引き分けの夏
八月最後の日曜日。
母が亡くなって三度目の夏の終わりを、僕は今年も実家のベランダで迎えた。
毎年この夜、父は線香花火を二本だけやる。百均のバケツに水を張り、小さな植木鉢に砂を詰めて、一本をそこに挿す。
もう一本は、自分の指先に。
鉢の分は、母の分だ。
そう思うと、いつも何も言えなくなる。
「せーの」
父の声で、二つの火がぱちんと点いた。
橙色の玉がふくらみ、松葉のような火花が散る。床に、揺れる影がふたつ。
先に落ちたのは、鉢の火だった。ほとんど間を置かず、父の火玉もぽとりと落ちる。
「……引き分けだな」
「また? 去年も一昨年も、そう言ってたよね」
父の肩が、ほんの少し跳ねた。
「たまたまだ」
「三年連続で? 僕、見てたよ。母さんの火が落ちたあと、父さん、指をちょんって揺らした」
父はしばらく黙っていた。遠くで、鳴き遅れた蝉がジジ、と途切れる。
やがて観念したように、父は携帯を差し出した。
家族で使っていた共有メモ。
タイトルは「花火 勝敗」。
結婚した年 △
二年目 △
三年目 △
……
二十六年分、すべて△だった。
「本気でやって、二十六回も引き分けるわけないだろ」父は鼻を鳴らした。「ズルだよ。俺が毎年、あいつの火を見て合わせてた」
「なんで」
「勝っても負けても、あいつすぐ『片付けよっか』って立つんだ。引き分けなら『もう一本』って言える。そうやって、袋が空になるまでやった」
父は咳払いをして、鉢に目をやった。
「一人だと、二本で足りるんだよ。再戦する相手がいないからな」
僕は画面を下にスクロールした。
表の下に空白が続いて、先にまだ続きがあった。
父は毎年、最後の行に△を足すだけで、その先を見たことがなかったらしい。
〈追記。あの人、毎年私の火を見てから落としてます。バレバレ。かわいいので、気づかないふりをしています。
でも本当は、私もあの人の火が弱るのを見て、合わせてました。
先に終わるのも、最後に残るのも、さみしいから。二人分のズルがぴったり重なって、毎年引き分け。内緒ね〉
読み終えても、父は画面から目を離さなかった。
「……嘘が下手なくせに」
かすれた声だった。
それから肩を震わせて、笑ったのか泣いたのか分からない息を吐いた。
「二十六年、二人して、何やってたんだ」
夜風がバケツの水面を揺らす。
僕は袋から、新しい線香花火を三本抜いた。
「ねえ、今年はズルなしでやろうよ。僕も入る」
「やめとけ」父は首を振った。「決着がついたら、終わっちまう」
「終わらないよ。負けた方は、来年取り返したくなるでしょ。再戦するんだよ。母さんがそうしてたみたいに」
父は長いこと僕の顔を見ていた。
それから黙って、鉢の前にしゃがんだ。
「……せーの」
三つの火が灯る。今度は誰も、誰にも合わせなかった。
最初に父のが落ちた。次に、僕の。
最後まで粘ったのは、鉢の火だった。小さく、小さくなって、それでも最後にひとつ大きく弾けてから、静かに闇へ落ちた。
結婚して二十九年目の夏にして、初めての決着だった。
「……勝ち逃げか、あいつ」
父は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「来年、取り返す。袋、でかいの買っとけ」
「了解。審判は僕ね」
昼の熱を、夜風がゆっくり連れていく。
夏の終わりは、生まれて初めて、次の勝負までの待ち時間になった。




