第二の人生
実家を売ることになったのは、父が施設に入った春だった。
父は町工場の職人で、日曜も機械の前にいた。
私は父と出かけた記憶がない。褒められた記憶も、ほとんどない。通知表を見せても、父は「そうか」とだけ言って旋盤に戻った。
去年の秋、その父が脳梗塞で倒れた。
右半身と言葉の大半を失い、面会に行っても、天気の話すらできなかった。
私はその冬、出社しようとすると足が動かなくなり、会社を辞めた。
三十四歳、無職。父には「在宅勤務になった」と嘘をついた。言葉を失った父なら、何も訊けないと思ったのだ。
押入れの奥から、母のタブレットが出てきた。
縁の付箋には、母の字で〈ぱすわーど けっこんきねんび〉。
母が亡くなる前の半年、病室で遊んでいたオンラインゲームが入っていた。
「ゲームなら旅行に行けるでしょ」
と笑って、母は白い魔法使い「ヨウ」になった。
無理やり誘われた父の分身は、無骨な大男の騎士「ゲン」。
二人は「いつか湖で釣りをしよう」と約束して、その湖にたどり着く前に、母は逝った。
フレンド欄を見て、息をのんだ。
ゲンが「オンライン」になっている。
夕方五時。
始まりの町の、夕焼けの噴水広場。
ヨウのいない広場に、ゲンは一人で立っていた。
施設の個室で、左手一本でタブレットを抱える父の姿が浮かんだ。
気づくと、私はヨウでログインしていた。
〈ヨウがログインしました〉
噴水の前の大男が、ゆっくり振り向く。
〈……ヨウ?〉
母の入院中によく見た、ぎこちないひらがな。喉の奥が熱くなって、私は打った。
〈ただいま、あなた〉
それから毎晩九時、私は母になった。
夕焼けの噴水のふちに並んで座り、十五分だけ、夫婦のふりをする。
〈きょう あるいた ごほ〉
〈えらいわね〉
〈めし ぜんぶ くった〉
〈あら、すごい〉
職員さんが言う。
「最近、お父さん、リハビリに前向きなんですよ」
現実の面会では、私たちは相変わらず黙っていた。
それでも父は、帰り際に必ず、動く左手で私の袖をつまんだ。
後ろめたさはあった。
けれど、画面の向こうの「ごほ」に、いつの間にか私のほうが励まされていた。
ある夜、父が打った。
〈びょういんで おれは なにも いって やれなかった〉
〈ちゃんと伝わってたわよ〉
〈ミオは くってるか ひるまに よく くる しごとは〉
心臓が跳ねた。
〈あの子は頑張りすぎたの。少し休ませてあげて〉
母のふりをして、私は自分のことを打っていた。間があって、返事が届いた。
〈そうか やすませて やれ よく やった と つたえて くれ〉
その夜、私は画面の前で、初めて声を出して泣いた。
もう限界だった。次の夜、打った。
〈ゲンさん、ごめんなさい。私、本当は〉
〈しってる〉
指が止まる。
〈さいしょの よるから しってる ヨウは てんも かんじも つかわない〉
顔が熱くなった。
三か月も、私は一人で芝居をしていたのか。
〈じゃあ、どうして続けたの〉
長い沈黙。噴水の水音だけが流れる。
〈おまえが ヨウの ふりを するなら〉
〈おれも ヨウに はなす ふりを すれば〉
〈かおを みては いえん ことも いえる〉
〈おまえに きかせて やれると おもった〉
言えなかった言葉を、父は三か月、亡き妻への報告のふりをして、私に届け続けていたのだ。
あの「ごほ」も「ぜんぶ」も、きっと私を安心させるための報告だった。
〈ミオは じまんの むすめだ〉
涙で、画面の大男が二重に見えた。
ゲンの右手が、ゆっくり上がった。現実では動かないその手が、ここでは動く。
〈ここでは おれは はしれる じんせい にしゅうめ だ〉
〈にしゅうめの おやじを やらせて くれ まず つりだ〉
次の日曜、面会室。
父は私を見つめ、長い時間をかけて唇を動かした。
「……み、お」
脳梗塞のあと、初めて呼ばれた名前だった。
帰り際、職員さんが練習ノートを見せてくれた。震える左手の字で、「みお」がページいっぱいに並んでいた。
その夜も私は、母の席を借りてヨウでログインした。
釣り場へ向かう道で、走れるはずのゲンは、私の歩幅に合わせてゆっくり歩いてくれた。
夕焼けは動かない。
それでも二つの影は、少しずつ前へ進んでいた。




