プロローグ
あと一時間。
たったそれだけで、エレノア・フォン・ローゼンベルクの十三年間に及ぶ戦いは終わる。
――そのはずだった。
(あと一時間……!)
今すぐ時計を掴んで、針を進めてしまいたい。
それくらい浮かれていた。
けれど、そんなことはしない。
ローゼンベルク公爵家の令嬢たるもの、いついかなる時も優雅に、気品を忘れず、凛とした花のように。
それが母の教えである。
だからエレノアは、今にも立ち上がって万歳したい衝動を完璧な微笑みの下に隠し、何食わぬ顔で背筋を伸ばしていた。
今夜は、学院の卒業を祝う晩餐会。
そしてエレノアにとっては、十三年間ずっと待ち続けた――最後の夜だった。
(長かった……)
本当に、長かった。
すべての始まりは、五歳のとき。
突然蘇った前世の記憶とともに、エレノアは気づいてしまった。
ここは、前世で何度も遊んだ乙女ゲーム『花々は愛を知る』の世界だ。
そして自分――エレノア・フォン・ローゼンベルクは、ヒロインでも攻略対象でもない。
ヒロインの恋路を邪魔し、その報いを受けて破滅する悪役令嬢だった。
冗談ではない。
断罪なんてされたくない。
追放だって御免だ。
ましてや、死ぬなんて絶対に嫌だ。
だから五歳のエレノアは決めた。
悪役令嬢エレノアが破滅するというのなら。
――悪役令嬢など、どこにも存在しなくしてしまえばいい。
それから十三年間、エレノアは徹底した。
我儘を言わない。身分を笠に着ない。誰かが困っていれば手を貸し、人を傷つけたり、故意に困らせたりしない。
公爵令嬢として求められる教養と礼儀を身につけ、勉学にも励んだ。試験では常に上位の成績を保ち、社交の場でも品位を失わないよう心がけた。
断罪される理由など、ひとつも作らない。
悪役令嬢エレノアを、ただの公爵令嬢エレノアにしてしまえばいい。
始まりは、ただ生き残るためだった。
けれど十三年も続ければ、それはもう演技ではない。
困っている人を放っておけないことも、誰かを傷つけたくないと思うことも、努力を怠らないことも。
いつしか全部、エレノア自身になっていた。
そうして、十八歳。
ゲームのヒロインは無事に学院を卒業した。
エレノアは彼女を虐げていない。嫌がらせもしていなければ、陥れてもいない。
断罪されるような悪事など、ひとつとして犯していない。
そして今夜。
『花々は愛を知る』最後の舞台である卒業祝賀の晩餐会も、何事もなく終わろうとしている。
残り、一時間。
(…………勝った)
エレノアは膝の上で、そっと拳を握った。
(私、勝った……!)
表情は、完璧な公爵令嬢。
しかし心の中では、とっくに立ち上がって両手を突き上げている。
(断罪なし! 追放なし! 死亡フラグもなし!)
やった。
やったわ。
(私、生き残った――!)
今すぐ叫びたい。
できることなら踊りたい。
けれど、そんなことをすれば十三年間守り抜いた公爵令嬢としての品格が、最後の最後で台無しである。
あと一時間。
ここまで来たのだ。
最後まで完璧なエレノア・フォン・ローゼンベルクでいよう。
そして今日を越えたら。
明日からは――。
(…………あれ?)
そこで初めて、エレノアの思考が止まった。
(明日から……私、何をするの?)
考えたことがなかった。
五歳からずっと、目標はひとつだった。
断罪を回避する。
死亡フラグをへし折る。
ゲームのエンディングまで生き残る。
その先の人生なんて、考える余裕もなかった。
『花々は愛を知る』は、今夜で終わる。
ゲームにエンディングの先はない。
けれど当然、エレノアの人生は明日も続く。
(…………)
どうしよう。
本当に、何も考えていなかった。
「どうしたの?」
「ひゃっ」
不意にすぐそばから声がして、エレノアの肩が跳ねた。
「……そんなに驚かなくてもいいだろう」
少し呆れながらも、明らかに面白がっている声だった。
恐る恐る顔を向ける。
金色の髪に、深い緑の瞳。
整った顔には、ほんの少し意地の悪い笑みが浮かんでいる。
第一王子アレクシス。
『花々は愛を知る』の攻略対象の一人。
そして――。
(…………あ)
エレノアは固まった。
いた。
これからの人生を考えるうえで、絶対に忘れてはいけない人が。
十三年間ずっと。
それはもう、しっかりと。
エレノアの婚約者として。
「……何かな、その顔は」
「なんでもございません」
「僕の顔を見た途端、固まったけれど」
「気のせいですわ」
「そうかな」
「そうです」
にこり。
十三年間で磨き上げた、公爵令嬢として完璧な微笑みを浮かべる。
アレクシスはしばらくエレノアを眺めていたが、やがて小さく笑った。
「まあ、いいか」
(よくない。全然よくないわ)
大問題である。
ゲームが終わる。
断罪されない。
生き残る。
そこまではいい。
では――この婚約は?
五歳で前世の記憶を取り戻した直後、エレノアは彼との婚約を解消してほしいと願い出た。
当時のエレノアにとって、攻略対象との婚約など破滅へ一直線にしか思えなかったのだ。
けれど結局、婚約は解消されないまま今日まで続いている。
エレノアは、ちらりとアレクシスを見る。
王の第一子。
いずれこの国を背負うことを期待されている青年。
そして自分は、その婚約者。
(…………待って)
ようやく、とんでもなく当たり前の可能性に思い至った。
(私、このままだとアレクシス様と結婚するのでは?)
