第32話 変わらないもの
チーム・ゼニスの劇的な完全優勝から、数週間が過ぎていた。
三月も下旬に入り、オフィスの窓から見える街路樹の桜のつぼみが、少しずつピンク色にほころび始めている。
大会期間中のあの熱狂とお祭り騒ぎのような喧騒はすっかり落ち着き、私たちの間には穏やかで心地よい日常が戻ってきていた。
ギルドチャットでは相変わらずちくわさんが呑兵衛トークを繰り広げ、ぽてとちゃんがガチャの爆死を叫び、レイナがそれに鋭いツッコミを入れている。
週末になれば蒼真くんの部屋でご飯を食べたり、他愛のない映画を観たり。そして平日の夜は、お互いの仕事を終えた夜に「お疲れ様」「今日も無事に終わったよ」と短いメッセージを交わし合う。
派手なイベントなんてなくても、ただ淡々と流れる時間そのものが、今の私には何よりも愛おしかった。
◇
そんな月曜日の午後、オフィスの給湯室でコーヒーを淹れていると、フロアの奥から賑やかな笑い声が聞こえてきた。
「おいおい、宮本! シンガポールから戻ったと思ったら、いきなり昇進かよ!」
「勘弁してくださいよ先輩、向こうで死ぬほど働かされただけですから」
人垣の中心にいたのは、パリッとしたスーツを着崩した、長身で人懐っこい笑顔の男性だった。
宮本大輝。
新卒で入社した時、同期の中で唯一波長が合い、研修のグループワークでよくくだらない愚痴を言い合っていた相手だ。
二年間の長期海外拠点の立ち上げ出張を経て本社に帰任し、今回の春の人事でマネージャーに昇進したのだという。
「あ、篠宮! 久しぶりだな」
給湯室から出てきた私に気づくと、宮本は昔と何一つ変わらない屈託のない笑顔で片手を挙げ、歩み寄ってきた。
「宮本くん、お帰り。マネージャー昇進、おめでとう」
「サンキュ。篠宮も一足先にマネージャーやってんだろ? マジですげえよな。あ、今日さ、同期のやつらで、俺の昇進祝いで飲むんだけど、篠宮も来ない? 久しぶりに話そうぜ」
気さくな誘い。悪気なんて一ミリもない、純粋な同期としての好意。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥にふっと冷たい記憶がよぎった。
(……私の昇進の時は、誰も祝ってくれなかったな)
同期最速でマネージャーに抜擢された日。
周囲から向けられたのは「あいつ、プライベート全部捨てて仕事にすがりついてる」「氷の篠宮」という陰口と、遠巻きの視線だけだった。
孤独に耐えかねて、誰にも言えない寂しさを埋めるために画面の向こうへ何十万も課金していた、あの痛々しい夜の記憶。
宮本が悪いわけじゃない。素直に喜んであげたいのに、過去の傷がチクリと疼いてしまう自分が情けなかった。
「……ごめんね、宮本くん。今日ちょっと、外せない用事があって」
「そっか。残念だけど、仕方ないな。また今度ランチでも奢ってよ、先輩マネージャー」
「うん、落ち着いたらね」
やんわりと断った私に、宮本は少しも嫌な顔をせず、爽やかに手を振って輪の中へ戻っていった。
◇
その日の夜。
自室のベッドの上でスマホを開くと、ちょうど二十二時を回ったところで蒼真くんからメッセージが届いた。
『今日もお疲れ様です。明日の夜、少しだけ通話できますか?』
画面に並ぶ、丁寧で真っ直ぐな文字。
過去の寂しさや、誰にも祝ってもらえなかった孤独は、確かに私の中に消えない傷跡として残っている。
けれど、あの頃と決定的に違うのは――今の私の日常には、こうして名前を呼んでくれる人がいるということだ。
『お疲れ様! もちろん、話そうね』
返信を送ると、すぐに小さなスタンプが跳ね返ってきた。
春の夜風が吹き抜ける窓辺で、私は胸の奥に残った冷たさが、ゆっくりと解けていくのを感じていた。




