第2話 峡谷の遭難者
視界が眩い光に包まれ、次の瞬間――足元に広がっていたのは、満天の星空が谷底にまで反射する幻想的な夜の世界だった。
深い蒼と紫のグラデーションに染まる巨大な岩壁。宙を漂う発光する鉱石の粒子。
BGMも、さっきののどかな草原とは打って変わって、荘厳でどこか物悲しいピアノの旋律へと変化している。
「わぁ……綺麗……!」
思わず画面に見惚れて呟いた。さすが大作MMO、グラフィックの気合の入り方が違う。
画面右上のミニマップには『エリア名:星降りの峡谷・深層』の文字。
よし、さっそくこの辺のモンスターをやっつけて、サクサクとレベルを上げていこう。なんせ今の私には、十二万八千円の重みが詰まった神話級フルプレートと聖剣があるのだから。
鼻歌交じりにアキを前進させた、その時だった。
ズオォォォッ――!
地響きとともに、暗がりから現れたのは、巨大な四つ目の漆黒の獣――【ネザー・ベヒモス Lv95】。
「……え?」
ドゴォォォォンッ!!
突進をモロに食らい、画面が激しく赤く明滅した。
吹き飛ばされる私のアキ。
――あ、死んだ。
そう思った。しかし。
「……あれ? 生きてる?」
見れば、HPバーは一ミリほどしか減っていない。さすが最高峰の課金フルプレートアーマー、防御力だけはカンスト級なのだ。
だが、問題はその次だった。
バシィッ! ドカッ! ズガガガガッ!
「ちょ、痛い痛い痛い! 動けない!」
ベヒモスの猛攻が止まらない。
敵の攻撃モーションに対して「回避」も「防御」もできない私の腕前では、ただのサンドバッグ。
そして何より恐ろしいのは、『課金装備の防御力が高すぎて即死できず、延々と殴られ続ける地獄』が始まったことだった。
ガガガガッ!
『スタン状態(行動不能)』
『ノックバック』
『吹き飛ばし』
「嘘でしょ!? 起き上がれない! 攻撃ボタンが押せない!」
ピヨピヨと頭の上に星を回しながら、壁際で延々とタコ殴りにされる全身七色に光るアキ。
防御力はあるから死なない。でも脱出もできない。
じわじわと、本当にミリ単位でHPが削られていく。このままでは三十分くらいかけて嬲り殺しにされる!
「い、いやだ! 死にたくない! 回復、回復薬はどこ――!?」
パニックになった私は、またしてもショップ画面を連打した。
――ポチポチポチ!
『【エリクサー(全回復薬)×99個セット】を購入しました』
『【自動回復機能付き神のペンダント】を購入しました』
クレカの力で無理やりHPを全快させ、ゾンビのように生き延びる。だが操作技術はレベル8の初心者のままなので、回復した傍からまたベヒモスにお手玉される。
(だ、誰か……! 助けて……!)
みっともなく地面を転がりながら、画面の前で悲鳴を上げた、その時だった。
――ヒュンッ。
静かな風切り音とともに、頭上から一閃の影が降ってきた。
漆黒のシンプルな軽鎧を纏った、細身の剣士アバター。
そのプレイヤーは、私を殴りつけようとしていたベヒモスの巨腕を、紙一重のバックステップ――いや、わずか数ミリの軸ずらしだけで完全にかわしてみせた。
ザシュッ――!
すれ違いざまに走る、冷徹なまでの銀の軌跡。
ベヒモスが苦悶の咆哮を上げる。
「え……?」
見惚れる、という表現すら生ぬるかった。
その人の動きには、一切の無駄がなかった。
攻撃が来る予兆の赤いエフェクトが出た瞬間に、最小限のステップで死角へ回り込み、流れるようなコンボを叩き込む。
敵の攻撃を避ける、斬る、スキルを挟む、また避ける――。
ズザザザザッ! ドォォォォンッ!
