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これはあなたに贈る物語  作者: ノアキ光


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3/6

山の音


祖父の四十九日が過ぎても、祖母は眠れずにいた。


「山がな、鳴らんのだわ」


ビデオ通話の画面で、祖母は目の下にうっすら影をつくって笑った。

長野の山裾にある、祖父が林業で私の母を育てた古い家だ。


「山が鳴らないって、風の音とか?」

「ちがう。山の音」

「だから、どんな」

「山の音は、山の音だに」


話はいつもそこで行き止まる。


私は音響エンジニアだ。音のことで「わからない」とは言いたくなかった。

まず自然音のプレイリストを送り、次にホワイトノイズのアプリ、それからちょっといい小型スピーカーを送った。

祖母は毎回「ええ音だねえ」と褒めてくれたが、翌週にはクマが濃くなっていた。


だから金曜の夜、マイクとレコーダーを抱えて新幹線に乗った。


本物を録ればいい。

沢の水音、尾根を渡る風、梟(ふくろう)。

祖父が毎晩聴いていたはずの山を、丸ごと持ち帰ればいい。


真夜中、ヘッドライトひとつで裏山に入り、明け方まで録った。

冬の手前の山は驚くほど饒舌(じょうぜつ)だった。木が軋み、落ち葉が転がり、遠くで鹿が鳴いた。我ながら、いい録れ高だと思った。


朝、居間で再生した。祖母は目を閉じて、じっと聴いていた。そして静かに首を振った。


「ええ音だけど、これじゃないわ」


悔しかった。

徹夜明けの頭で、私は言った。


「今夜も泊まっていい? 離れで寝るね。私、いびきひどいから」


三ヶ月前、同棲していた人に「工事現場みたい」と言われて以来、私は誰かと同じ部屋では眠らないようにしている。


「何言うとるの。ここで寝とくれ」

祖母は即答した。

「隣に布団、敷いとくで」


夜、祖母の隣で、私は天井を見つめていた。

眠れない。眠ったら、あの音で祖母を起こしてしまう。

けれど徹夜明けの体は正直で、枕元で回しっぱなしにしていたレコーダーの赤いランプを最後に、意識がふっと落ちた。


目が覚めると、朝の光だった。

祖母が台所に立っていた。背中が、ずいぶん軽く見えた。


「よう眠れたわ。何ヶ月ぶりだか」

「えっ。私、うるさくなかった?」


祖母は味噌汁をよそいながら、にやりとした。


「うるさかったに。でもな、久しぶりに鳴ったわ。山が」


意味がわからないまま、私は枕元のレコーダーを再生した。


最初は風かと思った。低くゆっくり満ちてきて、ごう、と喉の奥で岩が転がるように鳴り、ふっと途切れる。

長い静寂のあと、ふうーっと吐き出される。


山鳴りだった。


波形が、大きく呼吸していた。

昨日一晩かけて録ったどんな自然音より、それは山だった。


「……これ、私?」


「あの人もな」祖母は湯気の向こうで言った。

「嫁に来た晩、うるさくて一睡もできんかった。三日目にはあきらめた。一週間で慣れた。一年たったら、あの音がないと眠れんくなっとった」


「……」


「山の音ってのはな、あの人の寝息のことだに。あんた、よう似とる」


笑いながら、私は泣いていた。

うるさいと言われたこの音が、私の欠点だと思っていた音が、誰かにとっては、帰ってくる場所の音だったなんて。


「今夜もここで寝とくれ」

祖母が言った。

「ひとつだけ頼みがある」


「なに?」


「あんたが先に寝てくれんと、わしが安心できんのだに」


その夜、私は録音アプリを消し、いびき検知もやめて、イヤホンを外して布団に入った。


暗闇の中で、山がゆっくり鳴りはじめる。


しばらくして、その隣から、もっと細くて小さな「山」が、遠慮がちに重なってきた。


祖母のいびきだった。


山は、ひとつではなかったのだ。


ふたつの山の音は、ゆっくり重なりながら、冬の夜を越えていった。


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