第34話 彼氏です
大型グローバル案件のキックオフから一ヶ月が過ぎ、街の桜はすっかり散って瑞々しい新緑の季節を迎えていた。
プロジェクトはいよいよ佳境に入り、連日のようにクライアントとの折衝が続いていた。
「――よし、これで完璧だな」
夜の九時半。
静まり返ったフロアのミーティングブースで、宮本がモニターの画面をスクロールしながら大きく伸びをした。
「お疲れ様、宮本くん。細かいターゲット別のKPI設定も、全部数字の整合性取れたよ」
「助かるわ、マジで。篠宮のロジックがなかったら、今頃クライアントの突っ込みに耐えきれず空中分解してるところだった」
紙コップの冷めたコーヒーを飲み干しながら、宮本がへらっと笑う。
長時間の残業で疲労はあるはずなのに、二人で一つのゴールに向かって形にしていく達成感で、不思議と空気は澄んでいた。
その時、デスクの上に置いていた私のスマートフォンが、ヴッと短く震えた。
◇
画面が点灯し、通知が表示される。
『如月 蒼真:今、練習終わりました。遅くまで残業無理しないでくださいね』
画面に映ったメッセージの文面と名前に、私の口元が無意識にふっと緩む。
「……ん?」
対面に座っていた宮本の視線が、ちらりと私の手元のスマホを捉えた。
画面を伏せようとしたけれど、タイミングが少し遅かったらしい。宮本は丸くした目をぱちくりとさせ、それからニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「おいおいおい……今の顔、なんだよ。『氷の篠宮マネージャー』が、見たこともない柔らかい顔してスマホ見てたぞ」
「べ、別に普通の顔だったでしょ」
「いやいや、完全に緩んでたって。……もしかしてさ、彼氏?」
からかうようなトーン。
かつての私なら、プライベートを詮索されることを極端に嫌がり、「仕事に関係ないでしょ」と冷たくシャッターを下ろしていたはずだった。
けれど、今の私には、隠したり誤魔化したりする理由がどこにも見当たらなかった。
私は手元のスマホを両手で包み直すと、宮本の目をまっすぐに見つめ返した。
「……彼氏です」
◇
会議室に、一瞬の静寂が落ちる。
「……マジで!?」
宮本が椅子から身を乗り出すようにして声を上げた。
いつものノリで茶化されるかと思いきや、彼の表情は一瞬でぱっと明るくなり、心からの驚きと喜びに満ちていた。
「え、めっちゃいいじゃん! いつから? どんな人? てか、篠宮が自分からそういう話してくれるの初めてだから、なんか感動したわ」
「ちょっと、声が大きいって……」
「いやー、だってさ。新卒の頃のお前、誰にも隙見せないで一人で全部背負い込んで戦ってる感じだったから。ちゃんとプライベートで大事な人ができたんだなって思ったら、同期として普通に嬉しいよ」
裏表のない、からりとした祝福の言葉。
胸の奥がじんわりと温かくなる。
誰にも言えない秘密の恋だったはずのものが、少しずつ、確かな輪郭を持って世界に広がっていくのを感じていた。
「……ありがとう、宮本くん」
小さく微笑んで礼を言うと、宮本は「よし、惚気話は案件が終わったらじっくり聞くとして、ラストスパート終わらせて早く帰るぞ!」と腕をまくった。
私は手元のスマホを開き、『もうすぐ帰るよ』と、迷いのない文字を打ち込んだ。