私を三十分間なぶり殺しにしかけていた巨大な化け物が、一度もその剣士に触れることすらできず、光の粒子となって霧散した。
静寂が戻った星降りの峡谷。
その剣士の頭上には、白文字でシンプルな名前が表示されていた。
【ソラ】
あまりの次元の違いに呆然としていると、ソラはこちらを振り返り、私の全身の七色に光り輝く装備をじっと見つめた。
そして、画面左下のチャット欄に、ポツリと文字が流れる。
ソラ:その装備で、なぜLv8なんですか
冷淡なまでのド直球。
私は慌ててチャット入力欄を開いた。
ええと、こういう時はどう返すのが正解なんだろう? 会社でのビジネスメールの癖が抜けず、震える指で文字を打ち込む。
アキ:助けていただき、誠にありがとうございます。大変助かりました。
アキ:ご質問の件ですが、課金しました。
ソラ:……。
三点リーダーが返ってきた。
ソラのアバターが、顎に手を当てるモーションを取る。
ソラ:課金は個人の自由ですけど
ソラ:装備に、君の腕が追いついてないです
アキ:おっしゃる通りでございます。ぐうの音も出ません。
ソラ:敬語、抜いていいですよ
アキ:あ、すみません。承知いたし……じゃなくて、了解です!
慣れないゲームのノリに冷や汗が止まらない。
ソラはため息をつくようなエモーションを出したあと、峡谷の出口の方向を指差した。
ソラ:ここは推奨Lv90のエンドコンテンツエリアです
ソラ:君のレベルじゃ、雑魚の足音の余波だけで即死します(装備で耐えてたみたいですけど)
ソラ:セーフゾーンまで送ります。ついてきてください
アキ:ありがとうございます! ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません……!
ソラ:……。
そうチャットを打ちながらも、ソラは私の歩くスピードに合わせて、ゆっくりと前を歩いてくれた。
道中、徘徊する強力なモンスターが現れるたび、ソラが電光石火の速さで前に出て瞬殺してくれる。
安全な街道を歩きながら、私は少しでも気まずさを紛らわそうと、おずおずとチャットを飛ばした。
アキ:ソラさんは、とてもゲームがお上手なんですね!!
ソラ:別に上手くはないです。普通です
アキ:あんなに華麗に敵を倒していたのに普通なんですか!? 私からしたら神業に見えました!
ソラ:大げさです。……あと、さっきから気になってたんですけど
アキ:はい、なんでしょうか!
ソラ:なんで必死に回復薬ガブ飲みしてたんですか
ソラ:死に戻りすれば、一瞬で始まりの街に戻れたのに
……えっ?
アキ:死んだら……タダで街に戻れたんですか?
ソラ:はい。デスペナルティもLv10以下ならノーリスクです
アキ:し、知らなかった……! 死ぬのが怖くて、回復薬を箱買いしてしまいました……!
ソラ:……草
ソラ:あ、いや。笑ってすみません
アキ:あ! その「草」って、ネットでよく見る「w」のことですよね!?
アキ:あの、ずっと気になってたんですが、「w」って何個つけるのが一般的なマナーなんでしょうか? ビジネスメールだと使わないので分からなくて……
ソラ:…………。
ソラのアバターが完全にピタッと足を止めた。
画面の向こうで、彼が信じられないものを見るような顔をしているのが目に見えるようだ。
ソラ:草にマナーとかないです
ソラ:ビジネスメールって……普段何してる人なんですか
アキ:ふ、普通の一般社会人です! 怪しい者ではございません!
ソラ:怪しいとは言ってないですけど……
やがて、転送ポータルのある安全地帯の光が見えてきた。
ここまで送ってもらえれば、もう大丈夫だろう。
「ふう……なんとか助かった……」
助けてくれたお礼を打って、お別れしようとしたその時。
ピロン♪
軽快な電子音とともに、画面中央にウィンドウがポップアップした。
『プレイヤー【ソラ】からフレンド申請が届きました。承認しますか?』
「え……?」
フレンド申請。
フレンド……友達……?
現実の世界では、出世してからというもの、同期の飲み会にも結婚式にも呼ばれず、誰も私に業務以外の連絡をしてこなくなった。
そんな私に、画面の向こうの誰かが、差し出してくれた『フレンド』の文字。
胸の奥が、トクンと跳ねた。
慌てて「承認」のボタンをタップする。
アキ:あ、あの、フレンドありがとうございます!
ソラ:どういたしまして
ソラ:……その装備、宝の持ち腐れにするのはもったいないので
ソラ:基礎操作とゲームの仕様だけ、教えます
ソラ:明日、この時間にログインできますか?
明日、この時間。
夜の二十二時。
誰とも予定のない、冷え切った私の夜に。誰かと過ごす『約束』ができた瞬間だった。
アキ:はい! 必ずログインします!!
【星降りの峡谷・深層での課金額:¥32,000(死にかけて買ったエリクサー代)】




