第31話 言えないこと
――カチャ、と鍵が回る音が静まり返ったリビングに響いた。
跳ね上がる心臓を手のひらで押さえながら、私はソファから立ち上がって玄関へと向かった。
ゆっくりと開いたドアの向こうに立っていたのは、チームのジャージの上からコートを羽織った蒼真くんだった。
「……あ」
私と目が合った瞬間、彼はいつものように淡々と挨拶をするでもなく、ぽかんと口を半開きにして立ち止まった。
その切れ長の瞳はとろんと潤んでいて、頬から耳の先まで、まるで茹で上がったようにほんのり赤く染まっている。
「……ただいま、あきさん」
「おかえり、蒼真くん。……って、あれ? 顔、すごく赤いよ?」
靴を脱いで上がってきた彼から、ふわりと微かに甘いアルコールの香りが漂ってきた。
普段はコンディション管理のために炭酸飲料やエナジードリンクばかりで、お酒なんて口にしないストイックな彼が、足元をおぼつかなそうに揺らしている。
「……今日はお酒、飲んだの?」
「……うん。乾杯でちょっとだけ飲んだら、先輩たちに『優勝したんだから今日くらい飲め』って言われて……ハイボール、二杯飲んだ」
指を二本立てて見せる仕草が、普段の彼からは信じられないほど幼い。
「二杯でそれ!? 蒼真くん、お酒すっごく弱いんだね」
「……弱くない。……うそ、頭がふわふわする」
壁に手をついて靴を揃えようとするけれど、手が空振って上手に揃えられない。
思わずクスッと笑ってしまいながら、私は彼の手を引いてリビングへと案内した。
◇
「お水持ってくるね。ソファに座ってて」
そう言ってキッチンへ向かおうとした瞬間――ぐいっと手首を引かれた。
「わっ……」
バランスを崩してソファに倒れ込むと、隣に座り込んできた蒼真くんが、そのまま長い腕を私の腰に巻きつけ、ぎゅっと抱きついてきた。
そのまま、私の膝の上にコテンと自分の頭を乗せてくる。
「……ちょ、蒼真くん!?」
「どこ行くの。いかないで」
膝の上で、黒いサラサラの髪が私のスカートに擦れる。
普段なら緊張して「すみません」と敬語の鎧をまとい、耳を赤くして距離を保とうとする彼が、嘘のようにベタベタと甘えてきている。
「お水、取ってこようと思っただけだよ。喉渇いてない?」
「かわいてない。……あきさんがいい」
「……っ!」
私の膝の上にすっぽりと頭を預け、大きな体をごろりと丸めている姿は、まるで人懐っこい大型犬そのものだった。
「……今日の試合、すごく緊張した」
膝の上から、ぽつりと零された本音。
「負けたらどうしようって、ずっと怖かった。でも、一番前見たら、あきさんがいて……スーツ着て、すっごくかっこよくて……負けたくないなって思った」
大きな手が私の手をまさぐり、指先を一本ずつ絡めて恋人繋ぎにしてくる。
その手のひらは、お酒のせいでいつもよりずっと熱かった。
「……あきさん、きれいで、仕事できて、やさしくて」
「そ、そんなことないよ」
「そんなことある。……俺、あきさんのこと、好きすぎるかもしれない」
――トクン、と胸の奥が大きく跳ね上がった。
素面の時なら、恥ずかしさのあまり絶対に口にできないような直球の告白。
何の計算も、照れ隠しの装飾もなく、ただ心に浮かんだ感情がそのまま口から滑り落ちてくる。
熱い体温と、甘えたような吐息が、ダイレクトに私の心を揺さぶってくる。
「……蒼真くん、それ、明日覚えてなかったら怒るからね?」
「覚えてるよぉ……。ずっと、言いたかったんだから」
ふにゃりと口元を緩めて笑ったかと思うと、彼は私の手に自分の頬をすり寄せて、満足そうに目を細めた。
「……あきさん、いいにおいする」
「はいはい。もう、完全に酔っ払いなんだから」
呆れつつも、愛おしさが胸いっぱいに広がって、私は空いている左手で彼の柔らかい髪をそっと撫でた。
プロとして、期待と重圧を背負い、孤独に戦い抜いてきた二十歳の男の子。
その張り詰めていた糸がほどけて、世界中で私の前でだけ、こんな風に無防備に甘えてくれている。
トントンと優しく背中を叩いてあげると、蒼真くんはやがて規則正しい寝息を立て始めた。
「……蒼真くん?」
声をかけても、もう返事はない。
甘えるだけ甘えて、完全に電池が切れてしまったらしい。
静まり返ったリビングに、穏やかな寝息だけが響く。
私は動けなくなった自分の膝の上で眠る彼を見つめながら、起こさないようにそっとブランケットを引き寄せて、彼に掛けた。
◇
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む眩しい朝日で、私は目を覚ました。
ソファの上。
いつの間にか二人とも横になって、蒼真くんの腕が、当たり前のように私の体に回されていた。
規則正しい寝息と、すぐ近くにある体温。
まだ夢うつつのまま身じろぎすると、腕の中の蒼真くんが、うっすらと目を開ける。
「……ん……っ」
ぼんやりと天井を見上げ、それから自分の腕の中にすっぽり収まっている私の姿に視線を落とした瞬間――。
カチリ、と音が聞こえそうなほど、彼の全身が完全にフリーズした。
「…………え?」
みるみるうちに、彼の顔が耳の先から首元まで、昨夜のお酒以上の勢いで真っ赤に染まっていく。
「……あ、あの、亜紀さん……!? 俺、なんでここで……っ!?」
バッと跳ね起きて床に正座し、両手で顔を覆う蒼真くん。
いつものシャイな彼に戻っていた。
「……お、俺……昨日の夜、何か変なこと言いませんでしたか……!?」
消え入りそうな声で、指の隙間から怯えるようにこちらを覗き込んでくる。
そのあまりの落差と慌てぶりに、私は吹き出しそうになるのを必死に堪えながら、人差し指を唇に当てて悪戯っぽく微笑んだ。
「……さあ? ないしょ」
「えぇ……っ!? お、教えてください、頼みますから……!」
頭を抱えて悶絶する彼を見て、私の胸の奥に、昨夜の甘い熱がじんわりと広がっていった。




