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これはあなたに贈る物語  作者: ノアキ光


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9/11

豪雨災害後


 豪雨の翌朝、町の壁には二本の線が残った。


 一本は、浸水した泥が教える、水の高さ。

 もう一本は、誰かが白いペンキで引いた、意味のわからない線だった。


 市役所の復旧担当になったばかりの奈緒は、その線を引いて回る老人に出会った。


「すみません。浸水の記録なら、こちらで測量しています。勝手に書かれると困るんです」


 老人は刷毛を止め、壁を見上げた。


「これは水の背丈じゃないよ」


「では、何の高さですか」


「人の背丈だ」


 意味がわからなかった。


 町は、ひどい有様だった。

 道路は泥に埋まり、商店街の看板はねじれ、川沿いの家々には、家族写真の額だけがぽつぽつと残っていた。避難所では、誰もが失ったものの話をしていた。家、車、思い出、そして帰ってこなかった人。


 そんな町で、老人は毎日、白い線を引き続けた。


 ある日、奈緒は老人の後を追った。

 老人は流された家の柱に線を一本引き、そこに住んでいた女性から話を聞いていた。


「ここで、息子が母さんを持ち上げたんです。窓の外へ、ぎりぎり届くように」


 次の家では、制服姿の少年が言った。


「妹を冷蔵庫の上に乗せました。僕は、腰まで水につかって……」


 老人は少年の言葉を聞き終えると、壁に白い線を引いた。


 助けられた人が手を伸ばした高さ。

 誰かを助けようと、腕を伸ばした高さ。


 それが、老人の線だった。


「水の高さは、役所が記録する。でもな、どれだけの人間が誰かに手を伸ばしたかは、どこにも残らんだろう」


 奈緒は返す言葉を見つけられなかった。


 老人は、かつて大工だったという。町の家の多くを建て、柱の癖も、住人の家族構成も、覚えていた。


「家は流れても、手を伸ばしたことまで流されちゃいかん」


 老人はそう言って笑った。


 数日後、奈緒は老人の家を訪ねた。

 そこにも、泥の線が一本あった。しかし、白い線はなかった。


「どうして、ご自分の家には引かないんですか」


 老人はしばらく黙っていた。


「わしは、誰にも手を伸ばせなかったからな」


 豪雨の夜、老人は一人で家にいた。

近所の人が何度も避難を促したが、耳を貸さなかった。やがて水が押し寄せ、足がすくみ、声さえ出せなくなった。


 救助されたとき、老人は泣いていたという。


「人に迷惑をかけてまで、生き残ってしまった。そんなことを思っておった」


 奈緒は、老人の手を見た。

 節くれだった、何十年も木を削ってきた手だった。


「でも、あなたがいなかったら、あの線は残らなかった」


 そう言うと、老人は困ったように目を細めた。


「誰かが手を伸ばすには、伸ばされる側も、そこにいなきゃならんのだよ」


 翌朝、老人は避難所の壁に白い線を引いた。


 奈緒には、まだ意味がわからなかった。


「ここは、どなたかが誰かを助けた場所なんですか」


「いや」


 老人は刷毛を奈緒に渡した。


「昨日、あんたがわしを立たせてくれた高さだ」


 奈緒は息をのんだ。


 あの日、避難所の階段で、老人は泥に足を取られて転んだ。

奈緒は咄嗟に腕をつかみ、二人で泥だらけになりながら起き上がった。ほんの数秒のことだった。

礼を言われても、忘れてしまうほどのことだった。


「そんなの、助けたうちに入りません」


「そうかい」


 老人は笑った。


「なら、なおさら残しておかんとな。大げさなことだけが、人を生かすんじゃない」


 それから町には、白い線が増えていった。


 子どもが泣いて母親の手を握った高さ。

 隣人が、知らない老人を背負った高さ。

 救助を待ちながら、互いに腕をつかみ合った高さ。


 線の下には、名前も、日付も書かなかった。

 誰が偉かったかを決めないために。


 半年後、復旧工事が進み、町の壁は次々と塗り直された。白い線も、少しずつ消えていった。


 奈緒は寂しかったが、老人は気にしていなかった。


「もう、覚えている人がいるからな」


 春のある日、新しい町役場の壁に、小さな白い線が一本引かれた。


 その横に、子どもの丸い字が添えられていた。


 ――きのう、ぼくが、おじいちゃんの手をひいた高さ。


 奈緒が顔を上げると、老人は少し離れた場所で、その子の手を握っていた。


 老人の手は、もう誰かを助けるには弱々しく見えた。


 けれど、お互いを支えるには十分だった。



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