第22話 もう少しだけ、このままで
リビングのソファの上、静まり返った部屋に重なる二人の呼吸音。
抱きしめられた腕を解こうと、私が微かに身じろぎしたその時だった。
「……もう少しだけ、このままで」
耳元に落ちてきた、掠れたような低い声。
背中に回された蒼真くんの指先が、名残惜しそうに私をぎゅっと掴み直す。
「……蒼真くん?」
「……すみません。なんか、離したくなくて」
彼の胸に額を預けたまま、トクトクと速い鼓動を聞いていると、ポツリと本音が零れ落ちてきた。
「……あの、初デートの帰り、家に誘ったの……」
「うん」
「……隣同士でログインしてみたかったからなんです」
思わず顔を上げると、蒼真くんは耳の先まで真っ赤にして、視線を斜め下に泳がせていた。
「ずっと、画面の向こうにいた人が……物理的に隣にいたら、どんな感じなんだろうって」
「ふふっ……そんな理由で誘ってくれたの?」
「……ダメですか」
「ダメなわけないでしょ。……じゃあ、今ここでやってみる?」
◇
リビングのローテーブルの前で、ラグの上に肩を寄せ合って座る。
起動音とともに、柔らかな光に包まれて『アストラル・オンライン』へログインする。
画面の中央、暖炉の前に現れたヒーラーの「アキ」と、黒い軽鎧の「ソラ」。
これまで何時間も見つめてきたその二人が、今、現実の私のすぐ隣で、同じ空間の空気を吸いながら並んでいる。
「……なんか、すっごく変な感じ」
「ですね。……アキさんが、すぐそこにいる」
画面の中でソラが抜刀の構えを取ると、現実の蒼真くんが親指を器用に滑らせている。
画面の中でアキがピョンと跳ねると、私のキーボードを叩くカチャカチャという音が部屋に響く。
ぽてと:あ、二人ともこんばんは〜! 今日も時間ぴったりだね!
ちくわ:おや、今夜はいつもよりお二人ともチャットのテンポが早いですなぁ
レイナ:どうせ通話でも繋いでんでしょ。はいはい、さっさとデイリー消化行くわよ〜
ギルメンたちのいつも通りの掛け合い。
私たちは顔を見合わせ、必死に笑いを噛み殺しながらチャットを返していく。
「あ、蒼真くん、今チャット打ちながらちょっとニヤッとしたでしょ」
「してないです。……亜紀さん、今のステップ遅すぎ。トラップ踏んでます」
「うわぁっ!!」
特別なレイドボスを倒したわけでも、派手なイベントが起きたわけでもない。
いつも通りの雑魚狩り、いつも通りのくだらない会話。
だけど、ボタンを押すたびに隣で表情が変わり、息遣いが聞こえ、笑い声が耳をくすぐる。
(……これだったんだ)
何万円課金しても、どんなレアアイテムを手に入れても埋まらなかった心の隙間。
本当に欲しかったのは、ただこうして誰かと体温の届く距離で、同じ時間を分け合うことだったのだと、痛いほど実感していた。
◇
日付が変わる前、ギルドの解散と同時に二人でログアウトした。
静けさを取り戻した部屋。
立ち上がってコートを羽織る蒼真くんを、玄関まで見送る。
「……夜遅くまで、長居してすみませんでした」
「ううん、すごく楽しかった。来てくれてありがとう」
靴を履き終え、ドアノブに手をかけた蒼真くんが、ふと立ち止まって振り返った。
外の冷たい空気の中に、微かに照れを含んだ綺麗な瞳がまっすぐに私を捉える。
「……今度は、俺の家で」
「……うん。楽しみにしてるね」
静かに閉まったドアの向こう、遠ざかる足音を聞きながら、私の胸の中にはいつまでも心地よい温もりが残り続けていた。




