夜の声
午前1時。
隣で夫が寝息を立てているのを確かめて、私はスマホの明るさを最低にし、「離婚 手続き 流れ」と打った。
結婚7年、共働き。
会話は「ゴミ出した?」「うん」「ありがとう」で足りてしまう。
足りてしまうことが、いちばん怖かった。
その夜、隣から声がした。
「……ありがとう」
寝言だった。夫の環は、昼間よりずっとやわらかい声で続けた。
「……いつも、ありがとう。……ここにいてくれて」
画面の光が、にじんだ。
それから、環の寝言は夜ごとに増えた。
「……カレー、うまかった。毎回言えなくて、ごめん」
「……今日の髪、いいと思った」
「……きみが笑うと、家が明るくなる」
きみ。昼間の夫は、私をそう呼ばない。
「ねえ」か「おい」だ。だからしばらくは疑った。夢の中の「きみ」は、私じゃない誰かなんじゃないかと。
でも寝言は決まって、私がため息をついたり、鼻をすすったりした直後に始まった。
まるで、私が起きている気配を知っているみたいに。
私はスマホに「寝言メモ」を作った。
『3月12日 弁当の卵焼き、実は毎朝楽しみ』
『3月19日 全部やらせて、ごめん』
夜中に読み返すたび、胸の奥が熱くなる。寝言にしては、やけに滑舌がいいことには、気づかないふりをして。
4月のある夜、私はとうとう、暗闇に向かって聞いた。
「……ねえ。起きてる?」
返事は、0.5秒で来た。
「起きてない」
沈黙。私は天井を見たまま固まった。
隣の夫も、たぶん固まっていた。
布団の中で、お互いの「しまった」が聞こえるようだった。
そのとき、思い出した。
去年の冬、ケンカの帰りの電車で、私が投げやりに言ったのだ。
『寝言って本音が出るんだって。あなたの寝言なら、少しは分かるのにね』
夫は「ふうん」としか言わなかった。
あの人は、本気で受け取っていたのだ。
話すのが苦手な人が、寝たふりをして、毎晩、本音を届けてくれていた。
笑いたいのに、涙が先に出た。私はできるだけ寝ぼけた声で言った。
「……んん。寝言、言うね。返事はいらない」
シーツが、かすかに動く。
「……ひとりで頑張ってるって、思ってた。ごめん。……ほんとは、ずっと聞きたかった。……ありがとう。……だいすき」
長い沈黙のあと、鼻をすする音と、震えた寝言が返ってきた。
「……あの夜、画面、見えてた。……こわかった。……行かないで」
「……どこにも、行かない」
「……ぐう」
「……いまの、いびき?」
「……寝てる」
私たちは声を殺して、朝まで笑った。
今も昼間の会話は「ゴミ出した?」「うん」のままだ。
でも夜になると、私たちは世界でいちばんおしゃべりな夫婦になる。
朝、夫が眠そうに聞く。
「俺、昨日なんか言ってた?」
私はコーヒーを渡して、とぼける。
「ううん、ぜんぜん」
トーストをかじる夫の耳が、少しだけ赤い。
その夜も、午前1時。隣から、小さな咳払いが聞こえた。
「……きみ、起きてる?」
私は、0.5秒で答える。
「起きてない」
暗闇の中で、ふたり分の笑いをこらえる音が、重なった。




