土蜘蛛編最終話 デリート完了、日常のノイズ
パキパキと、凍りついた海が溶け始める音が静寂を破った。
天空の異界が霧のように霧散し、目の前にはいつもの、だけど少しだけ色が鮮やかに見えるメリケンパークの埠頭が戻っていた。
「……終わった、んやな」
博雅がその場に大の字に寝転んだ。黄金色の氣は消え、ただのボロボロの高校生に戻っている。道満は荒い息を吐きながら、震える手で乱れた髪をかき上げた。俺は熱が引いていく右手を眺めた。指先はまだ微かに震えている。だけど、これは生きている人間が感じる、ただの疲労だ。
「お疲れさま。安倍くん。……あと、卵の話はもういいからね」
保憲が眼鏡を拭きながら、どこか柔らかい声で言った。隣では有世が「アーカイブ、バッチリです!」と、涙目になりながらタブレットを掲げている。
埠頭の入り口では、一台のパールホワイトのシーマが、催促するようにまた短くクラクションを鳴らした。運転席では、今しがた跳ね起きたばかりのりお先生が、気だるそうにハンドルに肘をついている。窓ガラスには盛大なヨダレの跡が白く残り、ダッシュボードの上には、空になったコーヒーカップと、誰にも読まれることのなかった「本日の教案」が、風に煽られて哀愁漂う音を立てていた。
「……はぁ。やりたかないねー、ホンマに。こっちは命削って神話デリートしてきたっていうのに、あの緊張感のなさは何やねん」
俺がシーマに歩み寄ると、りお先生は窓から顔を出し、手の甲で口元のヨダレを拭った。
「あんたたち……遅いのよ! 先生、朝刊全ページ読み終わっちゃったじゃない! ほら、さっさと乗りなさい。フォックス・テイルまで送ってあげるから!」
なぁ、あんたならどう思う? 一年前、絶望の中で終わらせたはずの俺の「ログ」が、こんなヨダレを拭う教師の車に押し込まれて、新しい日常へ上書きされていく。
「……晴明、帰ったら葉子さんのオムライス食おうぜ。腹減って死にそうや」
博雅が俺の肩を組み、母ちゃんの飯を催促した。
その瞬間――。
さっきまで「卵の話はいい」とクールに決めていた保憲の肩が、びくんと跳ねた。銀縁メガネの奥、冷徹だったはずのその瞳が、らんらん(・・・・)と輝きだす(・・・・・・)。
「……安倍くん。昨日のあの『黄金の比率』を、もう一度正確にサンプリングする必要があるようだね。……観測者として、僕もシーマに同乗させてもらおうか」
保憲の、あまりに必死で論理の破綻した言い訳に、道満が呆れたように笑い出した。
「……ほんま、やりたかないわ」
俺はため息をつきながら、開け放たれた助手席に身体を沈めた。
朝日を背負って走り出したシーマの窓の外、神戸の街は、何事もなかったかのように騒がしい今日を始めようとしていた。




