工事中につき
わたしの仕事は、頭を下げることだ。
朝八時から夕方五時まで、何度も何度も。
足もとの看板には「工事中 ご迷惑をおかけします」とある。
通り過ぎる車の運転手は、誰もわたしを見ない。それでいい。この仕事は、見られないことを前提に成り立っている。
道の向かいに、古い二階家がある。
ある朝、その二階のカーテンが少しだけ開いて、白髪の老婦人が顔を出した。彼女はわたしを見て、小さく会釈をした。
驚いた、と言うべきだろう。
わたしに頭を下げ返す者など、これまで一人もいなかったのだから。
翌朝も、その次の朝も、彼女は同じ時刻に窓辺に立った。
お互いの、静かな挨拶。
念のために言っておくと、わたしは人間ではない。
腹に電池を抱えた、工事用のおじぎ人形だ。現場の作業員たちは「ヤマさん」と呼ぶ。
それでも彼女が窓辺に立つ朝は、胸のモーターの音がほんの少し軽い。気のせいだろう。人形に気などあるはずがない。
「ばあちゃん、そいつ、電池で動いてるだけですよ」
見かねた現場監督がそう言った日があった。
「知ってますよ」
彼女は笑って、毛糸のマフラーをわたしの首に巻いた。
知ったうえで、毎朝、頭を下げていたのだ。
それから彼女は、窓から手を振るようになった。
ときには作業員たちにみかんを配った。ヘルメットの男たちは照れくさそうに受け取り、わたしの足もとにも、ひとつ置いていった。
九十日目、雨の朝。
彼女は傘をさして道を渡ってきて、その半分をわたしにかざした。
「うちの人もね、あなたと同じ仕事をしてたの」
定年後、七十歳まで交通誘導員をしていたという。
「帰ってくるたびに言うのよ。『誰も見ちゃいないよ』って、笑いながら。膝を悪くしても立ち続けてね。私は『そう』としか返さなかった。お疲れさまのひと言も。頭を下げて稼いでくるのが、当たり前だと思ってたの」
雨粒がヘルメットを叩いた。
「亡くなって三年。ずっと考えてたの。たった一回でいいから、誰かが返してあげていたらって」
彼女はわたしを見上げた。
「だから、これはあの人の分。勝手でごめんなさいね」
謝ることなど何もない。
毎日の中で、はじめて、返事がしたいと思った。
けれどわたしにできるのは、頭を下げることだけだった。だから、下げた。数秒ごとに、何度でも。
工事の最終日、電池が切れかけていた。
新しくなったアスファルトの上で、現場監督が彼女に頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました。工事、終わりです」
「いいえ、お疲れさまでした」
彼女は深く頭を下げた。
それから彼女は、わたしの前に立った。
いちばん良い外出着で、背筋を伸ばし、ゆっくりと、深く、腰を折った。
わたしも沈んだ。
そして、起き上がれなかった。電池が、そこで尽きたのだ。
彼女が顔を上げるまでの長い間、わたしは頭を下げたままでいた。
何万回と繰り返してきた中で、はじめて数秒で終わらなかった、誰かのための、本当のお辞儀だった。
「どうせ廃棄なんで」と頭をかきながら、監督はわたしをトラックに積み、彼女の家まで運んでくれた。
作業員たちが帰ると、玄関にはわたしと彼女だけが残った。
「あの人が帰ってきた日、私はいつも、テレビから顔も上げなかったの」
彼女は深く息を吸った。
「おかえりなさい。——お疲れさまでした」
三年分の声だった。
あたたかい手が、わたしのヘルメットにそっと置かれる。
もう、起き上がらなくていい。
深く頭を下げたまま、わたしは思った。
――ただいま。




