豪雨災害後
豪雨の翌朝、町の壁には二本の線が残った。
一本は、浸水した泥が教える、水の高さ。
もう一本は、誰かが白いペンキで引いた、意味のわからない線だった。
市役所の復旧担当になったばかりの奈緒は、その線を引いて回る老人に出会った。
「すみません。浸水の記録なら、こちらで測量しています。勝手に書かれると困るんです」
老人は刷毛を止め、壁を見上げた。
「これは水の背丈じゃないよ」
「では、何の高さですか」
「人の背丈だ」
意味がわからなかった。
町は、ひどい有様だった。
道路は泥に埋まり、商店街の看板はねじれ、川沿いの家々には、家族写真の額だけがぽつぽつと残っていた。避難所では、誰もが失ったものの話をしていた。家、車、思い出、そして帰ってこなかった人。
そんな町で、老人は毎日、白い線を引き続けた。
ある日、奈緒は老人の後を追った。
老人は流された家の柱に線を一本引き、そこに住んでいた女性から話を聞いていた。
「ここで、息子が母さんを持ち上げたんです。窓の外へ、ぎりぎり届くように」
次の家では、制服姿の少年が言った。
「妹を冷蔵庫の上に乗せました。僕は、腰まで水につかって……」
老人は少年の言葉を聞き終えると、壁に白い線を引いた。
助けられた人が手を伸ばした高さ。
誰かを助けようと、腕を伸ばした高さ。
それが、老人の線だった。
「水の高さは、役所が記録する。でもな、どれだけの人間が誰かに手を伸ばしたかは、どこにも残らんだろう」
奈緒は返す言葉を見つけられなかった。
老人は、かつて大工だったという。町の家の多くを建て、柱の癖も、住人の家族構成も、覚えていた。
「家は流れても、手を伸ばしたことまで流されちゃいかん」
老人はそう言って笑った。
数日後、奈緒は老人の家を訪ねた。
そこにも、泥の線が一本あった。しかし、白い線はなかった。
「どうして、ご自分の家には引かないんですか」
老人はしばらく黙っていた。
「わしは、誰にも手を伸ばせなかったからな」
豪雨の夜、老人は一人で家にいた。
近所の人が何度も避難を促したが、耳を貸さなかった。やがて水が押し寄せ、足がすくみ、声さえ出せなくなった。
救助されたとき、老人は泣いていたという。
「人に迷惑をかけてまで、生き残ってしまった。そんなことを思っておった」
奈緒は、老人の手を見た。
節くれだった、何十年も木を削ってきた手だった。
「でも、あなたがいなかったら、あの線は残らなかった」
そう言うと、老人は困ったように目を細めた。
「誰かが手を伸ばすには、伸ばされる側も、そこにいなきゃならんのだよ」
翌朝、老人は避難所の壁に白い線を引いた。
奈緒には、まだ意味がわからなかった。
「ここは、どなたかが誰かを助けた場所なんですか」
「いや」
老人は刷毛を奈緒に渡した。
「昨日、あんたがわしを立たせてくれた高さだ」
奈緒は息をのんだ。
あの日、避難所の階段で、老人は泥に足を取られて転んだ。
奈緒は咄嗟に腕をつかみ、二人で泥だらけになりながら起き上がった。ほんの数秒のことだった。
礼を言われても、忘れてしまうほどのことだった。
「そんなの、助けたうちに入りません」
「そうかい」
老人は笑った。
「なら、なおさら残しておかんとな。大げさなことだけが、人を生かすんじゃない」
それから町には、白い線が増えていった。
子どもが泣いて母親の手を握った高さ。
隣人が、知らない老人を背負った高さ。
救助を待ちながら、互いに腕をつかみ合った高さ。
線の下には、名前も、日付も書かなかった。
誰が偉かったかを決めないために。
半年後、復旧工事が進み、町の壁は次々と塗り直された。白い線も、少しずつ消えていった。
奈緒は寂しかったが、老人は気にしていなかった。
「もう、覚えている人がいるからな」
春のある日、新しい町役場の壁に、小さな白い線が一本引かれた。
その横に、子どもの丸い字が添えられていた。
――きのう、ぼくが、おじいちゃんの手をひいた高さ。
奈緒が顔を上げると、老人は少し離れた場所で、その子の手を握っていた。
老人の手は、もう誰かを助けるには弱々しく見えた。
けれど、お互いを支えるには十分だった。




