山の音
祖父の四十九日が過ぎても、祖母は眠れずにいた。
「山がな、鳴らんのだわ」
ビデオ通話の画面で、祖母は目の下にうっすら影をつくって笑った。
長野の山裾にある、祖父が林業で私の母を育てた古い家だ。
「山が鳴らないって、風の音とか?」
「ちがう。山の音」
「だから、どんな」
「山の音は、山の音だに」
話はいつもそこで行き止まる。
私は音響エンジニアだ。音のことで「わからない」とは言いたくなかった。
まず自然音のプレイリストを送り、次にホワイトノイズのアプリ、それからちょっといい小型スピーカーを送った。
祖母は毎回「ええ音だねえ」と褒めてくれたが、翌週にはクマが濃くなっていた。
だから金曜の夜、マイクとレコーダーを抱えて新幹線に乗った。
本物を録ればいい。
沢の水音、尾根を渡る風、梟。
祖父が毎晩聴いていたはずの山を、丸ごと持ち帰ればいい。
真夜中、ヘッドライトひとつで裏山に入り、明け方まで録った。
冬の手前の山は驚くほど饒舌だった。木が軋み、落ち葉が転がり、遠くで鹿が鳴いた。我ながら、いい録れ高だと思った。
朝、居間で再生した。祖母は目を閉じて、じっと聴いていた。そして静かに首を振った。
「ええ音だけど、これじゃないわ」
悔しかった。
徹夜明けの頭で、私は言った。
「今夜も泊まっていい? 離れで寝るね。私、いびきひどいから」
三ヶ月前、同棲していた人に「工事現場みたい」と言われて以来、私は誰かと同じ部屋では眠らないようにしている。
「何言うとるの。ここで寝とくれ」
祖母は即答した。
「隣に布団、敷いとくで」
夜、祖母の隣で、私は天井を見つめていた。
眠れない。眠ったら、あの音で祖母を起こしてしまう。
けれど徹夜明けの体は正直で、枕元で回しっぱなしにしていたレコーダーの赤いランプを最後に、意識がふっと落ちた。
目が覚めると、朝の光だった。
祖母が台所に立っていた。背中が、ずいぶん軽く見えた。
「よう眠れたわ。何ヶ月ぶりだか」
「えっ。私、うるさくなかった?」
祖母は味噌汁をよそいながら、にやりとした。
「うるさかったに。でもな、久しぶりに鳴ったわ。山が」
意味がわからないまま、私は枕元のレコーダーを再生した。
最初は風かと思った。低くゆっくり満ちてきて、ごう、と喉の奥で岩が転がるように鳴り、ふっと途切れる。
長い静寂のあと、ふうーっと吐き出される。
山鳴りだった。
波形が、大きく呼吸していた。
昨日一晩かけて録ったどんな自然音より、それは山だった。
「……これ、私?」
「あの人もな」祖母は湯気の向こうで言った。
「嫁に来た晩、うるさくて一睡もできんかった。三日目にはあきらめた。一週間で慣れた。一年たったら、あの音がないと眠れんくなっとった」
「……」
「山の音ってのはな、あの人の寝息のことだに。あんた、よう似とる」
笑いながら、私は泣いていた。
うるさいと言われたこの音が、私の欠点だと思っていた音が、誰かにとっては、帰ってくる場所の音だったなんて。
「今夜もここで寝とくれ」
祖母が言った。
「ひとつだけ頼みがある」
「なに?」
「あんたが先に寝てくれんと、わしが安心できんのだに」
その夜、私は録音アプリを消し、いびき検知もやめて、イヤホンを外して布団に入った。
暗闇の中で、山がゆっくり鳴りはじめる。
しばらくして、その隣から、もっと細くて小さな「山」が、遠慮がちに重なってきた。
祖母のいびきだった。
山は、ひとつではなかったのだ。
ふたつの山の音は、ゆっくり重なりながら、冬の夜を越えていった。




