる彼の瞳。
けれど、それ以上踏み込むことはなく、蒼真くんは私の胸元にそっと顔を埋めるようにして、ぎゅっと抱きしめてきた。
全身の体重を預けてくるような、切実な力強さ。
「……蒼真くん?」
「……このまま、少しだけ」
シャツ越しに伝わってくる、彼のあたたかい吐息と少し速い心拍。
甘えて縋るようなその掠れた声に、遠征前の張り詰めた緊張と、離れることへの寂しさがどれほど詰まっているかが痛いほど伝わってきた。
「……うん」
私はそっと腕を回し、彼の黒い髪を優しく撫でた。
静まり返った部屋の中、二人の呼吸だけが重なり合い、穏やかな夜が更けていく。




