都の苑
会社を辞めた夜、わたしはオフィス街の谷間にある小さな庭に寄った。
入口の看板には「都の苑」とだけある。
ビルに挟まれた畳十枚ほどの土地に、ベンチが一つ、山茶花が一本、名前も知らない草花が少し。
任された仕事が、いつのまにか誰かの数字に置き換わっていた。その帰り道だった。
暗がりの隅で、ミントがうなだれていた。ベンチの下には錆びたジョウロ。わたしは水道で水を汲み、ミントにたっぷりかけた。
「喉かわいたよね」
声に出してから、自分で笑ってしまった。
誰かのために何かをしたのは、久しぶりだった。
翌日から、毎晩十一時に通った。
昼は履歴書を書いて、面接で落ちて、夜だけ「世話係」になる。その小さな日課が、崩れかけたわたしの背骨になった。
けれど二週間たっても、ミントは元気にならない。葉は黄ばみ、山茶花まで葉を落とし始めた。
足りないのだ、と思い、水を増やした。増やすほど、悪くなった。
おかしいと思ったのは、土だった。わたしが来る前から、いつも黒く湿っている。
区役所に電話をすると、担当者は書類をめくる音のあとで言った。
「あの苑の管理契約は五年前に切れていまして、現在、管理者はおりません」
「じゃあ、誰が……」
言いかけて、黙った。
土曜の朝五時、わたしは植え込みの陰に隠れた。
最初に現れたのは、杖をついた老人だった。慣れた手つきでジョウロを満たし、ミントにざぶざぶ注ぐ。
「誰も世話せんからなあ。可哀想で」
昼には、配達員の青年がヘルメットのまま水筒の水をそそいだ。夕方は塾帰りの小学生。夜勤明けの看護師。保育士の女性。
五人。みんな、ここを「誰にも見捨てられた庭」だと思い、自分だけがこっそり救っているつもりだった。わたしと同じように。
もう黙っていられず飛び出すと、一斉にこちらを見て、一斉にジョウロを背中に隠した。その滑稽さに、誰からともなく吹き出した。
老人は帽子を取り、指を折ってしばらく数えてから言った。
「つまり、六人がかりで、こいつを溺れさせとったわけか」
笑い声が、ビルの谷間に気持ちよく響いた。ミントの根は、本当に腐りかけていた。
ベンチに六人並んで、ノートの切れ端で当番表を作った。
調べると、水やりは週に二回で十分らしい。
「じゃあ、ほかの日は?」
と小学生が訊いた。
「ここに来る理由がなくなると、困る」
声の小さくなったその子に、保育士が言った。
「理由なんて要らないよ。来ればいいの」
老人が、鼻をすすった。
亡くなった奥さんと、昔ここで弁当を食べたのだと、あとで教えてくれた。
それからの苑は、水をやらない日のほうがにぎやかになった。
老人は将棋盤を持ち込み、青年は配達の合間に缶コーヒーを飲み、看護師は朝の光の中で眠り、小学生は宿題を広げる。
誰も世話をしない日の庭で、六人が、お互いの世話を焼いていた。
わたしは春に、小さな会社への再就職が決まった。面接で話せたのは、ミントのことばかりだった。それがいちばん評価されたらしい。
四月、根を張り直したミントが、白く小さな花をつけた。
その朝、入口の看板の端に、誰かが油性ペンで書き足していた。
――管理者。
その下に、六つの名前が、六通りの字で並んでいる。
いちばん下には、ひと呼吸ぶんの空白が残されていて、小さな字でこうあった。
「次の人の分」
わたしはジョウロを置き、ペンを借りに、ベンチへ向かった。ペンの持ち主はもう笑っていた。