あまりにも今さらだった。
「エレノア」
「はいっ!」
また肩が跳ねた。
アレクシスが怪訝そうに眉を上げる。
「やっぱり今日、変だよ」
「変ではございません」
「さっきから表情が忙しい」
「そんなはずはございません」
「今度は僕を見ながら何か考えていた」
「考えておりません」
「本当に?」
「本当です」
「じゃあ、どうして僕から目を逸らすの?」
「…………」
エレノアは無言で視線を戻した。
アレクシスが吹き出す。
「何がおかしいのですか」
「いや。今日は随分と楽しそうだと思って」
「……私が?」
「うん」
アレクシスは王子らしい姿勢を崩さないまま、楽しそうにエレノアを見る。
「十三年も婚約者をやっているんだ。それくらいは分かるよ」
「…………」
十三年。
そのほとんどを、自分は彼から逃げることばかり考えていたというのに。
それでもこの人は、自分が浮かれていることくらい分かるらしい。
「何かいいことでもあった?」
「……秘密です」
「へえ」
「なんですか」
「君が僕に秘密なんて言うのは珍しいなと思って」
また笑う。
エレノアは小さく息を吐いた。
やっぱり、この人は苦手だ。
何を考えているのか分からないし、こちらの反応を面白がっては、こうしてすぐにからかってくる。
ゲームの画面越しなら、そんなところも魅力のひとつだった。
けれど実際に自分へ向けられると、話はまったく別である。
そんなことを考えているうちに、食後の茶が運ばれてきた。
ふわりと漂った香りに、エレノアは気づく。
「……あら」
「分かった?」
アレクシスが尋ねる。
分からないはずがない。
以前、エレノアが彼のために選び、贈った茶葉だった。
「まだ残っていたのですね」
「まだ、とは失礼だな」
アレクシスは給仕されたカップを手に取る。
「気に入っているんだよ」
「…………」
胸の奥が、ほんの少しくすぐったくなった。
大した贈り物ではない。
彼の好みを考えて、いくつもの茶葉の中から選んだだけ。
それでも。
自分の知らないところでも、こうして飲んでくれていたのだ。
「……そうですか」
それしか言えなかった。
けれど、少しだけ嬉しかった。
十三年間。
エレノアにとってアレクシスは、ずっと『攻略対象』だった。
近づけば、破滅するかもしれない人。
だから遠ざかることばかり考えてきた。
けれどゲームは、もうすぐ終わる。
恐れていた未来は来なかった。
なら――。
この先は?
自分は、この人とどうなるのだろう。
アレクシスとの未来を考えたのは、初めてだった。
何も浮かばない。
困る。
怖い。
でも、それだけだろうか。
自分でも分からなかった。
ただ。
自分が選んだ紅茶を飲んでくれていることが、今は少し嬉しい。
アレクシスがカップを口元へ運んだ。
一口。
いつものように味わって、静かにカップを下ろす。
その穏やかな仕草を、エレノアはなんとなく眺めていた。
「エレノア」
「はい?」
「卒業したら――」
言葉が途切れた。
「……アレクシス様?」
おかしい。
アレクシスの顔から、すっと血の気が引いていく。
「……っ」
彼の指から、カップが滑り落ちた。
白磁が床にぶつかり、甲高い音を立てて砕ける。紅茶が絨毯へ飛び散った。
「アレクシス様?」
それを目で追うより早く、彼の身体が大きく傾いた。
エレノアは反射的に手を伸ばす。
「アレクシス様!」
届かなかった。
倒れた彼を見て、一瞬、何が起きたのか分からなかった。
ついさっきまで、笑っていたのに。
「殿下!」
誰かが叫んだ。
人が駆け寄る。
椅子が倒れ、楽団の演奏が止まる。
「医師を!」
「皆様、下がってください!」
さっきまで笑い声と音楽に満ちていた大広間が、一瞬にして騒然となった。
けれど、エレノアだけが動けなかった。
床に倒れたアレクシスを見つめる。
どうして?
ついさっきまで自分をからかっていた。
十三年も婚約者をしているのだから分かる、と笑っていた。
自分が選んだ紅茶を、気に入っていると言ってくれた。
それなのに。
どうして?
医師が駆け込み、アレクシスの傍らに膝をついた。
胸元へ手をかざすと、淡い魔法の光が彼の身体を包む。
一度。
もう一度。
場所を変え、さらに慎重に確かめる。
それでも医師の表情は険しくなるばかりだった。
「……どう、なのですか」
誰かの声が聞こえた。
長い沈黙。
やがて医師は目を伏せ、深く頭を下げた。
「……アレクシス殿下は、お亡くなりになりました」
世界から、音が消えた。
「…………え?」
亡くなった。
誰が?
アレクシスが?
(どうして……?)
理解できない。
こんなものは知らない。
こんなイベントは、どこにもなかった。
『花々は愛を知る』は、今夜の卒業祝賀会で終わる。
ヒロインと攻略対象がそれぞれの未来へ進み、物語は幕を閉じる。
アレクシスが死ぬ結末など、どのルートにも存在しない。
ましてや――ゲームが終わる、その夜に。
あと一時間だった。
たった一時間で、終わるはずだった。
十三年間、誰も傷つけなかった。
誰も困らせなかった。
一度だって、断罪されるようなことはしなかった。
死亡フラグだって、すべてへし折った。
なのに。
なぜ、アレクシスが死んでいる?
なぜ――。
エレノアの視線が、床へ落ちた。
砕けた白磁。
絨毯に広がる紅茶。
ほんの少し前まで、嬉しいと思っていた香り。
(私が贈った、紅茶……)
知らない。
こんな結末は知らない。
アレクシスが死ぬ未来なんて、『花々は愛を知る』のどこにもなかった。
だって今夜は。
十三年間ずっと待ち続けた――ゲームが終わる夜だったのだから。




